メディア報道

【房日】150903*直接軍政資料など紹介、戦後70年展

直接軍政など紹介

文化ホールで戦後70年展

(房日新聞2015.9.3付) ‥⇒印刷用PDF

「第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会」(5〜7日・南総文化ホールなど)の関連行事として、館山の直接軍政に関わる資料などを展示した「戦後70年」展が同ホールギャラリーで開催されている。8日まで。

館山は、1945年9月3日に米軍が上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれた。

戦後70年展では、館山海軍航空隊の滑走台に上陸する米軍の写真(テキサス軍事博物館提供)や米占領軍を撮影した記録映画の静止画など直接軍政関連の資料を掲示。

安房の若者たちと戦争と題して、勤労奉仕作業に出る安房高女の生徒など戦中、戦後の同高女、安房中の写真なども掲示されている。

【東京】150903*本土唯一、軍政敷かれた館山

本土唯一、軍政敷かれた館山

米軍上陸など写真17点を公開、地元NPO代表が入手

(東京新聞千葉房総版2015.9.3付)⇒印刷用PDF

70年前の9月2日は日本が降伏文書に調印した日。翌3日には米兵が館山湾から本土に続々と上陸した-。そんな終戦直後の貴重な写真を、館山市の郷土史研究者で、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表、愛沢伸雄(あいざわのぶお)さん(63)が米国の博物館から入手した。同市の南総文化ホールで開催中の「戦後七十年展」で公開されている。

(北浜修)

.

愛沢さんは当時の資料や写真などを収集しており、今回新たに米テキサス軍事博物館から17点の写真を提供された。いずれも米側の撮影とみられる。

注目されるのは「館山に上陸する米軍」。1945(昭和20)年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号上で日本側全権の重光葵(しげみつまもる)外相らが出席し、降伏文書の調印が行われたが、翌日に米兵約3,500人が館山湾へ上陸する様子を撮影した一枚だ。

愛沢さんによると、これまで日本で見られた同じカットの写真に比べて、トリミングされておらず左右の幅が広い。右端に背広姿とみられる男性が写っている。「館山に設置された政府の出先機関、館山終戦連絡委員会の人物ではないか」とみる。

愛沢さんの研究では、降伏調印に先立つ8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場(神奈川県)に到着。その同じ日に米軍の先遣隊(100人規模)が館山入りし、同委員会と本隊上陸について事前協議したことが分かっているという。

ほかの写真は、当時の米兵や市民の様子をうかがわせ、興味深い。「館山の病院」(撮影は9月12日)では、院内で米兵が日本人医師と患者の様子を見ている。左端の人物は日系の米兵で通訳しているとみられる。「館山のおみやげ店」(9月20日)は、米兵とやりとりする日本人店員の姿がある。

愛沢さんは長年の研究を通して、米軍が9月3〜6日の4日間、本土で唯一、館山で「軍政」を敷いたと主張する。米軍が三日に市内の学校、劇場や酒場の閉鎖、市民の夜間外出禁止などを命令したことによる。これは同委員会が政府を通じて米側に中止を求め、解除された。

米側が当初、日本を軍政統治する計画だったことは知られている。2日の降伏調印直後、連合国軍総司令部(GHQ)は立法、行政、司法三権の制限や、円を廃止し軍票の配布などを通告。翌3日に発表予定だったが、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣(当時)の重光葵外相らが強硬に反対し、施行されなかった。

軍票配布などはなかったものの、館山が4日間「軍政」下にあったとする背景を、愛沢さんは「米側には敵地へ乗り込むように日本人への警戒感があった。館山は東京湾の入り口で海軍の基地もあったが、東京や横浜から離れており、占領のモデルになると見ていたのでは」と説明する。

今回入手した写真を見て、「終戦直後、米兵と館山市民は良好な関係だったことがあらためて分かる貴重なもの。友好的な日本人の態度は、その後の米側の対日占領政策に影響を与えているからだ」と話す。

戦後70年展は8日まで。午前10時〜午後5時。7日は休館。入場無料。また5、6の両日、南総文化ホールと市コミュニティセンターに各地で戦跡保存活動をする関係者らが集い「戦争遺跡保存全国シンポジウム」を開く。愛沢さんは六日の会合で米軍の館山上陸について発言する予定。問い合わせは、安房文化遺産フォーラム=電0470(22)8271=へ。

【房日展望台】150902*「赤い鯨と白い蛇」再上映

「赤い鯨と白い蛇」再上映

(房日新聞2015.9.2)

館山を舞台とした名画「赤い鯨と白い蛇」の上映会が5日、南総文化ホールで開かれる。第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム千葉県館山大会のプレイベントとして午前10時から上映が始まる。

この映画は今からちょうど10年前に撮影された作品で、監督が安房南高卒業生のせんぼんよしこ氏、館山の美しい風景を映像作品として全編にわたって見ることができるということで当時大変な話題を呼んだ。2007年に同ホールで行われた上映会は1200人収容できる大ホールが二度満席になり、同ホールから館山バイパス沿いに車の大行列ができた。それでも入りきらず、たしか追加上映が開催されたと記憶している。

そのときにご覧になった方は多いだろうし、その後、DVDで見たという人も多いだろうが、今改めてこの名作を大きなスクリーンで見ることができる機会を得たことは貴重なことである。

せんぼん氏は「戦争はこの映画のテーマではないのですが・・・・・・」と語っている。この映画のテーマは、自分に正直に生きる、そして自分のことを忘れないでほしいということである。

映画は世代も育ちも異なる5人の女性の日常を描く。香川京子演ずる少しぼけ始めておぼつかなくなった老女が、むかし疎開先の館山で知り合い、恋心を寄せた特攻隊将校のことを忘れたくない、忘れてはいけないとう思いを募らせることがストーリーの発端となり、テーマにもなっている。

老女を館山の古民家に連れてくるのが宮路真緒演ずる現代っ子の孫で、彼女が同棲している彼氏の子どもを身ごもっていることを知る。古民家にはこの家を相続している浅田美代子がおり、その娘を演ずる坂野真理は3年前に釣りに行ってくるといったきり帰ってこない父親のことが忘れられない。浅田は夫を忘れるために古民家を取り壊そうとしている。そこへ詐欺まがいの商法で客に追われ、大金を持って逃げている樹木希林がやってくる。樹木は不仲の夫からの電話にでようとはしない。

映画に男性は登場しない。男性はあくまでも5人の女性の日常を通した影として描かれている。そして、撮影時70代半ばで初めて映画のメガホンをとった監督せんぼんよしこ氏は、同じように、ストーリーの影のテーマとして戦争を浮き彫りにしている。

2015.9.2(F)

【房日】150901*館山舞台に全国シンポ

館山舞台に全国シンポ

5日から3日間、戦跡保存と平和考える

(房日新聞2015.9.1付)

戦争遺跡の保存と平和を考える「第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム千葉県館山大会」が5日から3日間、館山市の南総文化ホールなどを会場に開催される。戦跡と文化財を活かしたまちづくりについてのパネルディスカッション、館山の直接軍政をテーマにした特別分科会などがあり、全国から関係者約300人が集まる。市民の参加も呼び掛けている。

館山は2004年第8回大会でも会場となっている。その後の戦跡、文化財を活用した民官協働のまちづくりが評価され、2度目の開催となった。戦争遺跡保存全国ネットワーク、館山大会実行委の主催で、NPO法人安房文化遺産フォーラムの共催。

初日の5日は、南総文化ホールで全体会(午後1時から)。実行委の松苗禮子委員長による「富田先生の青い目の人形」の語りで幕開け。

韓国光州市立美術館名誉館長の河正雄氏が「『平和の文化』と戦後70年の祈り」と題して記念講演、館山市、沖縄県南風原町、高知県香南市の関係者らによる「戦跡と文化財を活かしたまちづくり」をテーマにしたパネルディスカッションも行われる。

2日目の6日は、館山市コミュニティセンターを会場に分科会(午前9時15分〜午後4時)。館山は本土で唯一直接軍政が敷かれた地で、「米占領軍の館山上陸と直接軍政 証言者のつどい」の特別分科会では、占領軍の上陸シーンの動画や当時を知る人たちの証言がある。3日目の7日は、市内の戦跡を巡るバスツアーが予定されている。

参加費は1日券1000円で、2日券2000円。大学生は半額で、高校生以下は無料。バスツアーも有料で事前予約が必要。プレイベントとして5日には、館山の戦跡を舞台に制作された映画「赤い鯨と白い蛇」(午前10時から)の上映もある。

【房日】150829*映画「赤い鯨と白い蛇」上映

映画「赤い鯨と白い蛇」5日に文化ホールで上映

戦跡保存全国シンポを前に

館山の戦跡を舞台に制作された映画「赤い鯨と白い蛇」が9月5日午前10時から、南総文化ホールで上映される。「戦争遺跡保存全国シンポジウム千葉県館山大会」(5、6、7日)のプレイベント。入場料は1000円で、午後からの同大会にも参加できる。

監督のせんぼんよしこさんは、安房高女・安房南高の卒業生。映画は、少女時代を館山で過ごした体験を重ねた役柄を、香川京子さんが演じ、戦後60年の館山を訪れる物語。やわたのまちなどのシーンもある・前売り券は文化ホールで販売している。

【朝日】150819*戦争を語り継ぐ活動をしている団体

戦争を語り継ぐ活動などをしている主な団体

(朝日新聞2015.8.19付)

市原平和のつどい実行委員会(市原市)

原爆の絵展など開催。鳰川(におかわ)静事務局長。0436・74・2466

沖縄6・23 歌と踊りの実行委員会(柏市)

沖縄慰霊の日に語り継ぐイベント。小林正幸代表。080・3477・8683

柏・麦わらぼうしの会(柏市)

原爆をテーマに朗読劇を行う。村山久美代表。090・9687・7376(事務局)

平和を語り継ぐ会(木更津市)

元教諭らが学校で語り継ぎ授業。山田孝子(のりこ)会長。0438・23・7258(君津教育会館)

戦争体験語り部の会(山武市)

戦争体験者が語り合う。小学校での語り部活動も。高橋照美会長。0475・88・1515

安房文化遺産フォーラム(館山市)

館山市の地下壕(ごう)など戦跡のガイド。愛沢伸雄代表。0470・22・8271

平和祈願うたごえの集い実行委員会(銚子市)

銚子空襲を伝える催しを商店街で。溝口哲広代表。090・4733・3031

千葉市空襲と戦争を語る会(千葉市)

空襲体験を伝え、過去には証言集も作成。白井進代表。090・9306・1583

ちば・戦争体験を伝える会(千葉市)

千葉市空襲などを伝える紙芝居を上演。市川まり子代表。080・5017・1584

野田市戦争かたりべの会(野田市)

語り部活動。映像で証言を残す試みも。日佐戸輝代表。04・7122・1418

【毎日】150902*本土唯一軍政敷かれた館山

本土唯一軍政敷かれた館山、占領軍上陸から4日間

8月28日富津、9月3日館山

(毎日新聞2015.9.2付)⇒印刷用PDF(拡大)

70年前の9月2日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で重光葵外相ら日本代表が降伏文書に調印した。東京湾口に位置し、軍事上の重要拠点だった館山はその翌日から、1945年6月に米軍に占領された沖縄に次いで本土で唯一、占領軍の施政下に置かれた。戦跡保存に取り組むNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(愛沢伸雄代表)が米テキサス軍事博物館から取り寄せた写真や資料は、当時の様子を生々しく伝えている。

資料や関係者の証言などによると、千葉県内に米軍が最初に進駐したのは45年8月28日、先遣隊である米海兵隊の特殊部隊が富津海岸に上陸したのが始まりとされる。海兵隊員は二百数十人。連合国軍最高司令官のマッカーサーが厚木飛行場に降り立った30日には、館山港から上陸。館山海軍飛行隊の基地に入り、富津から館山にかけての海岸線の機雷敷設状況などを調査した。その結果を踏まえ9月3日、ジュリアン・W・カニンガム准将が率いる米陸軍第112騎兵連隊約3500人が館山に上陸した。

愛沢代表は「米軍は東京湾岸を挟む館山と横浜に正規軍を上陸させ、挟み撃ちで首都を制圧する作戦を計画していた」と説明する。

同隊の任務は日本軍の武装解除と民政監督。カニンガム准将は3日付の文書で日本側に米軍司令部による館山地区の占領を宣言した。文書では、日本軍関係者と行政当局に、館山から鴨川にかけてのすべての軍事施設や発電所、燃料施設の位置を記した地図を提出するよう求め、すべての学校の閉鎖、午後7時から午前6時までの外出禁止、酒場や劇場の閉鎖などを命じた。一方で、米兵には神社内への立ち入りを禁じ、文化・芸術品の保護、職務の妨害がない限り一般人に危害を与えないことを指示した。

軍政を敷く前の数日間、海兵隊員が館山市内で婦女暴行2件、同未遂6件、住居侵入16件など36件もの犯罪を起こしていたことが千葉県警察史に記録されている。愛沢代表は「軍政を通じて、米軍の綱紀粛正も図ったのでは」と分析する。

館山での軍政は「日本政府の機能を存続し尊重する」とした連合国軍総司令部の方針と矛盾するため、わずか数日で撤回された。軍政の終了を告げる文書は残されていないが、愛沢代表は安房中学(現安房高)の授業が9月7日から再開されたことを根拠に、館山の軍政は4日間で終わったと推定している。

【中島章隆】

【熊本日日】150824*地下壕戦争遺跡へ整備

地下壕戦争遺跡へ整備

千葉館山市、平和学習、観光の拠点に

(熊本日日新聞2015/8/24)
印刷用PDF(要拡大)

.

錦町で昨年、戦争中に作られた人吉海軍航空隊の地下壕(ごう)や作戦室、無線室などが見つかった。町や地元の住民グループは、戦争遺跡として整備する取り組みを始めた。先行する千葉県館山市では2004年から、館山海軍航空隊・赤山(あかやま)地下壕跡が平和学習や観光資源として活用され、戦後70年の今年も多くの人が訪れている。現地を訪ねた。

今月17日。地元で戦跡の保存活動に取り組むNPO法人安房(あわ)文化遺産フォーラムの金久修さん(70)の案内で地下壕へ。

土のにおいが漂う中を懐中電灯を手に一歩一歩進む。穴はまるで迷路のように四方に延びており、総延長は1・6キロ。頭をかすめるほどの高さの通路の所々に、広さ60畳ほどで高さも数メートルある空間が設けられている。

■首都を守る要塞

「ここは通信部隊が詰め、暗号解読などをしていたそうです」。「壁にはツルハシで削った痕跡が鮮明に残る。地盤がもろいため発破や重機が使えず、ほとんど手堀りで造られたという。

1時間ほどの間に、地元の親子やツアー客が次々に訪れる。「地下壕を造らざるを得なかった戦争というものを、肌で感じてもらえれば」と金久さん。

房総半島の南端、東京湾の入り口に位置する館山市は戦時中、街全体が首都・東京を守るための「要塞(ようさい)」とされた。多くの砲台が造られ、1930年に館山海軍航空隊が置かれた。戦争末期には本土決戦に備え、約7万人の兵士が終結したともいわれる。赤山地下壕は、空襲を避けるための施設とされるが、資料が乏しく、掘られた時期などは判然としない。戦争体験者の証言で、戦闘指揮所や格納庫の存在が明らかになった。

■課題は「安全性」

地下壕は戦後、そのままの状態で放置されていた。戦跡として整備されるきっかけは戦後50年の1995年。地元の高校教師だった愛沢伸雄さん(63)=同NPO代表=らが「歴史教育に生かせないか」と調査や講演活動を始めた。保存を求める市民の声が次第に高まり、館山市も保存・活用に乗り出した。

「負の遺産」のイメージもある戦跡の保存や整備は消極的な自治体も少なくないが、同市は歴史的価値があると判断。97年、子どもたちの平和学習や観光の拠点として生かす方針を決めた。

最大の課題は安全性だった。地下壕は崩落部分もあり、市は本格的な地質調査を実施。04年4月、安全が確認された一部のみ(長さ約250メートル)の公開を始め、翌年には市史跡に指定した。現在も月1回の詳細な点検と、年1回の詳細な検査を欠かさないという。入場料は一般200円、小中高生100円。

■行政と民間連携

今年3月までの11年間の入場者数は17万5千人。昨年度は過去最多の2万4千人が訪れた。同市教委は「戦後70年を迎え、戦争への関心が高まっている」と分析する。内訳は県外から63%で、東京都や神奈川県など首都圏が多い。団体客の割合は36%。小中学・高校の平和学習に利用されるほか観光ツアーの行程に組み込まれるなど観光資源としても定着してきたという。

同市内では、空襲から戦闘機を守る掩体壕(えんたいごう)や砲台跡などの戦跡が47カ所確認されているが、赤山地下壕以外はほとんどが民有地。市が関わることが難しいため、NPOや住民団体が地権者の了解を得て管理やガイドツアー(有料)をしている。

愛沢さんらのNPOにも約20人の「語り部」がいる。同市教委は「行政が及ばない部分を補ってもらっている。民間との連携が大切」と強調する。

戦争遺跡の意義について、愛沢さんは語る。「戦争の悲惨さや当時の人々の暮らしをまざまざと教えてくれる。私たちは貴重な戦跡を残し、伝え続けていかなければならない」

人吉海軍航空隊 錦町も活用チーム

人吉海軍航空隊の地下壕跡からは、作戦室や無線室など約20の施設が見つかった。70年間、地下に眠っていた「戦跡」をまちづくりに生かす動きが始まっている。

同隊は1944年2月に発足。飛行予科練習生が飛行訓練などを受けていたが、1年5カ月で解隊された。旧軍の地下無線室の確認は九州でも数例しかないが、地下壕の存在は地元でもほとんど知られていなかった。

錦町は今年2月、「基地跡活用研究プロジェクトチーム」(6人)を設置した。まずは住民に知ってもらおうと、町広報誌で特集。地区ごとに開く町政座談会でも報告し、情報提供を求めている。

年度内に調査測量などに着手したい考えだが、公開までには、安全性や地権者の了解、費用負担など課題は多い。5年計画で進める予定といい、森本完一町長は「安全性の確保が大前提。戦争の悲惨さを伝える戦跡として、少しずつ整備していければ」と話す。

一方、住民有志らは同地下壕を中心に、人吉市や湯前町などに残る防空壕などの調査・研究に取り組む。金山充さん(64)=湯前町=は「戦跡の保存・活用が、人吉球麿全体の活性化につながればいい」と期待する。

【産経】150811*米軍上陸‥自宅そばに「占領地」(高橋博夫)

千葉から語り継ぐ戦後70年

米軍上陸‥自宅そばに「占領地」顔合わせるうちに親しく、学校に招待も

元館山市教育長・高橋博夫さん

印刷用PDF

終戦から間もない昭和20年8月30日正午ごろ。館山湾から上陸してくる米軍の先遣隊の様子を一目見ようと、国民学校の助教だった高橋博夫さん(87)=館山市沼=は自宅のソテツの木の陰から目をこらした。地域の住民には数日前に「米軍が近く上陸する」と知らされており、周囲の家は戸を閉じ息を潜めている。女性や子供を避難させた家もあり、まち全体が静まりかえっていた。

高橋さんの自宅は海岸を見渡せる場所に位置していたため、館山終戦連絡委員会の職員が不測の事態に備えて待機していた。全員が落ち着かない様子で港の方向を見つめていた。

やがて、東京湾上の艦艇から上陸用舟艇数隻が接岸。上陸してきた米兵の先遣部隊十数人が見えたが、その姿にぎょっとした。上半身裸に短パン姿で、腰には拳銃を携えている。

「日本軍だとあんな恰好は考えられない。『すげぇ国だな、野蛮な国なのかな』と職員の人たちと話したのを覚えている。

その後、米軍の兵士らは日本軍の兵士らとともに車に乗って館山海軍航空隊基地方面に向かっていった。

ああ、負けたのか

高橋さんは、旧制中学を卒業し、終戦の4カ月前に教員不足に陥っていた西岬村立東国民学校(現・西岬小学校、館山市)に助教として勤務していた。

しかし、戦局はすでに厳しく、学校近くの畑でイモやカボチャを作ることがほとんどで、ろくに勉強を教えることはなかった。学校の講堂などに陸軍が駐在していて、使える教室は限られていた。「千葉県が米軍が上陸して来るといわれていて、どこの学校も同じような状況だった」という。

8月15日の玉音放送のラジオは学校で聞いたが、音が悪いのと、慣れない言葉だったためよく分からなかった。ただ、学校に駐屯していた部隊長が「戦争に負けました。次の命令が下るまで乱すことなく待つように」と話、「ああ、負けたのか」と理解した。

教え子たちには日本が負けた事実だけ伝えた。「この後どうなるかなんて自分自身が分からなかった」

いつ銃口が向くか

ミズーリ号での降伏文書調印翌日の20年9月3日、再び米軍の別の部隊が館山に上陸した。高橋さんはこのときの様子も見ていたが「前回と違い、整然と隊列を組んでいた」という。上陸した米軍はその日のうちに高橋さんの自宅そばの道路に沿って鉄条網を敷き、機関銃を設置。鉄条網の中は米軍の「占領地」となった。鉄条網は4日間ほどで撤去されたが、高橋さんは「いつ銃口を向けられるかと怖かった」と振り返る。

鉄条網の撤去後も衛兵の詰所は残され、高橋さんは衛兵と毎朝顔を合わせるうちに米兵らと次第に親しくなった。若い兵士を勤務先の学校に招待したり、「日本文化を学びたい」という将校を自宅に招いてもてなしたりしたことも。「米兵は接してみると威圧的な様子はなく親しみやすかった。こっちも負けた悔しさはなく、人間同士のつきあいができた」という。

戦後は地元の小学校などに勤務し、館山市教育長も務めた。教育現場では、欧米の新たな価値観を取り入れながらも、日本人の誇りを大事にする人づくりに力を入れた。一線を退いた現在、日本社会を「自己中心的行動が目立つようになった」とみる。

「終戦から70年が過ぎ、もう一度、家庭や社会を大事にする日本人らしさを見直すことが必要。そうすれば、戦争のない、よりよい社会が築けるはずだ」

(大島悠亮)

【読売】150812*布良沖の惨劇

戦後70年 第2部 苦悩の記憶

⑦布良沖の惨劇(1945年春)

死傷者 地元に記録なし

(読売新聞千葉2015.8.12付)⇒印刷用PDF


その日も朝から天気が良く、館山市布良(めら)の沖合は春の日差しを受けて青く輝いていた。

布良沖には潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇が1隻、爆雷投下訓練の後、一時停泊していた。昼前になり、突然、伊豆半島方面から米軍の爆撃機が1機、低空で接近してきた。爆音と硝煙が上がり、艦艇はあっという間に船尾から沈んだ。

近くの土手で遊んでいた少年たちから「あ—撃沈だ」との声が上がる。その中の一人、青木辰一さん(83)(館山市相浜)は「米軍機は旋回して来て今度は機銃掃射した」と振り返る。攻撃は一方的だったという。住民は救助に出ることもできず、目の前で初めて見る惨劇をただ眺めているしかなかった。

一部始終は、その土手近くにあった民間防空富崎監視哨からも目撃されていた。監視哨は敵機をいち早く見つける施設で、14〜18歳の少年らが詰めていた。

監視哨にいた豊崎栄吉さん(86)(同市布良)は双眼鏡で艦艇が攻撃される様子を目撃し哨長が本部に「布良沖で駆潜艇訓練中」と報告するのを聞いた。哨長の命令を受け富崎漁港に状況視察に出ると、地元の漁船に救助された大勢の将兵たちが運ばれており、「海軍の若い人たちが多かった。血だらけの負傷兵を住民が手当てし、海女さんたちが体で温めていた」と証言する。

多数の将兵が死傷したとされるにもかかわらず、惨劇の記録は地元に残っていない。

艦艇はそこで何をしていたのか。

東京湾の入り口にあたる布良沖は日清、日露戦争の頃から海軍の演習場となっていたが、当時、県上空では既に米軍機が定期的に偵察活動をしており、危険な状態だった。「そんな場所で訓練するのは理解できない」と豊崎さん。艦艇の乗員は、爆雷で浮き上がった魚をボートから回収していたという。

記録がないため、死傷者数、艦艇の名前、訓練目的は不明のままだ。港に行った豊崎さんは「地元の警防団長が負傷者に艦長名を聞いたが、『指揮者死亡』と答えていた」と話す。死傷者は館山海軍砲術学校から来た関係者が運び、地元住民に説明はなかった。

また、惨劇の日時についても、東京大空襲(3月10日)の後から、横浜大空襲(5月29日)あたりまでの間と、特定できていない。

埋もれた戦災の聞き取りを続ける元中学教師の山口栄彦さん(84)(同市大神宮)は「かなりの人が見ているのに日時すらはっきりしない。証言者が出てきたことは全容解明につながる」と期待している。

住民の記憶にのみ残る「布良沖の惨劇」。70年がたち、その過去を知る人も少なくなった。米軍史料を含め、史実を掘り起こす作業は始まったばかりだ。

館山 軍事上の重要拠点

布良沖を含む館山市一帯は帝都・東京の海の入り口という地理的要因から軍事上の重要拠点だった。

東京湾要塞が江戸末期から明治時代に設置され、終戦まで運用された。布良地区には古くは気象観測や海上監視を担う海軍の施設「布良望楼」が設置され、先の大戦がはじまると敵機を見つける監視哨もできた。近くの山には海軍のレーダー基地が造られ、布良沖は海軍の演習場にもなっていた。

米軍も布良の陸と海の役割を把握し、偵察や拠点攻撃をしたとみられる。