ノーベル賞の大村智さん、県内からも祝福賞賛
芸術にも深い造詣、小谷家住宅復元へ活動、館山
「自分のことのよう」「ひた向きさが立派」
(千葉日報2015.10.7付)‥⇒印刷用PDF
「自分のことのようにうれしく思う」「紳士的で人格者」-。ノーベル医学生理学賞受賞が決まった大村智・北里大特別栄誉教授(80)へ、一夜明け、千葉県内からも祝福や賞賛の声が上がった。芸術に造詣の深い大村さんは、館山市で、明治期の洋画家、青木繁にゆかりのある住宅の復元・保存活動の先頭に立つとともに、ふるさと納税で多額の寄付も。佐倉順天堂との縁で佐倉市ともつながり、講演で訪れ研究への思いなどを語っていた。
大村さんが理事長を務めるNPO法人青木繁「海の幸」会は、日本で初めて国重要文化財に指定された西洋画「海の幸」を青木が制作した館山布良の小谷家住宅が老朽化したため、当時の姿に復元して保存しようと2010年1月に設立。
幼少から絵画に親しみ、造詣が深い大村さん。故郷の山梨県韮崎市に、40年以上にわたって収集した絵画などの美術品を集めた美術館を開いたほど。また、自身が建設した病院にたくさんの絵画を飾り、当時まだ珍しかった患者の心を和ませて治癒を助ける「ヒーリングアート」をいち早く実践したといわれている。
大村さんは新婚旅行でも館山市を訪問。芸術はじめ多岐にわたる分野で活躍し、リーダーシップがあることから同NPO理事長就任を打診されると、実際に小谷家を訪れ、文化財としての保存の必要性を感じて引き受けたという。
活動では、会派を超え集まった日本をリードする画家らを束ねるとともに、自らは13年1月に「小谷家住宅の保存および活用の支援に関する事業」として市に300万円のふるさと納税を寄付。来年4月の一般公開に向けて、地元の「青木繁誕生の家と記念碑を保存する会」とともに活動を続ける。青木に関する企画展や、小谷家の修復状況確認のため、今でも度々現地を訪れる。
受賞発表から一夜明け、活動を通して大村さんと交流のある市内の関係者からは喜びの声があふれた。小谷家の現在の当主、小谷福哲さん(64)は「折り目正しく紳士的で人格者。もっと早く選ばれるべきだったけど、感激した。保存活動へ追い風になったら」と喜ぶ。
保存する会の愛沢伸雄事務局長(63)は「地道な地域の活動に関心を示してくれる社会貢献への意識が高い人。足元へ目配りできる人だからこそアフリカを救う開発ができたのではないか」と声を弾ませた。館山市の金丸謙一市長は「医療や科学研究の発展に大きく貢献され、敬意を申し上げる。今後とも館山市の発展のため、お力添えをお願い申し上げます」と祝電を贈った。
佐倉市では特別講演会も、熱く研究への思い語る
大村さんは、女子美術大学理事長(当時)として連携協働協定を締結したほか、講演会の講師として訪れるなど、佐倉市とのつながりも深い。蕨和雄市長は「仕事へのひたむきさが立派で、長年の地道な努力が評価された。自分のことのようにうれしく思う」と喜びの声を寄せた。
江戸時代に佐倉へ蘭医学の塾兼診療所「佐倉順天堂」を開いた佐藤大然の孫・佐藤志津が女子美大の第二代校長を務めており、同大と佐倉市は歴史的に縁がある。両者は2012年、教育や文化、まちづくりなどで相互に連携を図る協定を締結。当時の理事長が大村さんだった。蕨市長は「気さくで飾らず奥の深い人。謙虚な人柄が表れていた」と振り返る。
昨年8月には、同市中央公民館で大村氏を講師に招き特別講演会を開催。講演で大村さんは「一化学者の世界の保健と福祉への貢献」をテーマに、半生を振り返りながら研究への思いを語ったという。会場は市民で満席。大村さんの生きざまや研究成果への注目の高さがうかがわれた。
生理学・医学賞 大村さん受賞館山も沸く
洋画家ゆかり旧家保存に尽力
(読売2015.10.07付)‥⇒印刷用PDF
ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった北里大学特別名誉教授の大村智さん(80)は、明治の洋画家の青木繁(1882〜1911年)が宿泊した館山の旧家の保存に私財を投じるなど力を尽くしている。市内の関係者からは6日、祝福の声が上がった。
青木繁は1904年夏、同市布良を写生旅行し、旧家・小谷家に40日ほど滞在して名画「海の幸」(重要文化財)を描いた。小谷家は2009年、市有形文化財に指定され、修復のための募金活動が続いている。
運動の中心は全国の画家ら約600人でつくるNPO法人「青木繁『海の幸』会」(川崎市)。館山市は小谷家の修復保存の充当することを前提に「ふるさと納税」を募っており、会からは計300万円の寄付があった。理事長を務める大村さんは、個人で13年1月に300万円を寄付した。
同会と地元住民らの「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」を橋渡しするのが、NPO法人安房文化遺産フォーラム。フォーラムの愛沢伸雄代表(63)は「最近、2回ほど館山に来ていただいた。大村さんだから大勢の画家がまとまる」と語る。
地元の美術教室「黒潮会」を主宰する画家伊東博子さん(84)(館山市北条)は、自作の絵を大村さんに購入してもらったといい、「女性の絵に理解が深い。(受賞は)うれしい限りです」と喜んだ。
ノーベル賞の大村氏、小谷家保存にも貢献
ゆかりの館山からも喜びの声
(房日新聞2015.10.7付)‥⇒印刷用PDF
今年のノーベル医学・生理学賞に輝いた大村智氏は、美術を愛する科学者としても知られる。洋画家・青木繁が「海の幸」を描いた館山市布良の小谷家住宅の保存を目指す「NPO法人青木繁『海の幸』会」の理事長も務めており、ゆかりのある館山からも喜びの声があがった。
「賞の候補になっていることは知っていたが、テレビのニュース速報を見てびっくり。夫婦で『やったー』と喜びあった。小谷家保存の応援団長で、当家にとっても大変な名誉。本当にうれしい」。現小谷家当主の小谷福哲さん(64)は喜ぶ。
大村氏は、私財を投じて美術館を開設するなど美術への造詣が深く、美術関係者によって立ち上げられた同NPOの理事長に平成21年に就任、小谷家の保存にも力を尽くしている。
「温厚で思いやりがある方。小谷家住宅保存の旗振り役で、テレビで『人のためになることを』と紹介されていたが、まさにその通りの人物」とたたえる。
館山には数回訪れており、25年には保存に向け300万円を市にふるさと納税で寄付。昨年8月にはオマージュ展と修復が進む小谷家を視察している。
その際、小谷家を案内した地元保存会事務局の愛沢伸雄さん(63)は「『(保存に向けた)お金を集める呼び掛けはするので、地元で保存活動を頑張ってほしい』と声を掛けていただいた。地域の文化財を守り、活用する取り組みを応援してもらいうれしかった」。
「気さくでフランクな方。有名な先生とは知っていたが、ノーベル賞とは。驚きました。心から祝意を伝えたい」と祝福する。
小谷家は今年度末に修復を終え、来年4月に公開予定。「オープンの日は大村先生に館山に来てもらいたい」。実は愛沢さんは昨年夏の段階に大村氏に打診。予定が空いていた4月24日をオープン日に決め、大村氏の手帳に直接書き込んでもらっている。
「ノーベル賞受賞で忙しくなってしまうと思うが、ぜひ館山に来てもらい一緒にオープンを祝ってほしい」と期待していた。
【写真説明】昨年8月のオマージュ展に館山を訪れた大村氏=館山コミセン
地域の歴史を掘り起こすことで国際交流を推進/NPO法人安房文化遺産フォーラム
無印良品サイト「ローカルニッポン」で
NPO法人安房文化遺産フォーラムの取組が紹介されました。
⇒‥http://localnippon.muji.com/news/1217/
文化歴史〜戦跡考⑥
赤山地下壕跡
ツルハシで掘削、目的不明
(読売新聞2015.9.30付)‥⇒印刷用PDF
地下壕の壁面や天井は、地層のしま模様が鮮やかだ。壕が掘られた丘陵は、かつて海底に堆積した砂岩や泥岩でできている。「もろい砂岩はダイナマイトを使うと崩れてしまう。だからツルハシで掘られました」。無数に残るツルハシの跡を懐中電灯で照らしでガイドの男性が説明すると、ガイドから感嘆の声が上がった。
千葉県館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕跡は、2004年4月から一般公開され、毎月第一日曜日には、NPO法人「安房文化遺産フォーラム」の会員によるガイドが行われている。
確認されているだけで延長1.6キロに及ぶ壕が、いつ、何の目的で掘られたのか。確かなことは不明だ。資料がほとんど残っていないからだ。壕内には、発電施設や病室、電信室もあったとされ、戦争末期には、海軍航空隊の防空壕として使われていたとされる。
軍による大規模地下壕は、松代大本営(長野市)や日吉台地下壕(横浜市)のように、本土空襲の脅威が増してから掘られたものが知られている。だが、赤山地下壕は、1941年の真珠湾攻撃前から工事していた、という地元住民の証言がある。同法人の愛沢伸雄代表(63)は、「気密性が高い任務のため、開戦前から準備されていたのでは」とみる。
館山は軍都だった。東京湾の入り口にあり、館山海軍航空隊のほか、東京湾要塞の砲台、海軍砲術学校なども置かれた。今でも、市内の各所に砲台跡や飛行機の掩体(えんたい)壕などが残り、その名残を伝える。
戦後、赤山地下壕跡は放置され、キノコ栽培に使われた時期もあった。高校教師だった愛沢さんが、95年の戦後50年にちなんで地域の歴史を学ぶ教材を探す中で価値に気づき、保存を呼びかけ始めた。愛沢さんは壕とは別に、市内にある戦国大名の里見氏が居城とした稲村城跡の保存運動にもかかわってきた。「戦争遺跡も里見の城も、人類が生んだ文化財という意味では同じ。二つを同時に進めたからこそ価値を発信できた」と言う。壕は05年に市の史跡に、城跡は12年に国の史跡に指定された。
現在、市は「館山歴史公園都市」を掲げ、赤山地下壕跡や稲村城跡など市内の歴史遺産をネットワーク化し、観光資源にする取り組みを進める。壕の見学者数は昨年度、過去最高の2万4028人に達した。市の調査では、同市を訪れる観光客の目的はここ数年、かつてメインだった「海水浴」を「文化財見学」が上回り続けている。
「戦争遺跡は、ただ残すだけでは研究者や物好きしか来ない。地域が磨きをかけてこそ意味がある」と愛沢さん。日本中に残る「負の遺産」は、活用の仕方次第で地域の宝に代わる可能性を秘めている。
(清岡央)
布良沖の惨劇、新事実報告、「赤山地下壕」でも新事実
戦争遺跡保存全国シンポジウム
(読売新聞2015.9.7付)‥⇒印刷用PDF
戦争遺跡保存全国シンポジウム特別分科会「米占領軍の館山上陸と直接軍政/証言者のつどい」が6日、館山市内で開かれた。同市布良沖で撃沈された潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇を巡り、惨劇の概要が新たに判明したことなどが報告された。
撃沈を証言したのは「民防空富崎監視哨」の哨員だった豊崎栄吉さん(86)(同市布良)。「撃沈から生還した士官の回想手記が最近見つかり、発生日が1945年5月29日で、船種は練習駆潜特務艇とわかった。救助には地元民が大勢かかわった。犠牲者を慰霊したい」と黙とうをささげた。
また、同市宮城の地下要塞「赤山地下壕(ごう)」建設で退去させられた青山学院水泳部合宿について、同学院高等部の佐藤隆一教諭が「軍からの退去勧告は41年9月」とする新資料を紹介、議論がある同地下壕の建設開始時期に一石を投じた。
同シンポは戦争遺跡保存全国ネットワークなどの主催で5日に全国から約350人が参加して閉幕。6日の特別分科会は館山シンポ独自の行事で、地元市民ら8人が証言した。
昭和の爆笑王 林家三平 いま明かされる戦争秘話』
BS朝日
2015年9月20日(日) 21時00分〜22時54分
初代林家三平は、本土決戦迫る九十九里で塹壕堀に従軍していたという。
房総半島の本土決戦体制はどういう状態だったのか、
NPO法人安房文化遺産フォーラムは取材に協力し、
館山の戦争遺跡や、証言者として、
動員され壕の掘削作業に従事した会員の西村榮雄さんを紹介した。
・番組詳細はこちら2015年9月20日(日) 21時00分〜22時54分
‥⇒http://www.bs-asahi.co.jp/sensou_hiwa/
館山病院で戦後70年企画展
米軍と館山市民の友好窓口
英会話教室の写真など紹介
(房日新聞2015.9.19付)‥⇒印刷用PDF
館山市館山の館山病院ギャラリーで、戦後70年の企画展示が始まった。終戦直後に本土で唯一の直接軍政が敷かれた館山で、医療活動の窓口となった同病院は、米軍と市民の有効に大きな役割を担ったとされ、院内を視察する米軍や英会話教室など市民との交流を示す貴重な資料が展示されている。10月3日まで。
主催するNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表によると、館山病院は軍政下で医療活動の中心となり、当時副院長で代表だった川名正義は市民代表として米軍との交渉役も務めた。
館山に上陸した米軍は、当初混乱も予想していたが、同病院での医療活動や川名氏との交流を通じて、館山は平穏で市民も友好的であると理解し、米軍と市民の良好な関係が築かれたという。
当初病院長だった穂坂与明氏の二男・俊明さん(89)=同市館山=は「終戦直後、家に兵隊がやってきたのを覚えている。父親は臆することなく、英語で対応していた。その後はたくさんの米兵が遊びに来た」と交流ぶりを語る。
昭和20年10月ごろには病院内に英会話学校も開設された。元館山市教育長で当時、西岬村東小学校の教員だった高橋博夫さん(87)=同市沼=は教室に通った一人。
「自宅の近くにいた米兵と会話がしたくて3回ほど通った。米軍と市民が交流するための教室で、米軍の通訳は日本語がうまく、とても友好的だったね」と振り返る。
展示会では、英会話教室に携わった米軍の通訳、将校を病院関係者が囲む記念写真や米軍兵士に病院内を案内する川名氏など当時の写真、資料約40点が展示されている。
愛沢代表は「館山病院を通じて米軍は、館山市民、日本人の友好ぶりを知った。その後の米軍占領政策にも大きな影響を与えたのでは。日本が戦後、平和なスタートを切るきっかけとなった病院が地域にあることを多くの人に知ってもらいたい」と話している。
戦後70年、特攻操縦ペア再会
旧日本軍兵器「海龍」
10か月訓練「夫婦より強い絆」
(読売新聞夕刊2015.6.27付)⇒印刷用PDF
太平洋戦争末期、旧海軍が特攻兵器として開発した2日とのりの特殊潜航艇「海龍※」でペアを組んでいた元搭乗員が今月、終戦以来の再会を果たした。特攻隊員として、死と隣り合わせの日々をともに過ごした2人は「70年間どうしているかと思い続けていた」と健在を喜び合った。
(清水健司)
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再開したのは、工藤英三さん(93)(長野県木島平村)と立川有(たもつ)さん(88)(新潟県弥彦村)。今月15日、足が不自由な立川さんを、工藤さんが訪ねた。再開の瞬間、2人は言葉にならない声を上げて抱き合い、「彼と一緒なら死んでもいいと思っていたから、うれしい」(工藤さん)、「一緒に訓練したのは10か月だが、夫婦よりも強い絆があった。当時の深い気持ちを再確認した」(立川さん)と語った。
工藤さんは1943年、予備学生3期として海軍に志願。立川さんも同年、飛行予科練習生(予科練)として海軍に入隊した。翌年、2人は広島県呉市にあった特殊潜航艇の秘密基地に配属され、ペアを組むことに。ハッチを閉じると立つこともできない狭い艇内で、操縦訓練を重ねた。
艇長の工藤さんが後部席で潜望鏡をのぞき、前で操縦かんを握る立川さんに指示する。操艇には、完璧な意思疎通が必要だった。
45年6月、2人は千葉県・房総半島にあった第一特攻戦隊第18突撃隊の勝山基地に配属され、中尉だった工藤さんは第11海龍隊の隊長となった。沖合約1キロにある小島を拠点に、東京湾に敵艦が侵入するとの想定で訓練を続けた。
訓練中の事故で死者も出た。8月には、係留中の海龍がハッチを開けたままの状態で沈み、艇内で作業中の整備兵ら2人が命を落とした。
終戦間際には「600キロの炸薬(さくやく)を積んで突破せよ」との命令が下る。工藤さんは「それで最大の戦果を上げるなら」と覚悟を決めたが、そのまま終戦を迎えた。その後、どうやって別れたのか、2人とも記憶がはっきりしない。
立川さんは故郷の弥彦村に戻り、半年ほどして結婚、婿入りして「石川」から姓が変わった。農業を経て、今は酒屋を営む。工藤さんは複数の大学で体育学の教授を歴任。スキー指導員の資格を持ち、今でも滑る。
記者が取材で工藤隊の名簿が書かれている本を入手し、連絡先を調べたところ、2人とも健在だった。それぞれの消息を伝えると、いずれも声を上げて驚いた。「会いたい」という気持ちを持っていることが分かり、70年ぶりの再会が決まった。2人は「あのとき、死ななくて良かった。相手を殺さなくて良かった」と、平和の尊さを口にした。
※海龍‥‥
全長17・28メートル、直径1・3メートルの小型潜水艇。短い両翼を備え、飛行機のように上下させて潜航や浮上をした。2本の魚雷を搭載できるが、終戦間際には艇の先端部分に爆薬を積んで体当たり攻撃をすることが計画された。終戦までに200隻以上建造されたが、本格的な作戦が行われる前に終戦となったため、幻の特攻兵器とも呼ばれる。
戦後70年、歴史を歩く〜米占領軍上陸地(千葉県館山市)
行き違い?直接軍政の謎
上半身裸に短パン姿、腰にピストルを下げていた
(読売新聞夕刊2015.9.4付)⇒印刷用PDF(要拡大)
東京湾の玄関口、千葉県館山市の館山湾は「鏡ケ浦」と呼ばれ、穏やかな海が広がる。70年前、ここで米軍の対日占領政策の一歩が踏み出された。
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1945年9月3日午前9時半頃、米進駐軍(第112騎兵連隊)4200人が、湾内の館山海軍航空隊水上班滑走台から続々と上陸した。前日、米戦艦ミズーリ号で降伏調印があり、首都・東京を挟むように、東京湾の軍事拠点である館山と対岸の横浜への進駐作戦が始まっていた。
館山港の西側、上陸地点に立ってみた。コンクリート斜面が海中に滑り込む。飛行艇が出入した滑走台跡は昔のまま残っていた。
進駐軍の上陸に先立つ8月30日、米海兵隊先遣隊が館山や富津、横須賀に上陸し、要塞を破壊するなど事前作戦を展開している。
同じ日、館山航空隊(現・海上自衛隊館山航空基地)近くに今も住む元館山市教育長の高橋博夫さん(87)は自宅から、十数人の名兵が館山港から上陸するのを目撃した。「正午前、上半身裸の短パン姿で、腰にピストルを下げた連中が上陸した」と話す。この米兵は機雷などの障害物を除去する水中爆破班とみられている。
翌31日にクロフォード少佐ら先遣隊が館山航空隊を武装解除。9月3日、進駐軍のカニンガム准将らが、館山終戦連絡委員会(※)の代表らに指令書「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」を手渡した。
指令には「軍政参謀課(Military Government Staff Sections)を設置し、裁判所管理、物価統制などの権限を持つほか、学校閉鎖や外出制限を実施することなどが記されていた。「千葉県史」によると、終戦連絡委は「米軍は直接軍政を指向しているのではないか」と考え、間接統治のポツダム宣言や米政府方針と違うことを政府に急報したという。
当時、館山病院副院長の川名正義医師(1903〜83年)は地元医師会誌に市内の様子を書いている。「街に人影はなく病院も休診状態」。市民じゃ家の中で息を潜めるばかりだったが、川名医師は医療面の協力で米軍側の信頼を得た。終戦連絡委とカニンガムから市民代表に指名され、英会話教室を開くなど、米軍と市民の良好な関係を築く上で大きな役割を果たした。
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沖縄以外で唯一の直接軍政が、なぜ館山だったのか。
連合国軍最高司令官マッカーサーが準備した「軍政三布告」の撤回が命令されたのが9月3日午前10時。カニンガムの指令文が渡されたのは同9時半前。行き違いがあった可能性がある。
9月6日、米政府が出した間接統治の再指示で、軍政は終了したとされる。では軍政三布告を撤回後なぜ4日間続いたのか。戦史に詳しいNPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(63)は「カニンガムはソ連の南下や館山の戦争継続派への不安から、軍政を続けたかった。だが、館山市民は意外に協力的だった。これなら大丈夫と思ったのでは」とみる。
戦後日本の再出発の舞台の一つ、千葉県で行われた当初の占領政策は、こうして“幻の軍政”となった。
(千葉支部 笹川実)