ウガンダ支援へ120万円募る
支援グループがクラウドファンディング、10月末までに車購入基金
(房日新聞2018.7.23付)
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NPO法人安房文化遺産フォーラムのウガンダ支援グループ「ひかりの」が、ウガンダの子どもたちのために現地で活動している車両の買い替えを目指し、クラウドファンディング(インターネットによる資金調達)を始めた。目標金額は120万円で、10月31日まで募金活動する。返礼品も充実させ、早期達成を目指している。
ウガンダ共和国は今も孤児が多く、厳しい生活環境にある。南房総地域でのウガンダ支援は、旧安房南高校で始まる。物心両面での支援が続けられた。その交流の証しとして、現地に職業訓練校「安房南洋裁学校」が設立されている。
高校の統廃合に伴い安房高校JRCを経て、現在は安房西高校JRCに受け継がれ、今年で23年目を迎える。現在は同NPOが窓口となり、支援を担っている。
現地ではウガンダ意識向上協会のメンバーらが、子どもたちに寄り添いながら、学校への送迎、食料や生活用品の運搬などに活動車両を使い、走っていた。
今年5月、現地から1通のメールが届く。「活動している自動車が故障してしまい、とても困っている。車の購入資金をサポートしてもらえなか」とあった。支援バザーなども開かれているが、120万円には遠く届かない。ひかりののメンバーらが協議を続け「1人の力は小さいが、集まれば大きな力となる」と、クラウドファンディングを使って資金提供を呼び掛けることを決めた。
運営組織との詳細な協議も終え、21日から募金活動がスタートしている。返礼品は3000円コースから15万円コースまであり、ウガンダの子どもたちからのメッセージカードなどが用意されている。1万円以上は、購入した車に寄付者の名前が掲載される。
寄付は「Reаdy fоr」のホームページから。アカウント登録を済ませてから手続する。ゆうちょ銀行の「振替払込」もできる。
支援グループの共同代表の河辺智美さん、金子麻美さん、小谷美紀さんは「決っして私には何もできないと思わないで。どんな形でも構いません。協力をお願いします」と口をそろえる。
活動についての問い合わせは、ウガンダ支援グループひかりの(0470—22—8271)へ。
元搭乗員が確認「間違いない」
(読売新聞千葉版2017.8.22付)‥⇒印刷用PDF

太平洋戦争中に造られた旧海軍の特攻艇「震洋」のものとみられるスクリューやエンジンが館山沖で見つかっていたことがわかった。戦後、震洋を館山沖で処分したという関係者の証言とも一致し、地元の専門家は「貴重な発見だ」と話す。震洋の建造に、南房総地域の船大工が動員されていたことも証言から明らかになった。(笹川実)
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ウガンダの孤児支援
車買い替え協力求む
安房の高校卒業生ら
(読売新聞2017.8.17付)

内戦やエイズで親を亡くしたアフリカ・ウガンダの孤児を支援している安房地域の高校の卒業生グループが、現地の民間活動団体(NGO)が孤児らの送迎や物資の搬送に使っていた車両を買い替える活動に取り組んでいる。
支援は、農業研修で来日したウガンダ人男性が、館山市で孤児の窮状を訴えたことを契機に、1994年に当時の安房南高校生徒会がスタート。南高が安房高に統合された後も続き、さらに安房西高へとバトンがつながれ、バザー収益金などから毎年10万〜20万円を送金して23年になる。
こうした中、1台しかないNGOの車両が夜道で牛と衝突して動かなくなり、買い替えの緊急支援を求めてきた。高額のため、今回は卒業生でつくるグループ「ひかりの」が、120万円を目標にしたクラウドファンディングを今月21日から10月末まで行うことにした。問い合わせはNPO法人安房文化遺産フォーラム内の「ひかりの」。
0470-22-8271
awabunka@awa.or.jp
⇒詳細はこちら。
海軍の特攻艇「震洋」館山の基地などを紹介
あすNHKが
(房日新聞2017.8.15付)

NHK総合テレビで毎朝放送している「おはよう日本」であす8月16日、館山市波左間にあった旧海軍の特攻艇「震洋」特攻基地跡などを追った、第1特攻戦隊第18突撃隊第59震洋隊についての特集が放映される。
戦争遺跡などについて調査研究している、NPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長の池田恵美子さんがナビゲーター役として、「同所の「震洋」基地跡や赤山地下壕などを案内。新たな事実や関係者の証言なども紹介される。
放送は午前7時過ぎから。
※緊急の社会的事件が起きたときは放送延期の場合もある。

戦跡薄れる記憶
海の墓標は特攻艇「震洋」か
NHK「おはよう日本」2017.8.16放送
⇒NHKオンライン「戦跡 薄れる記憶」

【参考】
⇒ 震洋波左間基地
⇒ 読売新聞千葉版2017.8.22付
⇒朝日新聞千葉版2017.8.24付
特攻というと、「神風特攻隊」や「人間魚雷」の存在が思い浮かびますが、ボートに爆薬を積んで体当たり攻撃を行った「震洋」の存在を知っている人は多くはないのではないでしょうか。その震洋らしき船の残骸が房総半島沖の海中で見つかったと聞き、取材を開始しました。
(映像取材部:小出悠希乃)
▽「自殺ボート」と呼ばれた
「太平洋を震撼させる」という意味をこめて名付けられた「震洋」は、太平洋戦争末期に海軍が開発した特攻兵器です。5メートルほどのモーターボートで、250キロの爆薬を積んで敵艦に体当たり攻撃をする作戦でした。
ベニヤ板を貼り合わせた船体は、戦局が悪化し、物資が不足する中でも量産が可能でした。6000艇あまりが建造され、本土防衛のために広く配備されていました。しかし、訓練中に船体に穴が開いて沈没したり、出撃しても、敵艦にたどりつかなかったりして、数多くの命が、戦わずして失われました。米軍からは「Suicide Boat(自殺ボート)とも呼ばれていた震洋の犠牲者は、2500人以上にのぼります。大海に浮かぶ木の葉のようなボートで体当たりを果たす無謀な作戦が行われていたのです。
▽水深30メートルに沈む残骸は?
「震洋が見つかった!」6月下旬、千葉県館山市にあるダイビングショップから連絡がありました。連絡をくれたのは、地元の海に詳しいダイビングガイドの荒川寛幸さんです。
定置網のメンテナンス作業を行っていた際に発見した残骸が、震洋ではないかと言うのです。さっそく現場に潜ってみることにしました。
早い潮の流れを感じながら水深30メートルの海底を目指すと、見えてきたのは、3メートルほどの岩のような塊です。表面は、さまざまな生き物に覆われ、その上に泥が積もっています。
合計8回の潜水を行って丁寧に観察していくと、それがエンジンや爆薬が入っていた容器とみられることがわかってきました。
さらに砂の中からスクリューも見つかりました。残骸が間違いなく船のものであることは分かりましたが、それが「震洋」のものだという確証は得られない中、取材を進めました。
▽館山市にあった震洋の部隊
船の残骸が見つかった場所から1キロほど離れた館山市の波左間漁港は、夏は多くの海水浴客でにぎわいます。
この場所に、かつて「震洋」の部隊が配属されていました。隊員数176人からなる「第59震洋隊」の役割は、東京湾の入口で首都を防衛することでした。しかし部隊は出撃のないまま終戦を迎え、第59震洋隊はその任を終えました。隊員たちは、どのような思いで出撃を待っていたのか。それを知るために元隊員を探しましたが、極秘扱いだった震洋は、部隊の記録もほとんど残されていません。戦後に記されたわずかな手記や人づてに、なんとか第59震洋隊の元搭乗員にたどり着くことができました。
▽残された道は「震洋」しかない
「70年以上たって、今振り返ると、異常なことだったと感じる。でも、私たちは好き好んであの時代に生きていたわけではない」
東京都立川市に住む高部博さんは14歳のときに志願して海軍の予科練に入り、ゼロ戦のパイロットを目指していました。昭和20年4月、16歳で特攻に志願した高部さんが乗ることになったのは、特攻機ではなく「震洋」でした。「こんなもので走ってもたかがしれている。」しかし恐怖や葛藤を抱くことはなく、「これしかない」と腹をくくったそうです。戦局を打開するためには命を投げ出して当然という時代の中で、高部さんも特攻を当たり前のように受け入れていたと言います。「これが最善の選択だと純粋に受け止めて『死ぬ訓練』に没頭していた」10代という時期をただひたすら死に向かって生きるということは、想像もつかないことでした。「めちゃくちゃな時代だった。志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれか特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…」
神奈川県相模原市に住む伏島誠さんも、ゼロ戦に憧れて14歳の時に予科練に入りました。しかし、特攻に志願したことは一度もありませんでした。ある時名前を呼ばれて整列し、向かうことになった先が、震洋の訓練所があった長崎県川棚町でした。なんてちっぽけな船なんだ。」初めて震洋を見た時、その簡素な造りに驚いたそうです。訓練中も浸水や沈没が頻発し、死と隣り合わせでした。昭和20年7月、館山の第59震洋隊に配属された伏島さんは、そこで終戦を迎えました。「これでお袋のところに帰れる。」
伏島さんは戦後、記憶をたよりに震洋の模型を作っていました。震洋による特攻の存在を形に残しておきたいという思いからです。爆薬の容器やそこにつながる3つの信管、そしてエンジンやスクリュー。模型は資料にも残っていない細部まで精巧に再現されていました。「これは、ベニヤのボートに命を預けていたことの証し。そして、そこから生きて帰ってきたことの証しなんだ。」高部さんと伏島さん、2人の元隊員の証言を聞き、個人の意志が無視され理不尽なことがまかりとおる時代があったことを改めて認識させられました。
▽震洋から何を学び伝えるか
取材を進める中で、はじめは知らなかった震洋の姿が、どんどん迫ってくるように感じました。
水中で撮影した残骸の映像を見た伏島さんは、爆薬の容器の形状や信管の数や位置が震洋のものとそっくりだと証言しました。残骸の見つかった館山を訪れた高部さんは、上官の命令で震洋を海に沈めて処分した場所と、今回残骸が見つかった場所が、ほぼ同じだったことを証言しました。
残骸が震洋のものである可能性は限りなく高いことが分かりましたが、比較する資料や現物がほとんど残っていないため、それが震洋だという確かな証拠は現時点ではまだ得られていません。それでも、震洋について調べ、元隊員に話を聞くきっかけとなった残骸の存在は非常に大きなものでした。
高部さんが取材の最後に語った言葉です。「私たちが経験したことは無駄だったようにも思う。それでも何かの形で残しておこないと、過去のなかったものになってしまう」
震洋という存在から何を学び、何を伝えていくのか。無謀な特攻を生んだ戦争を、再び起こさせないために何ができるのか。海底で見つかった残骸の存在が、多くの人に考えるきっかけを与えてくれればと思います。
NHK「グッと!スポーツ」にダイバー・成田均さんが出演します。
日時=2017年8月1日(火)午後10時25分〜午後11時15分
再放送=2017年8月8日(火)午前0時55分〜午前1時45分
「水深100mの海へ フリーダイビング福田朋夏」
*番組ホームページ
日本の素潜り女性チャンピオンの福田朋夏さんの特集で、
人類初の水深100mを達成したジャック・マイヨールについて、
無二の親友であった館山市在住のダイバー・成田均さんが語ります。

青木繁を特集、NHKEテレ「日曜美術館」
(房日新聞2017.7.21付)
館山市布良で代表作「海の幸」を描いた画家・青木繁が、7月23日のNHKEテレの「日曜美術館」で特集される。タイトルは「魂こがして青木繁〜海を越えた〝海の幸〟と石橋凌の対話〜」。放映は午前9時から。
青木と同じ福岡県久留米市出身で、青木の絵に深い思い入れを持つ俳優でミュージシャンの石橋凌さんが、青木の作品世界に迫る内容。海の幸を描いた布良にも番組スタッフが訪れ、小谷家住宅「青木繁『海の幸』記念館」、布良の海、布良崎神社などを主催したという。
※再放送は7月30日(日)20時〜
「館山まるごと博物館」のまちづくり
よみがえった青木繁「海の幸」誕生の家・小谷家住宅
公益財団法人あしたの日本を創る協会
『まちむら』№134(2016年6月号)‥⇒印刷用PDF
千葉県南房総地域に残る戦国大名里見氏の城跡や、戦争遺跡などの歴史・文化遺産が、時代とともに忘れ去られ、破壊されていく状況にあったところを、多面的に保存・活用活動に取り組み、多くの情報を発信(フォーラムやシンポジウム、遺跡ウォーキング、講演会、講習会等を開催)することによって、地域に自信と誇りを呼び戻し、この地を訪れる人びとにも波及し、新たな交流文化によるコミュニティ・ネットワークを広げようと活躍している。地域資源を活用し、参加と連携に多様な方法と工夫を用い、また、積極的な情報発信と幅広い人材活用・育成を行なっており、また、地域の活性化につながる「新しい公共」活動の実践事例およびNPO活動のモデルとして今後一層の発展が期待される。
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地域住民と美術家たちが協働、命が《海の幸》誕生の文化遺産が復活
青木繁「海の幸」記念館
ちばぎん総合研究所『MANAGEMENT SQUARE』新・房総百景‥⇒印刷用PDF


歴史遺産で地域学習
館山で千葉大生
(千葉日報2017.6.13付)‥⇒印刷用PDF

千葉大学教育学部の竹内裕一ゼミは11日、館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)跡をはじめとした歴史遺産を現場視察した。学生や大学院生ら25人が参加。文化財の保存に努めるNPO法人安房文化遺産フォーラムの解説を聞き、平和教育や歴史遺産を使ったまちづくりを学んだ。
同法人は地域学習を推進するため、筑波や中央学院、明星などの大学で教育を学ぶ学生に現地見学や解説を行っている。社会科教育を専門とする竹内ゼミは、地域を調査する「巡検」を毎年実施しており、館山市内の歴史遺産を訪れるのは初めてとなる。
学生らは明治期の画家、青木繁が代表作「海の幸」を描いた小谷家住宅を修復工事した「青木繁『海の幸』記念館」や婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村」を訪問。同法人の愛沢伸雄代表らから施設概要や歴史などの解説を受け、遺産を通じて地域の文化や生活を知ること、教材として活用できることを体感していった。
参加した千葉大学教育学部4年の宮本一輝さん(22)は「なかなか知れない戦争遺跡の説明を受けられてよかった。小学校の教員を目指しているので、遺跡をどう子供たちに伝えていくか考えていきたい」と話した。