地域の歴史を掘り起こすことで国際交流を推進/NPO法人安房文化遺産フォーラム
無印良品サイト「ローカルニッポン」で
NPO法人安房文化遺産フォーラムの取組が紹介されました。
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文化歴史〜戦跡考⑥
(読売新聞2015.9.30付)‥⇒印刷用PDF
地下壕の壁面や天井は、地層のしま模様が鮮やかだ。壕が掘られた丘陵は、かつて海底に堆積した砂岩や泥岩でできている。「もろい砂岩はダイナマイトを使うと崩れてしまう。だからツルハシで掘られました」。無数に残るツルハシの跡を懐中電灯で照らしでガイドの男性が説明すると、ガイドから感嘆の声が上がった。
千葉県館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕跡は、2004年4月から一般公開され、毎月第一日曜日には、NPO法人「安房文化遺産フォーラム」の会員によるガイドが行われている。
確認されているだけで延長1.6キロに及ぶ壕が、いつ、何の目的で掘られたのか。確かなことは不明だ。資料がほとんど残っていないからだ。壕内には、発電施設や病室、電信室もあったとされ、戦争末期には、海軍航空隊の防空壕として使われていたとされる。
軍による大規模地下壕は、松代大本営(長野市)や日吉台地下壕(横浜市)のように、本土空襲の脅威が増してから掘られたものが知られている。だが、赤山地下壕は、1941年の真珠湾攻撃前から工事していた、という地元住民の証言がある。同法人の愛沢伸雄代表(63)は、「気密性が高い任務のため、開戦前から準備されていたのでは」とみる。
館山は軍都だった。東京湾の入り口にあり、館山海軍航空隊のほか、東京湾要塞の砲台、海軍砲術学校なども置かれた。今でも、市内の各所に砲台跡や飛行機の掩体(えんたい)壕などが残り、その名残を伝える。
戦後、赤山地下壕跡は放置され、キノコ栽培に使われた時期もあった。高校教師だった愛沢さんが、95年の戦後50年にちなんで地域の歴史を学ぶ教材を探す中で価値に気づき、保存を呼びかけ始めた。愛沢さんは壕とは別に、市内にある戦国大名の里見氏が居城とした稲村城跡の保存運動にもかかわってきた。「戦争遺跡も里見の城も、人類が生んだ文化財という意味では同じ。二つを同時に進めたからこそ価値を発信できた」と言う。壕は05年に市の史跡に、城跡は12年に国の史跡に指定された。
現在、市は「館山歴史公園都市」を掲げ、赤山地下壕跡や稲村城跡など市内の歴史遺産をネットワーク化し、観光資源にする取り組みを進める。壕の見学者数は昨年度、過去最高の2万4028人に達した。市の調査では、同市を訪れる観光客の目的はここ数年、かつてメインだった「海水浴」を「文化財見学」が上回り続けている。
「戦争遺跡は、ただ残すだけでは研究者や物好きしか来ない。地域が磨きをかけてこそ意味がある」と愛沢さん。日本中に残る「負の遺産」は、活用の仕方次第で地域の宝に代わる可能性を秘めている。
(清岡央)
(読売新聞2015.9.7付)‥⇒印刷用PDF
戦争遺跡保存全国シンポジウム特別分科会「米占領軍の館山上陸と直接軍政/証言者のつどい」が6日、館山市内で開かれた。同市布良沖で撃沈された潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇を巡り、惨劇の概要が新たに判明したことなどが報告された。
撃沈を証言したのは「民防空富崎監視哨」の哨員だった豊崎栄吉さん(86)(同市布良)。「撃沈から生還した士官の回想手記が最近見つかり、発生日が1945年5月29日で、船種は練習駆潜特務艇とわかった。救助には地元民が大勢かかわった。犠牲者を慰霊したい」と黙とうをささげた。
また、同市宮城の地下要塞「赤山地下壕(ごう)」建設で退去させられた青山学院水泳部合宿について、同学院高等部の佐藤隆一教諭が「軍からの退去勧告は41年9月」とする新資料を紹介、議論がある同地下壕の建設開始時期に一石を投じた。
同シンポは戦争遺跡保存全国ネットワークなどの主催で5日に全国から約350人が参加して閉幕。6日の特別分科会は館山シンポ独自の行事で、地元市民ら8人が証言した。
初代林家三平は、本土決戦迫る九十九里で塹壕堀に従軍していたという。
房総半島の本土決戦体制はどういう状態だったのか、
NPO法人安房文化遺産フォーラムは取材に協力し、
館山の戦争遺跡や、証言者として、
動員され壕の掘削作業に従事した会員の西村榮雄さんを紹介した。
・番組詳細はこちら2015年9月20日(日) 21時00分〜22時54分
‥⇒http://www.bs-asahi.co.jp/sensou_hiwa/
(房日新聞2015.9.19付)‥⇒印刷用PDF
館山市館山の館山病院ギャラリーで、戦後70年の企画展示が始まった。終戦直後に本土で唯一の直接軍政が敷かれた館山で、医療活動の窓口となった同病院は、米軍と市民の有効に大きな役割を担ったとされ、院内を視察する米軍や英会話教室など市民との交流を示す貴重な資料が展示されている。10月3日まで。
主催するNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表によると、館山病院は軍政下で医療活動の中心となり、当時副院長で代表だった川名正義は市民代表として米軍との交渉役も務めた。
館山に上陸した米軍は、当初混乱も予想していたが、同病院での医療活動や川名氏との交流を通じて、館山は平穏で市民も友好的であると理解し、米軍と市民の良好な関係が築かれたという。
当初病院長だった穂坂与明氏の二男・俊明さん(89)=同市館山=は「終戦直後、家に兵隊がやってきたのを覚えている。父親は臆することなく、英語で対応していた。その後はたくさんの米兵が遊びに来た」と交流ぶりを語る。
昭和20年10月ごろには病院内に英会話学校も開設された。元館山市教育長で当時、西岬村東小学校の教員だった高橋博夫さん(87)=同市沼=は教室に通った一人。
「自宅の近くにいた米兵と会話がしたくて3回ほど通った。米軍と市民が交流するための教室で、米軍の通訳は日本語がうまく、とても友好的だったね」と振り返る。
展示会では、英会話教室に携わった米軍の通訳、将校を病院関係者が囲む記念写真や米軍兵士に病院内を案内する川名氏など当時の写真、資料約40点が展示されている。
愛沢代表は「館山病院を通じて米軍は、館山市民、日本人の友好ぶりを知った。その後の米軍占領政策にも大きな影響を与えたのでは。日本が戦後、平和なスタートを切るきっかけとなった病院が地域にあることを多くの人に知ってもらいたい」と話している。
(読売新聞夕刊2015.6.27付)⇒印刷用PDF
太平洋戦争末期、旧海軍が特攻兵器として開発した2日とのりの特殊潜航艇「海龍※」でペアを組んでいた元搭乗員が今月、終戦以来の再会を果たした。特攻隊員として、死と隣り合わせの日々をともに過ごした2人は「70年間どうしているかと思い続けていた」と健在を喜び合った。
(清水健司)
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再開したのは、工藤英三さん(93)(長野県木島平村)と立川有(たもつ)さん(88)(新潟県弥彦村)。今月15日、足が不自由な立川さんを、工藤さんが訪ねた。再開の瞬間、2人は言葉にならない声を上げて抱き合い、「彼と一緒なら死んでもいいと思っていたから、うれしい」(工藤さん)、「一緒に訓練したのは10か月だが、夫婦よりも強い絆があった。当時の深い気持ちを再確認した」(立川さん)と語った。
工藤さんは1943年、予備学生3期として海軍に志願。立川さんも同年、飛行予科練習生(予科練)として海軍に入隊した。翌年、2人は広島県呉市にあった特殊潜航艇の秘密基地に配属され、ペアを組むことに。ハッチを閉じると立つこともできない狭い艇内で、操縦訓練を重ねた。
艇長の工藤さんが後部席で潜望鏡をのぞき、前で操縦かんを握る立川さんに指示する。操艇には、完璧な意思疎通が必要だった。
45年6月、2人は千葉県・房総半島にあった第一特攻戦隊第18突撃隊の勝山基地に配属され、中尉だった工藤さんは第11海龍隊の隊長となった。沖合約1キロにある小島を拠点に、東京湾に敵艦が侵入するとの想定で訓練を続けた。
訓練中の事故で死者も出た。8月には、係留中の海龍がハッチを開けたままの状態で沈み、艇内で作業中の整備兵ら2人が命を落とした。
終戦間際には「600キロの炸薬(さくやく)を積んで突破せよ」との命令が下る。工藤さんは「それで最大の戦果を上げるなら」と覚悟を決めたが、そのまま終戦を迎えた。その後、どうやって別れたのか、2人とも記憶がはっきりしない。
立川さんは故郷の弥彦村に戻り、半年ほどして結婚、婿入りして「石川」から姓が変わった。農業を経て、今は酒屋を営む。工藤さんは複数の大学で体育学の教授を歴任。スキー指導員の資格を持ち、今でも滑る。
記者が取材で工藤隊の名簿が書かれている本を入手し、連絡先を調べたところ、2人とも健在だった。それぞれの消息を伝えると、いずれも声を上げて驚いた。「会いたい」という気持ちを持っていることが分かり、70年ぶりの再会が決まった。2人は「あのとき、死ななくて良かった。相手を殺さなくて良かった」と、平和の尊さを口にした。
全長17・28メートル、直径1・3メートルの小型潜水艇。短い両翼を備え、飛行機のように上下させて潜航や浮上をした。2本の魚雷を搭載できるが、終戦間際には艇の先端部分に爆薬を積んで体当たり攻撃をすることが計画された。終戦までに200隻以上建造されたが、本格的な作戦が行われる前に終戦となったため、幻の特攻兵器とも呼ばれる。
(読売新聞夕刊2015.9.4付)⇒印刷用PDF(要拡大)
東京湾の玄関口、千葉県館山市の館山湾は「鏡ケ浦」と呼ばれ、穏やかな海が広がる。70年前、ここで米軍の対日占領政策の一歩が踏み出された。
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1945年9月3日午前9時半頃、米進駐軍(第112騎兵連隊)4200人が、湾内の館山海軍航空隊水上班滑走台から続々と上陸した。前日、米戦艦ミズーリ号で降伏調印があり、首都・東京を挟むように、東京湾の軍事拠点である館山と対岸の横浜への進駐作戦が始まっていた。
館山港の西側、上陸地点に立ってみた。コンクリート斜面が海中に滑り込む。飛行艇が出入した滑走台跡は昔のまま残っていた。
進駐軍の上陸に先立つ8月30日、米海兵隊先遣隊が館山や富津、横須賀に上陸し、要塞を破壊するなど事前作戦を展開している。
同じ日、館山航空隊(現・海上自衛隊館山航空基地)近くに今も住む元館山市教育長の高橋博夫さん(87)は自宅から、十数人の名兵が館山港から上陸するのを目撃した。「正午前、上半身裸の短パン姿で、腰にピストルを下げた連中が上陸した」と話す。この米兵は機雷などの障害物を除去する水中爆破班とみられている。
翌31日にクロフォード少佐ら先遣隊が館山航空隊を武装解除。9月3日、進駐軍のカニンガム准将らが、館山終戦連絡委員会(※)の代表らに指令書「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」を手渡した。
指令には「軍政参謀課(Military Government Staff Sections)を設置し、裁判所管理、物価統制などの権限を持つほか、学校閉鎖や外出制限を実施することなどが記されていた。「千葉県史」によると、終戦連絡委は「米軍は直接軍政を指向しているのではないか」と考え、間接統治のポツダム宣言や米政府方針と違うことを政府に急報したという。
当時、館山病院副院長の川名正義医師(1903〜83年)は地元医師会誌に市内の様子を書いている。「街に人影はなく病院も休診状態」。市民じゃ家の中で息を潜めるばかりだったが、川名医師は医療面の協力で米軍側の信頼を得た。終戦連絡委とカニンガムから市民代表に指名され、英会話教室を開くなど、米軍と市民の良好な関係を築く上で大きな役割を果たした。
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沖縄以外で唯一の直接軍政が、なぜ館山だったのか。
連合国軍最高司令官マッカーサーが準備した「軍政三布告」の撤回が命令されたのが9月3日午前10時。カニンガムの指令文が渡されたのは同9時半前。行き違いがあった可能性がある。
9月6日、米政府が出した間接統治の再指示で、軍政は終了したとされる。では軍政三布告を撤回後なぜ4日間続いたのか。戦史に詳しいNPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(63)は「カニンガムはソ連の南下や館山の戦争継続派への不安から、軍政を続けたかった。だが、館山市民は意外に協力的だった。これなら大丈夫と思ったのでは」とみる。
戦後日本の再出発の舞台の一つ、千葉県で行われた当初の占領政策は、こうして“幻の軍政”となった。
(千葉支部 笹川実)
(房日新聞寄稿2015.9.5付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)
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第二次世界大戦が勃発し、朝鮮人に対する徴用が法制化、創氏改名令が施行された1939年、私は在日韓国人二世として生まれた。不条理な戦争への恐れと民族的な「恨(ハン)」とがインプットされ、平和と幸福を希求する人生観と哲学が形成された。「恨」とは、人間の意思ではどうにもならない運命に振り回され、力が及ばない感情である。私は、韓国と日本、二つの祖国の故郷を愛し、信頼し合える兄弟になるための架け橋になろうと祈念してきた。
18歳まで秋田県で育ち画家を志したが、母に猛反対され、断念した。教師や新聞記者、弁護士にもなりたいとも思ったが、国籍条項や貧困のために諦めざるを得なかった。
埼玉県川口市で電気店を経営することになり、事業に成功した。私は画家になれなかったが、顧みられずに苦労してきた同胞(在日韓国人)の美術作品に出合って心揺さぶられ、その収集を始めることとなった。その後、多くの在日作家は両国の美術界で歴史的評価が高まっていった。
日本と韓国の間には歴史認識問題の溝があり、それらを乗り越えようと努力している人びとがいる。歴史を知らないということは、未来への展望が拓けない。平和を培っていくためには、しっかり歴史を学ばなければならない。その事例を紹介したい。
私が生まれた年、辰子姫伝説の伝わる田沢湖畔に姫観音像が建立された。これは、国策でダムと発電所が建設された時に絶滅したクニマスという魚類と辰子姫の霊を慰めるために建立した像であると、戦後に町当局は掲示板を立てた。私はこの解説文に納得がいかず調査を始め、10数年かけて建立趣意書を探し出した。すると、ダムと発電所建設のために徴用され、過酷な労働で亡くなった朝鮮人を慰霊する観音像であったことが明らかになった。私が朝鮮人無縁仏追悼慰霊碑を建立した翌1991年のことである。
私は在日韓国人画家の作品を収める「田沢湖 祈りの美術館」を建設し、戦前の朝鮮人犠牲者を慰霊したいと願ったが叶わなかった。しかし、韓国光州市立美術館に在日画家の作品を寄贈する縁に恵まれ、その後両国の美術館に1万余点を寄贈することになり、私の名を冠した霊巌郡立河正雄美術館も開かれた。霊巌郡は両親の故郷であり、日本に古代文化を伝えた王仁博士ゆかりの地でもある。
私のコレクションのコンセプトは「祈り」である。平和への祈り、心の平安への祈り。犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、歴史の中で受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈り。芸術の力は、韓日のわだかまりの根源と矛盾を克服し、地平を切り拓くことになった。文化こそが、平和をつくる上で大きな鍵となる。
私が尊敬する、浅川巧という日本人がいた。日本の統治下にあった韓国へ農林技師として渡り、禿山に植林して山を蘇らせた。朝鮮服を着て、朝鮮の食事をし。朝鮮の言葉を話して、朝鮮人を友とし、朝鮮の風習を身につけて暮らした。朝鮮の陶芸や民具の価値を認め、光を当て、韓国の文化を広く知らしめた。朝鮮人からも愛され、感謝されている。戦後、韓国では多くの日本人の墓が取りつぶされたが、浅川巧の墓は韓国の人びとによって守られてきた。
私も日本で生まれた以上、日本の国で日本を愛し、日本人にも愛されて、日本に貢献し、日本人と一緒に力を合わせて地域社会をよくする生き方をしようと、浅川巧から学んだ。異国人を見下すことなく、その文化を認めながら、両国の魂を結びつけて交流した先人の精神を忘れないようにと、私は山梨県北杜市の浅川伯教・巧兄弟資料館で「清里銀河塾」を開催している。
館山市には、戦跡やハングル四面石塔などの文化遺産を大切にして、平和祈念活動をする皆さんがいる。私は心より敬意を表している。なかでも、青木繁『海の幸』誕生の小谷家住宅を保存するために、全国の画家の皆さんと一緒に募金活動をしていることも素晴らしい。この作品は私が大好きな作品である。この絵は労働者の象徴である。苦労して私たちを育てた在日一世の姿にも重なる。小谷家住宅が公開され、船田正廣さんが制作した刻画『海の幸』のブロンズ像が設置されるときには、私も韓国の光州市立美術館に常設し、日韓の友情の証にしたいと願っている。
【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム
①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)
② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)
③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)
(房日新聞寄稿2015.9.4付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)
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関東大震災の3年後、隆起した海を埋め立てて館山海軍航空隊(以下「館空」)の建設工事が始まった。伊豆石を積み上げ、赤山の南側を削った土砂を使って埋め立てた。足りない土砂は、本庁舎裏側の段差を削って使った。滑走路の部分は大林組がサンドポンプで浚渫して海の土砂を入れ、コンクリートで固めた。塩分を含む砂のため、東西800mの滑走路いい状態ではなかったが、航空母艦に見立てた離着陸の訓練をしていた。
館空建設のために多くの家が移転を命じられ、「第1次疎開」が始まった。私は昭和2年生まれだが、我が家も4年2月28日に海軍へ売却し、現在地に移転している。西原区は岩盤の水脈が豊富だが、館空は人が多いので宮城の山中にダムが作られ、地下の水路で館空に水を引いた。
地下壕建設が始まると、土砂(ズリ)を捨てるために、館空から東の砂浜を埋め立てて港の岸壁が作られた。この工事に伴いズリを運搬するために「第2次疎開」が行われ、境界線は高いトタン塀で囲まれた。砂利道に軽便鉄道用のレールを敷いた道路が作られ、トロッコで海岸まで運んだ。丸太を付けただけのブレーキ装置で体重をかけて止めていたが、道路は傾斜なので勢いよく曲がると横転して怪我人も出た。そのうち軽機関車で引っ張るようになり、踏切番のおばさんが立つようになった。今も信号脇に当時の踏切台が残っている。台車置場は子どもの頃の遊び場だった。トロッコ作業が始まったのは、ハワイ真珠湾攻撃の前年だったと思う。
地下壕の掘削方法は、最初はツルハシで、次はダイナマイトも使っていった。サイレンや笛で安全を確認してから爆破させていた。ツルハシはすぐ刃こぼれするので、脇の小屋に鍛冶屋がいた。赤山の作業には様々な職業の人が徴用されていて、年配の陸軍の兵士も赤山を掘削する労働者として駐屯していた。西の浜には赤山を掘削している会社の組頭がいた。
大正15年に作られた青山学院水泳合宿所は赤山の前にあったが、日米開戦の前後に退去している。同校の佐藤隆一教諭の調査によると、昭和16年9月に海軍から極秘の命令があり、譲渡と立ち退きが進められたという。地下壕の建設に関係しているのではないか。
戦争が激しくなるとB29の本土空襲が始まり、館空周辺も機銃掃射を受けたため、家屋の間引きも合わせて「第3次疎開」となった。
敗戦を迎え、今度は占領軍が上陸し、宮城から大賀は占領地となり住めなくなった。8月27日に「第4次疎開」が通知され、29日までに退去せよという命令だった。みんな着の身着のままで市内の親戚などへ移り、占領は約5か月続いたと思う。4回とも疎開になった人もいた。木村屋旅館に館山終戦連絡事務所が設置され、館山市民には戸締りと外出禁止の命令が出た。
我が家は館山湾を見晴らせる高台にあるため、連絡事務所の数名が待機し、上陸の様子を見ていた。30日に上陸した先遣隊は、上半身裸で緑色の短パン、腰に拳銃をつけていた。ミズーリ号の降伏調印式の翌9月3日には、館空の水上班滑走台から本隊が上陸してきた。星条旗が掲げられ、我が家の横から西側へは鉄条網が張られ、歩哨の見張り小屋が作られて機関砲がこちら側に向けて設置された。
4日間で軍政は解除となったが、道路は進入禁止のままなので、西岬国民学校で代用教員だった私は神戸経由の遠回りで通った。衛兵は戦闘服だったがフレンドリーな感じだったので、片言の英語で親しくなった。学校長と子どもたちの了解をとり、テキサス出身というその兵士を学校へ連れて行って話をさせた。余り教育を受けていないようで読み書きが苦手だった。また、「日本の生活が知りたい」という士官を我が家に招待した。靴を脱ぎ、畳の部屋で座布団に座る習慣や、床の間や欄間などの日本家屋に興味を示した。彼らからは文化度の高さを感じた。
館山病院の穂坂与明院長や川名正義副院長らは国際人であったので、占領軍との直接交渉や軍医の視察があったらしい。10月頃には院内に米兵による英会話教室が開かれ、私も11月に少しだけ通った。市内には米兵向けのお土産屋も開かれた。先遣隊の時には事件もいろいろ起きたが、占領軍本隊とはこのような交流が育まれ、戦後日本のスタートとなっていった。
【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム
①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)
② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)
③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)
(房日新聞寄稿2015.9.3付)
⇒ 印刷用PDF(連載5本)
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日本では8月15日を終戦記念日としているが、世界的には1945年9月2日が終戦といわれている。それは、東京湾上に停泊する戦艦ミズーリ号において降伏文書調印式がおこなわれた日である。戦争が正式に終結し、世界に平和がもたらされたはずのこの日、日本が国家存亡の危機に直面していたことはあまり知られていない。
調印式から6時半後の夕刻、横浜終戦連絡事務局の鈴木九萬(ただかつ)は、GHQのマーシャル参謀次長から呼び出しを受け、重大な通告を受けた。終戦連絡事務局とは、GHQと日本政府の間にパイプ役として置かれ、日本外交の最前線を担っていた機関である。そこで告げられたのは「三布告」と呼ばれる占領政策であった。「日本國民ニ告グ」で始まり、GHQが日本政府を飛び越え国民を直接軍政下に支配しようとする内容である。
・布告第一号:英語を公用語とすること
・布告第二号:占領軍裁判所が設置され、司法権はGHQにあること(軍事裁判により死刑)
・布告第三号:占領軍の発行する軍用紙幣B円を日本法貨とすること
すでに軍票B円は各部隊に3億円を配布済であり、翌3日の朝6時に「三布告」とともに公布する予定であるという。なかでも日本政府が怖れたことは、B円乱発によるインフレーションである。権力をもった占領国が経済をコントロールすることは、日本がアメリカの州のようになってしまうことである。鈴木は、「ポツダム宣言によれば、GHQは日本政府の存在を認めているのだから、日本国民に対する命令は日本政府を通してするべきだ、日本政府を通さず直接命令するのは違反である」と反論したが、「三布告」にはすでにマッカーサーの署名がされていた。
降伏文書調印式にも立ち会っていた終戦連絡中央事務局長の岡崎勝男は、首相官邸に呼ばれ、「三布告」撤回の使命を託された。深夜、岡崎は横浜のホテルニューグランドに潜入し、就寝中のマーシャル参謀次長に直談判した結果、3日未明に、「三布告」公布を延期するという回答を取り付けた。午前8時、重光葵(まもる)外務大臣と岡崎はマッカーサー司令部のある横浜税関で待ち、直接交渉をおこなった。その結果、マッカーサーは「連合軍の目的は、日本国を破壊し国民を奴隷とすることではない。この問題は、政府及び国民の出方一つによる」と言い、正午に「三布告」は取り消された。日本政府は、GHQの直接軍政下に置かれることをぎりぎりで阻止したといえる。日本の運命が分かれた2日間だったのである。
1945年9月3日、午前6時に公布予定だった「三布告」は正午に停止された。ところがこの空白の時間に、千葉県館山市では撤回されたはずの直接軍政が実施されていたのである。外交資料館の記録によれば、館山の行政を監督するのは軍政参謀課、つまり米軍であった。公的機関は閉鎖され、酒場や劇場など娯楽施設は休業させられ、夜間の外出禁止など戒厳令ともいうべき措置がとられた。9月5日の新聞には、「館山に軍政」と報道されている。千葉県立安房高校(旧安房中学)に残る当時の教務日誌によると、9月3日に学校の閉鎖が命じられ、6日までの4日間生徒は出校停止となっている。はじめ恐怖を抱いていた市民も、上陸した正規軍の紳士的で茶目っ気ある態度に緊張感は和み、占領は平和裏に受け入れられていったと証言している。
【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム
①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)
② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)
③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)