南房総の「エコミュージアム」
地域市民、誇り持ち活動
愛沢伸雄=NPO法人安房文化遺産フォーラム代表
千葉日報2017.9.4付「ちばオピニオン」‥ ⇒印刷用PDF

地域全体を博物館と見立てて、魅力的な自然遺産や文化遺産を再発見するとともに、市民の主体的な学習・研究・展示・保全などの活動を通じて活性化を図るまちづくり手法を「エコミュージアム」という。もっとも重要なことは、住民が自ら地域課題をよく理解し、暮らしやすい地域の将来像を描くことだといわれる。
地図を逆さに見ると、房総半島南部の安房地域は、弧を描いた日本列島の頂点に位置している。地政学上、重要な軍事拠点であるとともに、広く海洋世界と交流し共生した地であった。繰り返し起きる地震津波や遭難、戦乱などを乗り越え、助け合い、支え合って生きてきた先人たちの姿を学ぶことができる。
世界史教師であった私は、足もとの地域教材を活かして、地域と自己を見つめなおし、世界を俯瞰するグローバルな視野を育む教育を試みてきた。生徒が主役の授業づくりは、やがて市民が主役の生涯学習まちづくりに発展した。
人びとの記憶から消された歴史は多いが、30年にわたる市民の保存運動により、戦争遺跡群や里見氏城跡群、青木繁「海の幸」誕生の小谷家住宅をはじめ小高記念館や小原家住宅などの建物を、国や市の指定・登録文化財とすることに成果を上げてきた。
「館山まるごと博物館」活動を通じて、市民らは自分たちが暮らす地域への誇りを蘇らせ、まちづくりへのエネルギーを呼び起こしている。
NPO活動の主たる事業は、スタディーツアーガイドである。赤山地下壕跡の入壕者は、東日本大震災の影響により一時激減したが、「戦後70年」の取り組みがメディアに広く紹介されたことを機に、年間3万人を超えるようになった。
NPO設立当初は、平和学習ツアーが大半であったが、昨今はエコミュージアムまちづくり視察の来訪者が、国内外から増えている。「館山まるごと博物館」の事例は、行政主導ではなく、市民の主体的活動であることが注目されているという。
また、全国の美術家などとネットワークを図って、小谷家住宅の修復基金を創出し、青木繁「海の幸」記念館を昨春開館した。細々とした民間運営のため、開館日は土日のみ(平日は団体予約可)であるが、来館者は年間3000人を超えた。
この活動では、ノーベル賞の大村智先生が理事長であるNPO法人青木繁「海の幸」会、青木繁の故郷・福岡県久留米市の青木繁旧居保存会、作品を所蔵する石橋財団をはじめ、多くの団体やゆかりの自治体との連携による成果が評価され、千葉県知事より「ちばコラボ大賞」が授与された。
洋画で最初の重要文化財となった青木繁「海の幸」は、現在パリで展覧会が開かれ、国際的な評価が高まっている。東京八重洲のブリヂストン美術館は、海外からの誘客を図るため、東京オリンピック前にリニューアルオープンの予定で建て直しを進めている。
かつて千葉県は「NPO立県」を標榜していた2004年に、我々も法人を設立して13年になる。多様な公益活動の成果を上げているものの、現実には人件費も困難な状況が続き、ソーシャル・ビジネスの展開を模索している。
地元の若者が残るような魅力的な地域づくりを進め、高齢者の年金プラス5万円の収入につながっていく仕事づくりのためにも、県や市をはじめ多様な主体との協働をさらに図り、次のステップに進んでいきたいと願っている。
ウガンダの子どものため活動車両を買い替えたい
河辺智美・金子麻美・小谷美紀
(房日新聞寄稿2017.8.24〜25付)‥⇒印刷用PDF

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ウガンダ支援のはじまり
私たちはNPO法人安房文化遺産フォーラムの中で活動している、安房南高校の卒業生を中心としたウガンダ支援「ひかりの」というグループです。
皆さんは安房の高校生が取り組んできたアフリカ・ウガンダへの支援活動と、その後の経過をご存知ですか。
ウガンダへの支援活動は1994年、安房南高校の生徒たちによって、内戦やエイズの蔓延(まんえん)で両親を亡くしたたくさんの孤児たちからの〝学びたい〟という呼びかけに応えて、数人の有志から始まった活動です。
きっかけは館山市内の「かにた婦人の村」の深津文雄牧師からウガンダのセンパラさんを紹介されたからです。最初はささやかな活動でしたが、学校全体に呼びかけられ、生徒会活動となって、そのための組織であるボランティア委員会がつくられました。
先生や保護者、同窓会の方々をはじめ地域の方など皆様の温かいご支援ご協力をいただきながら、安房南高校統廃合の2008年まで続きました。その後は、統合された安房高校のなかの有志に引き継がれ、とくにJRC部の皆さんが取組んできました。そして現在は、安房西高校のJRC部の皆さんにバトンタッチされ、安房地域の高校生の皆さんによって23年にわたって続けられてきた国際交流活動です。
その間、当時の安房南高校社会科教諭でボランティア委員会顧問であった愛沢伸雄氏が、ウガンダとの窓口を担っていただき、高校生による支援活動を23年間サポートし続けてきました。今は教員を退職され、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表とし10数年安房地域の歴史や文化を活かしたまちづくり活動に関わり、とくに市民活動の立場から高校生によるウガンダ支援活動を応援してきました。(安房文化遺産フォーラムのHP参照)
ウガンダにつくられた安房南洋裁学校
当初より現地の孤児支援の窓口は、子どもたちの教育・生活支援をするウガンダ意識向上協会(CUFI)のセンパラさんでした。アジア学院で農業指導者の研修生として来日されたときに、かにた村に来たことが縁となり、安房南高に2回来校し、直接、生徒たちの前で孤児たちの支援を訴えられました。目に見える形で交流と支援が続きましたので、センパラさんの名前を懐かしく思われる卒業生は地域に3千名近くいらっしゃると思います。
安房南高校生をはじめ安房高や安房西高JRC部による毎年のウガンダバザーでの収益金、チャリティ募金、安房文化遺産フォーラムに寄せられた寄付などから10〜20万円の支援金や中古衣料、文房具等を送ってきました。
その中で象徴的なことは、建物の正面に安房南高校章が付けられた「安房南洋裁学校」という職業訓練所が設立されたことです。安房南高家政科で使用されたミシンを送り、ウガンダの孤児たちの職業自立のための学校として大変喜ばれています。しかし、現在まで運営の資金が不足がちでセンパラさんもご苦労されています。
子どもたちの笑顔があふれて
支援金を送るたびにお礼の手紙や活動内容、現地の子どもたちに資金がどう使われているかの報告があり、その時に写真や、子どもたちの絵などを送ってくれます。写真の子どもたちは皆、笑顔で私たちの支援に対しての感謝と喜びにあふれています。絵には子どもたちの生活が向上し、日本から送ったボールや長縄等で遊ぶ様子を描いたカラフルなものがたくさんあります。
支援当初に届いたモノクロの絵を見ると、血なまぐさい戦場の姿であり、戦闘機からの攻撃や兵士が戦っている絵でしたが、この23年間という時の流れのなかで、地道な支援が少しずつ実って生きてきたようにも感じられます。
安房地域でもウガンダ支援の輪が広がり、とくに安房・平和のための美術展実行委員会の皆さんが12年前から子どもたちの絵の展示やチャリティ収益金から支援金をいただきました。子どもの絵も美術展開催の案内はがきやポスターに採用してくれたことは忘れることができません。今年も安房・平和のための美術展は27日まで南房総市の枇杷倶楽部ギャラリーにて開催されますが、子どもたちが描いた絵なども展示しますので、ぜひご来場ください。
支援の輪が広がって
安房南高校の生徒たちから始まったウガンダ支援活動は、今年で23年目となったものの、その間に安房南高校が統廃合になり、安房高校や安房西高校のJRC部に引き継がれていく経緯にはとても困難な状況がたびたびありました。しかし、強い思いをもって地道に継続してきました。
ウガンダとの20年を記念してNPO安房文化遺産フォーラムでは、安房南高校で美術教師であった船田正廣氏が製作したブロンズ彫刻「安房南高校生徒像」を、友情の証としてウガンダへ贈りました。
長年支援・交流を続けてこられたのは、各校の先生や保護者の方々をはじめ、かにた婦人の村、安房・平和のための美術展実行委員会、同窓芳誼会(安房南高校同窓会)、館山ロータリークラブ、スーパーおどやイオン、館山病院、館山信用金庫など、数多くの市民団体や企業が高校生の活動を支えていただくとともに、今日まで見守ってきてくださったからでした。
ウガンダでの緊急事態
ウガンダ現地の活動も順調の様に思えた矢先、センパラ氏より一通のメールが届きました。それは、現在の活動拠点で子どもたちの送迎用などに使用している自動車が故障してしまいとても困っているという緊急の内容でした。
ウガンダ国内での活動には、どうしても自動車が必要であり、中古車の購入資金をサポートして貰えないかというお願いでした。その資金額は120万円という大金です。私たちにとっても、例年支援バザーに力を入れていますが、今の活動ではあまりにも高額であり、すぐに準備することは当然にも無理です。私たちはこの間に、センパラさんとやり取りをし、現地の支援活動を見て緊急事態と判断しました。
そこでこの紙上をお借りしてのお願いとなったのです。私たち「ひかりの」のウガンダ支援活動に対して資金面でご支援ご協力をお願いできないでしょうか。一人ひとりの力を束ねて大きな力にしセンパラさんに自動車購入資金を届けたいと思っています。
購入資金をクラウドファンティングで
そこで21日より約2か月間にわたって「Ready for」という団体のクラウドファンディングの力をお借りして、インターネットやフェイスブック上で呼びかけて、全国の皆さんから資金を募っていく活動を実施することにしました。とくに安房地域の皆さんのお力をお借りしたいと願っています。
ウガンダの孤児たちに学びの場をつくる活動しているセンパラさんたちの熱い思いを地球市民の一人としてサポートしていきたいと思っています。何よりも国境を越えて子どもたちの学びを支えていくことで、私たちも国際平和に貢献するのではないでしょうか。
私たちの思いと一歩を踏み出す活動
私たちは、ウガンダの子どもたちの支援と交流をこれからもずっと続けていきたいと考えています。当然、資金面や活動面での術がとても重要ですので、皆さんのお力をお借りして、この支援の輪を広げていきたいと思っています。
また、ウガンダ支援グループ「ひかりの」では、現役の高校生や卒業生、そして地域の若者たちの核になるためにも、息の長い国際支援・交流活動を進めていく話し合いやボランティアの場をつくっていきたいと願っています。
決して〝私には何も出来ない〟のではなく、一人ひとりが願っていること、そのことの一歩を踏み出すかどうかにあると思います。そような機会が身近にあれば出来るはずです。皆さんのご理解とご協力を願うとともに、参加される皆さんのご連絡をお待ちしております。
Eメールは、ugandahikarino@gmail.com
(NPO安房文化遺産フォーム・ウガンダ支援グループ「ひかりの」共同代表)
ウガンダ支援へ120万円募る
支援グループがクラウドファンディング、10月末までに車購入基金
(房日新聞2018.7.23付)
‥⇒印刷用PDF

NPO法人安房文化遺産フォーラムのウガンダ支援グループ「ひかりの」が、ウガンダの子どもたちのために現地で活動している車両の買い替えを目指し、クラウドファンディング(インターネットによる資金調達)を始めた。目標金額は120万円で、10月31日まで募金活動する。返礼品も充実させ、早期達成を目指している。
ウガンダ共和国は今も孤児が多く、厳しい生活環境にある。南房総地域でのウガンダ支援は、旧安房南高校で始まる。物心両面での支援が続けられた。その交流の証しとして、現地に職業訓練校「安房南洋裁学校」が設立されている。
高校の統廃合に伴い安房高校JRCを経て、現在は安房西高校JRCに受け継がれ、今年で23年目を迎える。現在は同NPOが窓口となり、支援を担っている。
現地ではウガンダ意識向上協会のメンバーらが、子どもたちに寄り添いながら、学校への送迎、食料や生活用品の運搬などに活動車両を使い、走っていた。
今年5月、現地から1通のメールが届く。「活動している自動車が故障してしまい、とても困っている。車の購入資金をサポートしてもらえなか」とあった。支援バザーなども開かれているが、120万円には遠く届かない。ひかりののメンバーらが協議を続け「1人の力は小さいが、集まれば大きな力となる」と、クラウドファンディングを使って資金提供を呼び掛けることを決めた。
運営組織との詳細な協議も終え、21日から募金活動がスタートしている。返礼品は3000円コースから15万円コースまであり、ウガンダの子どもたちからのメッセージカードなどが用意されている。1万円以上は、購入した車に寄付者の名前が掲載される。
寄付は「Reаdy fоr」のホームページから。アカウント登録を済ませてから手続する。ゆうちょ銀行の「振替払込」もできる。
支援グループの共同代表の河辺智美さん、金子麻美さん、小谷美紀さんは「決っして私には何もできないと思わないで。どんな形でも構いません。協力をお願いします」と口をそろえる。
活動についての問い合わせは、ウガンダ支援グループひかりの(0470—22—8271)へ。
元搭乗員が確認「間違いない」
(読売新聞千葉版2017.8.22付)‥⇒印刷用PDF

太平洋戦争中に造られた旧海軍の特攻艇「震洋」のものとみられるスクリューやエンジンが館山沖で見つかっていたことがわかった。戦後、震洋を館山沖で処分したという関係者の証言とも一致し、地元の専門家は「貴重な発見だ」と話す。震洋の建造に、南房総地域の船大工が動員されていたことも証言から明らかになった。(笹川実)
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ウガンダの孤児支援
車買い替え協力求む
安房の高校卒業生ら
(読売新聞2017.8.17付)

内戦やエイズで親を亡くしたアフリカ・ウガンダの孤児を支援している安房地域の高校の卒業生グループが、現地の民間活動団体(NGO)が孤児らの送迎や物資の搬送に使っていた車両を買い替える活動に取り組んでいる。
支援は、農業研修で来日したウガンダ人男性が、館山市で孤児の窮状を訴えたことを契機に、1994年に当時の安房南高校生徒会がスタート。南高が安房高に統合された後も続き、さらに安房西高へとバトンがつながれ、バザー収益金などから毎年10万〜20万円を送金して23年になる。
こうした中、1台しかないNGOの車両が夜道で牛と衝突して動かなくなり、買い替えの緊急支援を求めてきた。高額のため、今回は卒業生でつくるグループ「ひかりの」が、120万円を目標にしたクラウドファンディングを今月21日から10月末まで行うことにした。問い合わせはNPO法人安房文化遺産フォーラム内の「ひかりの」。
0470-22-8271
awabunka@awa.or.jp
⇒詳細はこちら。
海軍の特攻艇「震洋」館山の基地などを紹介
あすNHKが
(房日新聞2017.8.15付)

NHK総合テレビで毎朝放送している「おはよう日本」であす8月16日、館山市波左間にあった旧海軍の特攻艇「震洋」特攻基地跡などを追った、第1特攻戦隊第18突撃隊第59震洋隊についての特集が放映される。
戦争遺跡などについて調査研究している、NPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長の池田恵美子さんがナビゲーター役として、「同所の「震洋」基地跡や赤山地下壕などを案内。新たな事実や関係者の証言なども紹介される。
放送は午前7時過ぎから。
※緊急の社会的事件が起きたときは放送延期の場合もある。

戦跡薄れる記憶
海の墓標は特攻艇「震洋」か
NHK「おはよう日本」2017.8.16放送
⇒NHKオンライン「戦跡 薄れる記憶」

【参考】
⇒ 震洋波左間基地
⇒ 読売新聞千葉版2017.8.22付
⇒朝日新聞千葉版2017.8.24付
特攻というと、「神風特攻隊」や「人間魚雷」の存在が思い浮かびますが、ボートに爆薬を積んで体当たり攻撃を行った「震洋」の存在を知っている人は多くはないのではないでしょうか。その震洋らしき船の残骸が房総半島沖の海中で見つかったと聞き、取材を開始しました。
(映像取材部:小出悠希乃)
▽「自殺ボート」と呼ばれた
「太平洋を震撼させる」という意味をこめて名付けられた「震洋」は、太平洋戦争末期に海軍が開発した特攻兵器です。5メートルほどのモーターボートで、250キロの爆薬を積んで敵艦に体当たり攻撃をする作戦でした。
ベニヤ板を貼り合わせた船体は、戦局が悪化し、物資が不足する中でも量産が可能でした。6000艇あまりが建造され、本土防衛のために広く配備されていました。しかし、訓練中に船体に穴が開いて沈没したり、出撃しても、敵艦にたどりつかなかったりして、数多くの命が、戦わずして失われました。米軍からは「Suicide Boat(自殺ボート)とも呼ばれていた震洋の犠牲者は、2500人以上にのぼります。大海に浮かぶ木の葉のようなボートで体当たりを果たす無謀な作戦が行われていたのです。
▽水深30メートルに沈む残骸は?
「震洋が見つかった!」6月下旬、千葉県館山市にあるダイビングショップから連絡がありました。連絡をくれたのは、地元の海に詳しいダイビングガイドの荒川寛幸さんです。
定置網のメンテナンス作業を行っていた際に発見した残骸が、震洋ではないかと言うのです。さっそく現場に潜ってみることにしました。
早い潮の流れを感じながら水深30メートルの海底を目指すと、見えてきたのは、3メートルほどの岩のような塊です。表面は、さまざまな生き物に覆われ、その上に泥が積もっています。
合計8回の潜水を行って丁寧に観察していくと、それがエンジンや爆薬が入っていた容器とみられることがわかってきました。
さらに砂の中からスクリューも見つかりました。残骸が間違いなく船のものであることは分かりましたが、それが「震洋」のものだという確証は得られない中、取材を進めました。
▽館山市にあった震洋の部隊
船の残骸が見つかった場所から1キロほど離れた館山市の波左間漁港は、夏は多くの海水浴客でにぎわいます。
この場所に、かつて「震洋」の部隊が配属されていました。隊員数176人からなる「第59震洋隊」の役割は、東京湾の入口で首都を防衛することでした。しかし部隊は出撃のないまま終戦を迎え、第59震洋隊はその任を終えました。隊員たちは、どのような思いで出撃を待っていたのか。それを知るために元隊員を探しましたが、極秘扱いだった震洋は、部隊の記録もほとんど残されていません。戦後に記されたわずかな手記や人づてに、なんとか第59震洋隊の元搭乗員にたどり着くことができました。
▽残された道は「震洋」しかない
「70年以上たって、今振り返ると、異常なことだったと感じる。でも、私たちは好き好んであの時代に生きていたわけではない」
東京都立川市に住む高部博さんは14歳のときに志願して海軍の予科練に入り、ゼロ戦のパイロットを目指していました。昭和20年4月、16歳で特攻に志願した高部さんが乗ることになったのは、特攻機ではなく「震洋」でした。「こんなもので走ってもたかがしれている。」しかし恐怖や葛藤を抱くことはなく、「これしかない」と腹をくくったそうです。戦局を打開するためには命を投げ出して当然という時代の中で、高部さんも特攻を当たり前のように受け入れていたと言います。「これが最善の選択だと純粋に受け止めて『死ぬ訓練』に没頭していた」10代という時期をただひたすら死に向かって生きるということは、想像もつかないことでした。「めちゃくちゃな時代だった。志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれか特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…」
神奈川県相模原市に住む伏島誠さんも、ゼロ戦に憧れて14歳の時に予科練に入りました。しかし、特攻に志願したことは一度もありませんでした。ある時名前を呼ばれて整列し、向かうことになった先が、震洋の訓練所があった長崎県川棚町でした。なんてちっぽけな船なんだ。」初めて震洋を見た時、その簡素な造りに驚いたそうです。訓練中も浸水や沈没が頻発し、死と隣り合わせでした。昭和20年7月、館山の第59震洋隊に配属された伏島さんは、そこで終戦を迎えました。「これでお袋のところに帰れる。」
伏島さんは戦後、記憶をたよりに震洋の模型を作っていました。震洋による特攻の存在を形に残しておきたいという思いからです。爆薬の容器やそこにつながる3つの信管、そしてエンジンやスクリュー。模型は資料にも残っていない細部まで精巧に再現されていました。「これは、ベニヤのボートに命を預けていたことの証し。そして、そこから生きて帰ってきたことの証しなんだ。」高部さんと伏島さん、2人の元隊員の証言を聞き、個人の意志が無視され理不尽なことがまかりとおる時代があったことを改めて認識させられました。
▽震洋から何を学び伝えるか
取材を進める中で、はじめは知らなかった震洋の姿が、どんどん迫ってくるように感じました。
水中で撮影した残骸の映像を見た伏島さんは、爆薬の容器の形状や信管の数や位置が震洋のものとそっくりだと証言しました。残骸の見つかった館山を訪れた高部さんは、上官の命令で震洋を海に沈めて処分した場所と、今回残骸が見つかった場所が、ほぼ同じだったことを証言しました。
残骸が震洋のものである可能性は限りなく高いことが分かりましたが、比較する資料や現物がほとんど残っていないため、それが震洋だという確かな証拠は現時点ではまだ得られていません。それでも、震洋について調べ、元隊員に話を聞くきっかけとなった残骸の存在は非常に大きなものでした。
高部さんが取材の最後に語った言葉です。「私たちが経験したことは無駄だったようにも思う。それでも何かの形で残しておこないと、過去のなかったものになってしまう」
震洋という存在から何を学び、何を伝えていくのか。無謀な特攻を生んだ戦争を、再び起こさせないために何ができるのか。海底で見つかった残骸の存在が、多くの人に考えるきっかけを与えてくれればと思います。
NHK「グッと!スポーツ」にダイバー・成田均さんが出演します。
日時=2017年8月1日(火)午後10時25分〜午後11時15分
再放送=2017年8月8日(火)午前0時55分〜午前1時45分
「水深100mの海へ フリーダイビング福田朋夏」
*番組ホームページ
日本の素潜り女性チャンピオンの福田朋夏さんの特集で、
人類初の水深100mを達成したジャック・マイヨールについて、
無二の親友であった館山市在住のダイバー・成田均さんが語ります。

青木繁を特集、NHKEテレ「日曜美術館」
(房日新聞2017.7.21付)
館山市布良で代表作「海の幸」を描いた画家・青木繁が、7月23日のNHKEテレの「日曜美術館」で特集される。タイトルは「魂こがして青木繁〜海を越えた〝海の幸〟と石橋凌の対話〜」。放映は午前9時から。
青木と同じ福岡県久留米市出身で、青木の絵に深い思い入れを持つ俳優でミュージシャンの石橋凌さんが、青木の作品世界に迫る内容。海の幸を描いた布良にも番組スタッフが訪れ、小谷家住宅「青木繁『海の幸』記念館」、布良の海、布良崎神社などを主催したという。
※再放送は7月30日(日)20時〜
「館山まるごと博物館」のまちづくり
よみがえった青木繁「海の幸」誕生の家・小谷家住宅
公益財団法人あしたの日本を創る協会
『まちむら』№134(2016年6月号)‥⇒印刷用PDF
千葉県南房総地域に残る戦国大名里見氏の城跡や、戦争遺跡などの歴史・文化遺産が、時代とともに忘れ去られ、破壊されていく状況にあったところを、多面的に保存・活用活動に取り組み、多くの情報を発信(フォーラムやシンポジウム、遺跡ウォーキング、講演会、講習会等を開催)することによって、地域に自信と誇りを呼び戻し、この地を訪れる人びとにも波及し、新たな交流文化によるコミュニティ・ネットワークを広げようと活躍している。地域資源を活用し、参加と連携に多様な方法と工夫を用い、また、積極的な情報発信と幅広い人材活用・育成を行なっており、また、地域の活性化につながる「新しい公共」活動の実践事例およびNPO活動のモデルとして今後一層の発展が期待される。
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