布良の小谷家,今春公開へ
青木繁「海の幸」誕生の家,地域活性化にも期待増
(房日新聞2016.1.1)‥⇒印刷用PDF
青木繁が代表作「海の幸を制作した「小谷家住宅」=館山市布良=の修復作業がほぼ完了し、今年4月24日に公開されることが決まった。老朽化が進んでいたが、地元、画壇が保存、修復に動き、明治時代の姿を取り戻した。新たな館山の名所として、地域活性化への効果も期待されている。
名画「海の幸」誕生の家に傷み
漁を終えた裸の漁師たちが、大きなフカ(サメ)を担ぎ、夕日を浴びて戻ってくる。国重要文化財「海の幸」が誕生したのがこの小谷家だ。
青木繁は明治37年(1904)夏、仲間4人で房総に写生旅行に訪れ、この家の一室で、海の幸を描き上げた。
漁師町にたたずむ小谷家住宅は、江戸時代から続く網元の家。明治期に建てられた瓦ぶきの平屋建てで約93平方メートル。安房の特色である分棟型民家の特徴を残したつくり。
文化的な構造だけでなく、歴史的建造物としての価値も高く、平成21年の市の有形文化財に指定されたが、築130年近くと老朽化が進み、屋根などに傷みが目立っていた。
家なくして海の幸誕生はなかった」。保存運動に動いたのが、現当主・小谷福哲さん(65)、地元でつくる「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」、日本美術界の有志で組織した「NPO法人青木繁『海の幸』会」の3者だ。修復、公開に向けて支援を呼びかけた。
この海の幸会の理事長に就任したのが、昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏(80)。海の幸会では、全国の画家に協力を求めたチャリティー巡回展で資金を集め、大村氏自身も300万円を寄付した。
3者の連携で支援の輪が広がった。市のふるさと納税制度でも寄付を募り、総事業費焼く4600万円の資金のめども立ち、市の補助を受け昨年度から修復工事に着手。3者の保存運動が実を結び、修復もおおむね終わり、公開が決まった。
明治の面影の家4月以降公開へ
美しい屋根瓦、時代を感じさせるナマコ壁—。傷んでいた屋根は全面的にふきかえられ、昭和に入って増築された部分は撤去、当時の姿に近づけて修復された。
明治の面影そのままに復元された小谷家。建物内も歴史を感じさせる奥座敷と二間も見ることができる。
青木らが訪れたたたずまいを残す約200坪の庭もきれいに整えられており、公開に向けて「海の幸」の複製画、同家の資料などの展示物の準備、調整が進められている。
4月のオープン後は、地元の保存する会で管理。土曜、日曜日の週2回の公開を予定。地域文化の拠点としての活用も検討している。
近くには青木没後50周年を記念して建立された記念碑もあり、青木繁の聖地として注目を集めそうで、新たな名所として活性化が期待されている。
「富崎に活気を」小谷家の現当主
「海の幸会には資金的に大きな支援、地元保存会の方々には多くのお力をいただき、行政のバックアップもあった。公開にこぎ着けられたのは、たくさんの方々のおかげ」と現当主・小谷福哲さん。
「『将来の子どもたちのために』と小谷家の保存、公開を決断した先代・栄氏の思いを引き継ぎで活動をしてきた。小谷家を単なる観光文化施設でなく、子どもたちの学び、教育の空間にしたい」と強調。
「現在は衰退しているが、マグロはえ縄漁なども盛んで、かつての富崎は活気にあふれていた。小谷家をきっかけに、布良崎神社など地域の文化遺産をつけて人を呼び込み、再びこのエリアが活気づくことを願う」と思いを語る。
「しっかり活用を」嶋田博信保存会長
地元の保存会の嶋田博信会長(82)は「青木繁、海の幸を愛する全国のファン、画家の皆さんから多くの資金が寄せられた。海の幸会をはじめ多くの方に感謝」とお礼の言葉。
4月からの公開に向けては「ここからが私たちの役目。支援していただいた皆さんの思いをしっかり引き継ぎ、小谷家を中心に四季折々の催しをして地域に人を引き寄せたい」と熱意を見せる。
「この機会をとらえなければ、地域活性化は成しえないとの思いで、皆と綿密に計画を立て、活性化を図っていきたい」と語っていた。
⇒大村智氏の寄稿
海の幸誕生の家と記念碑保存する会
文化財保護功労で表彰
(房日新聞2015.12.5付)⇒印刷用PDF
館山市の「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)が、県文化財保護協会の創立50周年記念文化財保護功労者表彰を受賞した。千葉市内であった表彰式で表彰された。受賞者数は2人と3団体だった。
同会は、青木繁が「海の幸」を制作した館山市布良の小谷家住宅、青木繁の没後50年記念で建てられた記念碑の保存、活用に向け、地元有志を中心に結成された。
小谷家住宅は、同会の依頼した専門家による調査で、明治前期の貴重な建物であることが分かり、平成9年に市の文化財指定を受けた。
同会では修復、公開を目指して、全国の著名画家らによるNPOと連携して基金を集め、保存に向けたふるさと納税制度の整備にも尽力。こうした取り組みによって、同住宅は修復され、来春に公開される予定となっている。
同会の前身は、「青木繁《海の幸》記念碑を保存する会」。一時撤去の危機にあった記念碑が、地元の要望により市が保存することになったのを契機に、平成10年に地元有志で設立された団体で、現在も草刈りなど保存や普及といった活動を引き継いでおり、一連の文化財保護、活用の取り組みが評価された。
館山総合高校148人が「観光の学び」
1年生がNPOと協働で授業
(房日新聞2015.11.29付)⇒印刷用PDF
県教委が進める「魅力ある県立高校づくり」の一環として、「観光の学び」に取り組んでいる館山総合高校(安田健治校長)でこのほど、これまでの学びを振り返る授業があった。1年生148人がNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)との協働で、校外学習をしていた。仕上げとなる授業では、館山市経済観光部プロモーションみなと課の石井博臣課長と、房日新聞社の忍足利彦編集部次長がゲストスピーカーとして、館山の観光について語った。
地元の観光資源をあらためて知ろうと、校外学習を展開。1年生はバス4台に分乗し、赤山地下壕、青木繁『海の幸』誕生の小谷家住宅、布良崎神社、大巌院のハングル四面石塔、渚の駅などを見学した。NPOのガイドを受け、地元・館山の観光要素を現地で学んだ。
事前学習ではDVD「館山まるごと博物館」や同名の冊子で知識を重ねた。現地では詳しい説明も受けた。生徒らは「何もないと思っていたが、館山に深い歴史があって驚いた」「こんなに素晴らしい観光資源を多くの人に知ってもらいたい」「市民が文化財を大切にしていることに感動した」などの感想を残している。
仕上げの学習となった授業では、愛沢代表らがパワーポイントで生徒の感想を紹介。その後、ゲストとして石井課長が「館山市の観光の現状」、忍足次長が「幸せ値を生かして田舎暮らし」などを語り、館山の魅力を伝えた。
文化財答申、屛風ヶ浦、国名勝に
小高記念館は有形文化財
(東京新聞2015.11.22付)‥⇒印刷用PDF
国の文化財審議会による投信で、県内では屏風(びょうぶ)ケ浦(銚子市)が国の名称及び天然記念物に指定される見通しとなった。大正期に銀行として建てられ、昭和初期に館山港近くに移築された「小高(おだか)記念館」(館山市)は有形文化財(建造物)の登録が答申された。
屏風ケ浦は太平洋に面して、約10キロにわたって下総台地が削られてできた海食崖(かいしょくがい)で、最大落差は約60メートル。1億年以上前の硬い岩盤を基盤として、約300万年〜40万年前に海底に堆積した犬吠層群と、その上に堆積した香取層や関東ローム層から成る。急激な風化と浸食を受けて形成された地形が見られ、地質学上価値が高いとされた。
江戸末期の歌川広重の「六十余州名所図会」に描かれるなど、江戸時代から現在まで絵や文学で取り上げられ、名勝としても価値が高い。
小高記念館は洋風の外観で木造二階建て。現在は地元のNPO法人安房文化遺産フォーラムの事務所となっている。
市やフォーラムによると、建物は1930(昭和5)年ごろ、現在の場所に移築され、戦前に県議会議員、戦後は衆議院議員を務めた小高熹郎(としろう)氏が事務所などとして使用した。
小高氏の死去後、90年代半ばから一時閉鎖。地域の文化振興にも尽力した小高氏の遺志を継ぐとして、フォーラムが2006年から活動拠点にしてきた。代表の愛沢伸雄さん(64)は「大変光栄。私たちの文化財保存活動にも弾みがつく」と登録の答申を喜んだ。
(村上一樹、北浜修)
小高記念館が国有形文化財に
(毎日新聞2015.11.21付)‥⇒印刷用PDF
また、文化審は、館山市館山の海岸通りに面した「小高(おだか)記念館」登録有形文化財(建造物)に指定することも答申した。
小高記念館は大正初期に千葉銀行の前身の「古川銀行鴨川支店」として建てられた木造2階建ての洋風建築。関東大震災で館山地区の主要な建物が壊滅したこともあり、1930年に水産業の拠点として館山港にほど近い現在地に移築された。
戦後は小高熹郎(としろう)衆議院議員(1902〜97年)の事務所を経て、地域の水産関係や文化財の「資料館」として使われた。小高氏の死去後は使われず朽ちかけていたが、NPO安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が小高家の了解を得て2006年から活動拠点として使っている。
愛沢代表は「外壁の塗装など手間はかかるが、内部はしっかりした造り。文化財として認められたのを機に、街づくりの拠点にという小高先生の遺志を受け継いでいきたい」と話している。
【中島章隆】
洋風外観の小高記念館
文化財審議会が答申、国の登録有形文化財に
(房日新聞2015.11.21)‥⇒印刷用PDF
館山市館山にある「小高記念館」が新たに国の登録有形文化財(建造物)となることが決まった。国の文化審議会が20日、同記念館を含む124件を新たに登録するよう文科相も答申した。館山市の登録文化財は8件目となる。
館山港近くにある小高記念館は、大正期に建てられた古川銀行鴨川支店の建物を昭和5年ごろに移築したといわれている。
木造2階建て。上下窓を並べる洋風な外観が特徴的で、1階は洋風内装で、2階は和室となっている。港町の風情を彩る洋風建築で「国土の歴史的風景に寄与しているもの」として登録が決まった。
記念館の名の由来は、県議会議員、衆議院議員を務めた館山市の名誉市民小高熹郎氏(故人)。小高氏の水産会社や事務所を経て、現在はNPO法人安房文化遺産フォーラムの事務所として文化交流の拠点となっている。
同フォーラムの愛沢伸雄代表は「関東大震災後、港町館山の復興の拠点となったであろう建物で、大変貴重な文化財。文化財を守る団体として、登録はとてもうれしく、今後もまちづくりに大事に活用したい」と喜んでいた。
登録有形文化財は、都市開発などで消滅が危惧される近代の文化財建造物を後世に残すため平成8年に設けられた登録制度。市兄では洲崎灯台などがすでに登録されている。
港町彩る洋風外観 地域文化発信拠点に
登録有形文化財 小高記念館 館山
(千葉日報2015.11.21付)‥⇒印刷用PDF
国の文化審議会の答申で20日、館山市館山の小高記念館が登録有形文化財(建造物)に登録された。館山湾にほど近い木造2階建ての旧銀行建築。上下窓を並べる洋風外観が港町の風情を彩り、国土の歴史的景観に寄与していると評価された。現在はNPO法人が地域文化発信拠点として活用しており、関係者は「さらなる地域文化振興を進めていきたい」と力を込める。
小高記念館は、大正初期に建てられた古川銀行(現在は千葉銀行に合併)鴨川支店を、後に鳩山一郎内閣の文部政務次官を務めた小高熹郎氏が昭和初期に現在地へ移築。1階は元営業室の洋風内装で、2階は周り廊下に和室2間が並ぶ。1階には、大正期の銀行金庫や欧州絵画も残る。
建物は移築を進めた小高氏が水産事務所として活用。戦前に県議となったことを期に政治事務所となり、戦後の衆議院議員としての活躍も支えた。
政界引退後は、小高氏がサトウハチローや白鳥省吾らと親交が深く詩人として活躍したことから、文化交流拠点となる。城山公園に記念碑が建立されている『里見節』や、『鏡ケ浦』『館山音頭』など、数々の名作が生まれた。
小高氏が1997年に亡くなり一時閉館。時を経て2006年、地域の文化財産を保存し街づくりを進めるNPO法人安房文化遺産フォーラムが事務局として使うことになった。その際、潮風で剥がれた外装塗装を白く塗り直し、歴史的建造物を再生させた。
同団体は戦国大名里見氏の城跡や館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)といった歴史・文化遺産の保存や活用を展開。そうした活動を通じて進める地域資源を生かした街づくりの拠点となっている。
記念館は現在、潮風で再び剥がれてきた外壁塗装を塗り直している。記念館の一般公開は特定の曜日などではなく、同団体のスタディツアーの一環として行う。愛沢伸雄代表(64)は「館山市の文化振興のシンボルとして国の登録文化財となったことはとても光栄。一つ一つの文化遺産が点から線、面となり、館山がまるごと博物館になることが進む契機となれば」と語る。
小高氏の息子で祈念館を所有する小高英夫さん(73)は「父親から引き継いだ建物が登録され喜ばしい。本当によかった」と笑顔を見せた。
屏風ケ浦 、名勝に(銚子)
文化財審議会は20日、約10キロにわたり海食崖が続く屏風ケ浦(銚子市)など2件を名勝に、戦時中に首相を務めた近衛文麿が住み、日米開戦前の重要な舞台になった「荻外荘(てきがいそう)」(東京都)など9件を史跡に、伊平屋島の念頭平松(ねんとうひらまつ)(沖縄県)など5件を天然記念物に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。屏風ケ浦は天然記念物にも指定されている。
近く答申通り告示され、史跡は1759件、名勝は398件、天然記念物は1021件になる。
このほか富士山などを望む景勝地で信仰の地としても親しまれた十国峠(日金山(ひがねさん)、静岡県)など3件を登録記念物にすることも答申した。登録記念物は98件になる。
また、登録有形文化財(建造物)には、小高記念館(館山市)など全国で124件が新たに登録され系1万492件となる。
ノーベル賞・大村智先生と青木繁
天才画家の「熱」と「輝き」を共有‥吉武研司
(西日本新聞・文化2015年10月17日付)‥⇒印刷用PDF
大村智先生と青木繁、ノーベル賞の科学者と夭折(ようせつ)の天才画家—。私たちNPO法人「青木繁『海の幸』会」は大村先生を理事長に頂き、青木繁が「海の幸」を描いた「小谷家」(千葉県館山市)の修復・保存を目指す運動を続けてきました。6年間の活動を経て、近く目標額に達し、修復を終え、来年4月には一般公開が始まる予定です。
私は佐賀西校生の頃、美術部の石橋美術館(福岡県久留米市)見学で「海の幸」に感動し、熱に浮かされ画家を志し上京しました。それから30年後、女子美術大の学生とスケッチ旅行に行った布良(千葉・館山)の海岸。時空を超えて「海の幸」の熱気がぶり返しました。「ここであの絵が生まれたのだ」と思えたとき時に鳥肌が立ちました。「海の幸」が描かれた小谷家を「絵描きの聖地」として残したいと思ったのでした。
久留米出身の画家吉岡友次郎氏と出会い、小谷家保存に向けたNPO法人設立を計画する中で、当時、女子美大の理事長だった大村先生と繋(つな)がるのです。入江観先生(女子美名誉教授)を通じて理事長就任を依頼すると、大村先生はすぐに「小谷家」を訪ね、修復プランを把握し、資金面も計画し、引き受けていただきました。その後の動きは迅速でした。
新婚旅行に館山を訪れたのが「海の幸」との繋がりを強めた、とも話されていました。修復・保存費用として私財300万を寄付され、東京や福岡などで計12回開いたチャリティー絵画展では、その都度作品を購入されるなど、常にこの運動を後押しし、元気づけてもらいました。
「海の幸」は「青木繁の青春」のピークに制作された作品で、近代に踏み出した「日本の青春」と交差し、その息吹を記録した傑作とも言えます。そのイメージ力は、若い絵描きの精神の血を湧かせあおって、脳に刻印する力を持っています。青木と坂本繁二郎、福田たね(青木の恋人)、森田恒友の房総への旅は1904年。神話を研究していた青木は海の神を祭る安房神社を訪ね、海に遊びました。ある日、坂本から大漁の素晴らしい様子を聞き、いきなり美の女神が舞い降り、宿泊していた小谷家で現場を見ずしてあの絵をイメージしたのでした。
それから70年後、大村先生は小谷家がある館山の対岸、相模湾を挟んだ伊豆半島のゴルフ場で土を採取し、新種の細菌を見つけ、寄生虫に効果のある抗生物質を発見。それが感染症の治療薬となり、ノーベル賞につながったとの話は、広く報道された通りです。
大村先生は絵が大好きで、才能を愛し、美を深く愛しています。作品をコレクションし、奨励制度を設け、病院をたくさんの絵で飾り、美術館をつくり、後輩を育て、人を助け、北里大学はもちろん女子美の発展にも尽くされました。「人のために生きること」を信条とする先生の判断と能力は、様々なところで発揮されてきたことでしょう。
大村先生にはじめて会った時は、「ビリッ」とする厳しい印象でした。しかしいったん話し出すと優しく、笑いが出てくる感じで、昔のおやじのイメージがあります。意志が強く、きちんと生きておられる感じがひしひしと伝わってきます。
「海の幸」を描いた22歳の青木繁の「熱」はきっと大村先生に伝染し、「海の幸」のイメージの輝きも共有されているのでしょう。
よしたけ・けんじ 画家。1948年佐賀市生まれ。NPO法人「青木繁『海の幸』会」理事、元女子美術大教授。独立美術協会会員。
ノーベル賞受賞、祝福広がる
大村さん、館山・小谷家住宅保存活動に尽力
(毎日新聞2015.10.8付)‥⇒印刷用PDF
ノーベル医学生理学賞に北里大特別名誉教授の大村智さん(80)、物理学賞に東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章さん(56)が決まり、ゆかりのある県内関係者の間に祝福の声が広がっている・
美術に造詣が深い大村さんは、明治期の洋画家・青木繁の代表作「海の幸」誕生の部隊となった小谷家住宅(館山市布良)の保存に尽力し、NPO法人青木繁「海の幸」会の理事長を務めている。
6年前、会の代表に推された大村さんは小谷家当主の小谷福哲(ふくあき)さん(64)と会い、保存運動をしても支障がないか尋ねたという。小谷さんは「温厚な紳士で、私どもの生活まで心を配っていただいた。去年もノーベル賞候補と聞いていたが、今年実現して本当によかった」と喜んだ。
住宅の修復は来年3月に終わり、大村さんの日程に合わせて4月24日に式典が開かれる。小谷さんは「受賞で忙しくなると思う。来ていただけるだろうか」と気をもんでいる。
監督トークに感慨深く
安房地域母親大会、来場者が平和に思い
(房日新聞2015.10.21付)‥⇒印刷用PDF
平和について考える「第21回安房地域母親大会」(同会実行委員会主催)が10、11日、館山市コミュニティセンター第1集会室であった。ドキュメンタリー映画の上映と監督のトークのほか、パネル展示やワークショップ、疎開体験者の話などもあり、多くの人が訪れ、それぞれの思いを深めていた。
大会スローガンは「女性と子どもの目から安房での戦争を見つめよう!」両日とも午後には、金高謙二監督の太平洋戦争末期を舞台にしたドキュメンタリー映画「疎開した40万冊の図書」の上映、その後には金高監督のトークもあった。
映画は、生きることが精いっぱいだった戦時下で、蔵書の疎開を決断した東京都立日比谷図書館の中田邦増館長や、危険な目に遭いながらも奥多摩などに本を運んだ高校生、疎開先で土偶を提供した村人らを描いた作品。この疎開で、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」をはじめ40万冊の本が守られた。東日本大震災で被災した図書館の復興も描かれ、文化を守る大切さを訴える内容になっている。
初日の10日には、会場を埋め尽くす人数で初回の上映会。上映後、金高監督は「インタビューが100%真実とは限らない。人によっていろいろな意見や解釈もある」などと、ドキュメンタリー映画製作のむずかしさに触れながら、図書館は人を育て、考えを豊かにする場所。今は民間業者の介入など大きく転換している時期だが、いろんな本を読み、判断する自由がある場にすることが必要」「自分たちが住んでいるところの文化財を守っていくことが大事」などと思いを語った。
見た人からは「人の疎開は耳にするが、本の疎開は初めて聞いた。文化を残すために命を懸けて本を守った人がいたことを知りました」などの感想が聞かれた。
安房地域の戦争中の資料を並べたパネル展示では、今年から鴨川市内の資料も追加。来場者は、初めて4市町そろった資料を見て、平和について思いを巡らせていた。
⇒ 大会の詳細はこちら。