メディア報道

【統一日報】160210*日本洋画の傑作「海の幸」レリーフが韓国に

日本洋画の傑作「海の幸」レリーフが韓国に

河正雄氏「韓日美術交流の発展を」

(統一日報2016.2.10付)‥⇒印刷用PDF


韓国・光州市立美術館名誉館長の河正雄さんは、韓国美術交流促進のため、明治の洋画家、青木繁の代表作「海の幸」のブロンズのレリーフを両国にそれぞれ寄贈した。

韓国の寄贈先は、光州市立美術館、霊岩郡立河正雄美術館、ソウル秀林アートセンター。日本の寄贈先は、青木繁が「海の幸」を描いた場所、千葉県館山市内にある小谷家住宅と、福岡県久留米市にある青木繁旧邸の2カ所となっている。

レリーフの原型となる塑像を、彫刻家の船田正廣さんが作成。河さんが資金面などでサポートし、幅約1メートル80センチ、高さ72センチの原寸大のブロンズを完成させた。

【房日寄稿】160101*大村智「地域の貴重な文化遺産」

寄稿「地域の貴重な文化遺産」

NPO法人青木繁「海の幸」会・理事長:大村智

(房日新聞2016.1.1付)


平成21年春、明治期の洋画家、青木繁を敬慕する画家の皆さんが設立準備をすすめていた「青木繁『海の幸』会」理事長への就任要請をいただきました。

日本美術界に多大な足跡を残された夭折の画家、青木繁の「その短い生涯に燃焼しつくした浪漫溢(あふ)れる世界に接して画家になる動機を得たという方が多くおられた」と聞いていたことから、私は単身、館山市布良の小谷家を訪れ、小谷家の皆さんと話をして事業の必要性を認識し、皆さんの熱意に動かされ、少しでも力になれればと理事長就任のお話をお受けしました。

若き学生たちが滞在した小谷家の一室に佇(たたず)んだとき、青木繁、福田たね、坂本繁二郎、森田恒友らの青春群像が建ち現れてくるような思いにかられたことを昨日のことのように思い出します。

平成22年1月、NPO法人の認可を受けた「青木繁『海の幸』会」が正式に創立され、「小谷家の修復、保存とその公開」を目標に置き、まずは全ての事業を遂行するために資金を集めることにとりかかりました。

平成23年3月の大震災により一時中断を余儀なくされましたが、全国の多くの方からこの活動への深い御理解と熱い御支援を賜(たまわ)り、おかげさまで寄付の目標もあと一息というところまで来ています。

小谷家の修復工事は順調に進み、この4月に無事公開に至れば、私どもの会としての初期の目的は達成できることになり、後は強い熱意をお持ちの地元の皆さんにバトンをお渡しすることになります。

修復を終えた青木繁「海の幸」誕生の家を地域の貴重な文化遺産として、後世に残していくことを切に希望するとともに、多くの皆様に、今から110年も前の日本近代洋画の原点が芽生えた地である小谷家を訪れていただき、当時の人々に思いを馳(は)せ、多くの感動を味わっていただけますことを、心から願っております。

(北里大学特別名誉教授)

【読売千葉版】160127*「海の幸」レリーフ〝故郷〟へ

「海の幸」レリーフ〝故郷〟へ

館山・小谷家住宅,建物修復終え4月公開

(読売新聞千葉版2016.1.27付)‥⇒印刷用PDF


◇館山・小谷家住宅

明治の洋画家の青木繁(1882〜1911年)が、代表作「海の幸」を描いた館山市布良の小谷家住宅(市有形文化財)の修復が完了し、4月から一般公開される。青木や漁家・小谷家の資料などの展示準備が始まっており、屋外には「海の幸」のブロンズレリーフが石の台座付きで設置される。布良地区の象徴になりそうだ。(笹川実)

青木繁は1904年夏、小谷家に滞在。漁民の生活を見聞きし、漁民がサメを運ぶ「海の幸」を描いた。その小谷家住宅が老朽化し、2008年、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」ができ、修復保存のための募金活動が行われてきた。

10年に、全国の画家ら600人が名前を連ねたNPO法人「青木繁『海の幸』会」(川崎市)が発足して募金支援は本格化。昨春、修復工事が始まった。

木造平屋約100平方メートルの屋根や室内を修復し、再生。内部に「青木繁」「布良ゆかりの画家」といったテーマごとに三つの展示コーナーを設け、500平方メートルの敷地の一角にブロンズレリーフを展示する。

レリーフは、彫刻家で元高校教員の船田正廣さん(77)(館山市北条)が、「海の幸」を見た感動を彫刻で追いたいと、3年をかけて2004年に原寸大で完成させた。絵画「海の幸」を所蔵する石橋財団石橋美術館(福岡県久留米市)は、船田さんの独自作品とみなしている。

船田さんがこのレリーフ塑像を提供、韓国の財団がブロンズ5枚にし、うち1枚を台座付きで寄贈した。財団の理事長は、在日2世で韓国・光州市立美術館名誉館長の河正雄ハジョンウンさん(76)(埼玉県川口市)。河さんも小谷家修復に協力した一人だ。ブロンズは搬入済みで、今後、台座取り付け工事が行われる。3月13日にブロンズの除幕、4月29日から小谷家の公開が行われる。

小谷家当主の小谷福哲さん(65)は「美術愛好家の聖地として地域活性化に寄与したい」と話す。「青木繁『海の幸』会」の理事長で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智さん(80)は「『海の幸』が日韓交流の懸け橋として役立ち、大変うれしい」と喜んだ。

ブロンズ受け入れの窓口となったNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(館山市)の愛沢伸雄代表(64)は、船田さんのブロンズレリーフが安房西高校(館山市北条)に1枚展示されていることに触れ、「館山で2枚目のレリーフ。文化遺産として次代に残したい」と語る。


【写真】

修復された小谷家住宅に届いた「海の幸」のブロンズレリーフを前に喜ぶ船田さん(前列左から3人目)と地元関係者(12日、館山市布良で)

【読売夕刊】160126*名画で結ぶ日韓の縁,「海の幸」レリーフ韓国に寄贈

名画で結ぶ日韓の縁

青木繁「海の幸」レリーフ韓国に寄贈

川口市在住 韓国の美術館長

(読売新聞夕刊2016.1.26付)‥⇒印刷用PDF


日本洋画史上の傑作といわれる青木繁(1882〜1911年)の「海の幸」が、ブロンズのレリーフになって韓国に渡った。名画ゆかりの地、千葉県館山市に住む彫刻家らが制作した。日韓国交正常化50年を迎えた昨年、絵画に感銘を受けた埼玉県川口市に住む韓国の光州市立美術館名誉館長河正雄(ハジョンウン)さん(76)が、両国美術交流の懸け橋にと寄贈。韓国の美術館も「両国民が交流する契機になれば」と期待している。

館山市北条、元高校教員の船田正廣さん(77)がレリーフの原型となる塑像を作り、河さんが昨年12月、資金などを提供し幅約1メートル80、高さ72センチの原寸大で、厚さ4センチ、重さ75キロのブロンズのレリーフ5枚を完成させた。油彩画の「海の幸」を所蔵する石橋財団石橋美術館(福岡県久留米市)は独自の作品とみなしている。

寄贈先は、韓国の光州市立美術館、霊岩郡立河正雄美術館、ソウル秀林アートセンター。2か所にはすでに設置されており、光州市立美術館は今後、設置される予定だ。

在日2世で元々画家志望だった河さんは、以前から「海の幸」に込められた生命力に魅了されていた。その後本人は電器店の経営に成功したが、友人が住む館山市にある市有形文化財「小谷家住宅」で「海の幸」が描かれたことを10年前に知った。この時、船田さんがすでに制作した塑像に出会っていた。

小谷家住宅の老朽化が進んで保存運動が起き、地元保存会の設立発起人を要請された河さんは快諾。昨年、戦後70年関連行事で館山市を再訪した際、日韓国交正常化50周年を記念した美術交流の象徴として、両国でのブロンズレリーフ展示を提案し、製作費などの支援を申し出た。河さんが理事長を務める秀林文化財団として寄贈する。

レリーフは、国内では小谷家住宅と久留米市の青木繁旧居にも寄贈。小谷家住宅には3月に設置され、旧居への設置は、所有する久留米市が検討中という。「日韓交流に役立つならうれしい」と船田さん。河さんは「『海の幸』は国境を超える普遍的な芸術性がある。日韓融和に花を添えたい」と語る。霊岩郡立河正雄美術館の任喜星(イムヒソン)寛著は「韓国で日本文化に対する理解が広がり、両国民が活発に交流する契機となればいい」と話した。

「海の幸」

福岡県久留米市出身の青木繁が、東京美術学校(現東京芸大)を卒業した1904年(明治37年)夏、画友と旅行で訪れた館山市布良(めら)で、漁家の小谷家に40日間滞在した際に制作。地元住民との交流から着想し、大きなサメを担いで砂浜を歩く漁民を描いた。発表直後から高い評価を集め洋画第一号の国重要文化財になった。

【房日】160101*小谷家公開へ

布良の小谷家,今春公開へ

青木繁「海の幸」誕生の家,地域活性化にも期待増

(房日新聞2016.1.1)‥⇒印刷用PDF


青木繁が代表作「海の幸を制作した「小谷家住宅」=館山市布良=の修復作業がほぼ完了し、今年4月24日に公開されることが決まった。老朽化が進んでいたが、地元、画壇が保存、修復に動き、明治時代の姿を取り戻した。新たな館山の名所として、地域活性化への効果も期待されている。

名画「海の幸」誕生の家に傷み

漁を終えた裸の漁師たちが、大きなフカ(サメ)を担ぎ、夕日を浴びて戻ってくる。国重要文化財「海の幸」が誕生したのがこの小谷家だ。

青木繁は明治37年(1904)夏、仲間4人で房総に写生旅行に訪れ、この家の一室で、海の幸を描き上げた。

漁師町にたたずむ小谷家住宅は、江戸時代から続く網元の家。明治期に建てられた瓦ぶきの平屋建てで約93平方メートル。安房の特色である分棟型民家の特徴を残したつくり。

文化的な構造だけでなく、歴史的建造物としての価値も高く、平成21年の市の有形文化財に指定されたが、築130年近くと老朽化が進み、屋根などに傷みが目立っていた。

家なくして海の幸誕生はなかった」。保存運動に動いたのが、現当主・小谷福哲さん(65)、地元でつくる「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」、日本美術界の有志で組織した「NPO法人青木繁『海の幸』会」の3者だ。修復、公開に向けて支援を呼びかけた。

この海の幸会の理事長に就任したのが、昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏(80)。海の幸会では、全国の画家に協力を求めたチャリティー巡回展で資金を集め、大村氏自身も300万円を寄付した。

3者の連携で支援の輪が広がった。市のふるさと納税制度でも寄付を募り、総事業費焼く4600万円の資金のめども立ち、市の補助を受け昨年度から修復工事に着手。3者の保存運動が実を結び、修復もおおむね終わり、公開が決まった。

明治の面影の家4月以降公開へ

美しい屋根瓦、時代を感じさせるナマコ壁—。傷んでいた屋根は全面的にふきかえられ、昭和に入って増築された部分は撤去、当時の姿に近づけて修復された。

明治の面影そのままに復元された小谷家。建物内も歴史を感じさせる奥座敷と二間も見ることができる。

青木らが訪れたたたずまいを残す約200坪の庭もきれいに整えられており、公開に向けて「海の幸」の複製画、同家の資料などの展示物の準備、調整が進められている。

4月のオープン後は、地元の保存する会で管理。土曜、日曜日の週2回の公開を予定。地域文化の拠点としての活用も検討している。

近くには青木没後50周年を記念して建立された記念碑もあり、青木繁の聖地として注目を集めそうで、新たな名所として活性化が期待されている。

「富崎に活気を」小谷家の現当主

「海の幸会には資金的に大きな支援、地元保存会の方々には多くのお力をいただき、行政のバックアップもあった。公開にこぎ着けられたのは、たくさんの方々のおかげ」と現当主・小谷福哲さん。

「『将来の子どもたちのために』と小谷家の保存、公開を決断した先代・栄氏の思いを引き継ぎで活動をしてきた。小谷家を単なる観光文化施設でなく、子どもたちの学び、教育の空間にしたい」と強調。

「現在は衰退しているが、マグロはえ縄漁なども盛んで、かつての富崎は活気にあふれていた。小谷家をきっかけに、布良崎神社など地域の文化遺産をつけて人を呼び込み、再びこのエリアが活気づくことを願う」と思いを語る。

「しっかり活用を」嶋田博信保存会長

地元の保存会の嶋田博信会長(82)は「青木繁、海の幸を愛する全国のファン、画家の皆さんから多くの資金が寄せられた。海の幸会をはじめ多くの方に感謝」とお礼の言葉。

4月からの公開に向けては「ここからが私たちの役目。支援していただいた皆さんの思いをしっかり引き継ぎ、小谷家を中心に四季折々の催しをして地域に人を引き寄せたい」と熱意を見せる。

「この機会をとらえなければ、地域活性化は成しえないとの思いで、皆と綿密に計画を立て、活性化を図っていきたい」と語っていた。



大村智氏の寄稿

【房日】151205*海の幸誕生の家と記念碑保存する会、文化財保護功労

海の幸誕生の家と記念碑保存する会

文化財保護功労で表彰

(房日新聞2015.12.5付)⇒印刷用PDF

館山市の「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)が、県文化財保護協会の創立50周年記念文化財保護功労者表彰を受賞した。千葉市内であった表彰式で表彰された。受賞者数は2人と3団体だった。

同会は、青木繁が「海の幸」を制作した館山市布良の小谷家住宅、青木繁の没後50年記念で建てられた記念碑の保存、活用に向け、地元有志を中心に結成された。

小谷家住宅は、同会の依頼した専門家による調査で、明治前期の貴重な建物であることが分かり、平成9年に市の文化財指定を受けた。

同会では修復、公開を目指して、全国の著名画家らによるNPOと連携して基金を集め、保存に向けたふるさと納税制度の整備にも尽力。こうした取り組みによって、同住宅は修復され、来春に公開される予定となっている。

同会の前身は、「青木繁《海の幸》記念碑を保存する会」。一時撤去の危機にあった記念碑が、地元の要望により市が保存することになったのを契機に、平成10年に地元有志で設立された団体で、現在も草刈りなど保存や普及といった活動を引き継いでおり、一連の文化財保護、活用の取り組みが評価された。

【房日】151129*館山総合高校「観光の学び」

館山総合高校148人が「観光の学び」

1年生がNPOと協働で授業

(房日新聞2015.11.29付)⇒印刷用PDF

県教委が進める「魅力ある県立高校づくり」の一環として、「観光の学び」に取り組んでいる館山総合高校(安田健治校長)でこのほど、これまでの学びを振り返る授業があった。1年生148人がNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)との協働で、校外学習をしていた。仕上げとなる授業では、館山市経済観光部プロモーションみなと課の石井博臣課長と、房日新聞社の忍足利彦編集部次長がゲストスピーカーとして、館山の観光について語った。

地元の観光資源をあらためて知ろうと、校外学習を展開。1年生はバス4台に分乗し、赤山地下壕、青木繁『海の幸』誕生の小谷家住宅、布良崎神社、大巌院のハングル四面石塔、渚の駅などを見学した。NPOのガイドを受け、地元・館山の観光要素を現地で学んだ。

事前学習ではDVD「館山まるごと博物館」や同名の冊子で知識を重ねた。現地では詳しい説明も受けた。生徒らは「何もないと思っていたが、館山に深い歴史があって驚いた」「こんなに素晴らしい観光資源を多くの人に知ってもらいたい」「市民が文化財を大切にしていることに感動した」などの感想を残している。

仕上げの学習となった授業では、愛沢代表らがパワーポイントで生徒の感想を紹介。その後、ゲストとして石井課長が「館山市の観光の現状」、忍足次長が「幸せ値を生かして田舎暮らし」などを語り、館山の魅力を伝えた。

【東京】151122*文化財答申、小高記念館は有形文化財

文化財答申、屛風ヶ浦、国名勝に

小高記念館は有形文化財

(東京新聞2015.11.22付)‥⇒印刷用PDF

国の文化財審議会による投信で、県内では屏風(びょうぶ)ケ浦(銚子市)が国の名称及び天然記念物に指定される見通しとなった。大正期に銀行として建てられ、昭和初期に館山港近くに移築された「小高(おだか)記念館」(館山市)は有形文化財(建造物)の登録が答申された。

屏風ケ浦は太平洋に面して、約10キロにわたって下総台地が削られてできた海食崖(かいしょくがい)で、最大落差は約60メートル。1億年以上前の硬い岩盤を基盤として、約300万年〜40万年前に海底に堆積した犬吠層群と、その上に堆積した香取層や関東ローム層から成る。急激な風化と浸食を受けて形成された地形が見られ、地質学上価値が高いとされた。

江戸末期の歌川広重の「六十余州名所図会」に描かれるなど、江戸時代から現在まで絵や文学で取り上げられ、名勝としても価値が高い。

小高記念館は洋風の外観で木造二階建て。現在は地元のNPO法人安房文化遺産フォーラムの事務所となっている。

市やフォーラムによると、建物は1930(昭和5)年ごろ、現在の場所に移築され、戦前に県議会議員、戦後は衆議院議員を務めた小高熹郎(としろう)氏が事務所などとして使用した。

小高氏の死去後、90年代半ばから一時閉鎖。地域の文化振興にも尽力した小高氏の遺志を継ぐとして、フォーラムが2006年から活動拠点にしてきた。代表の愛沢伸雄さん(64)は「大変光栄。私たちの文化財保存活動にも弾みがつく」と登録の答申を喜んだ。

(村上一樹、北浜修)

【毎日】151121*小高記念館が国有形文化財に

小高記念館が国有形文化財に

(毎日新聞2015.11.21付)‥⇒印刷用PDF

また、文化審は、館山市館山の海岸通りに面した「小高(おだか)記念館」登録有形文化財(建造物)に指定することも答申した。

小高記念館は大正初期に千葉銀行の前身の「古川銀行鴨川支店」として建てられた木造2階建ての洋風建築。関東大震災で館山地区の主要な建物が壊滅したこともあり、1930年に水産業の拠点として館山港にほど近い現在地に移築された。

戦後は小高熹郎(としろう)衆議院議員(1902〜97年)の事務所を経て、地域の水産関係や文化財の「資料館」として使われた。小高氏の死去後は使われず朽ちかけていたが、NPO安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が小高家の了解を得て2006年から活動拠点として使っている。

愛沢代表は「外壁の塗装など手間はかかるが、内部はしっかりした造り。文化財として認められたのを機に、街づくりの拠点にという小高先生の遺志を受け継いでいきたい」と話している。

【中島章隆】