メディア報道

【房日】170815*海軍の特攻艇「震洋」館山基地など紹介(NHK「おはよう日本」)

海軍の特攻艇「震洋」館山の基地などを紹介

あすNHKが

(房日新聞2017.8.15付)

NHK総合テレビで毎朝放送している「おはよう日本」であす8月16日、館山市波左間にあった旧海軍の特攻艇「震洋」特攻基地跡などを追った、第1特攻戦隊第18突撃隊第59震洋隊についての特集が放映される。

戦争遺跡などについて調査研究している、NPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長の池田恵美子さんがナビゲーター役として、「同所の「震洋」基地跡や赤山地下壕などを案内。新たな事実や関係者の証言なども紹介される。

放送は午前7時過ぎから。


※緊急の社会的事件が起きたときは放送延期の場合もある。

【NHK】170816「戦跡薄れる記憶」~ 海の墓標は特攻艇「震洋」か

戦跡薄れる記憶
海の墓標は特攻艇「震洋」か

NHK「おはよう日本」2017.8.16放送

NHKオンライン「戦跡 薄れる記憶」

【参考】

⇒ 震洋波左間基地

⇒ 読売新聞千葉版2017.8.22付

朝日新聞千葉版2017.8.24付

 

特攻というと、「神風特攻隊」や「人間魚雷」の存在が思い浮かびますが、ボートに爆薬を積んで体当たり攻撃を行った「震洋」の存在を知っている人は多くはないのではないでしょうか。その震洋らしき船の残骸が房総半島沖の海中で見つかったと聞き、取材を開始しました。

(映像取材部:小出悠希乃)

 

▽「自殺ボート」と呼ばれた

「太平洋を震撼させる」という意味をこめて名付けられた「震洋」は、太平洋戦争末期に海軍が開発した特攻兵器です。5メートルほどのモーターボートで、250キロの爆薬を積んで敵艦に体当たり攻撃をする作戦でした。

ベニヤ板を貼り合わせた船体は、戦局が悪化し、物資が不足する中でも量産が可能でした。6000艇あまりが建造され、本土防衛のために広く配備されていました。しかし、訓練中に船体に穴が開いて沈没したり、出撃しても、敵艦にたどりつかなかったりして、数多くの命が、戦わずして失われました。米軍からは「Suicide Boat(自殺ボート)とも呼ばれていた震洋の犠牲者は、2500人以上にのぼります。大海に浮かぶ木の葉のようなボートで体当たりを果たす無謀な作戦が行われていたのです。

 

▽水深30メートルに沈む残骸は?

「震洋が見つかった!」6月下旬、千葉県館山市にあるダイビングショップから連絡がありました。連絡をくれたのは、地元の海に詳しいダイビングガイドの荒川寛幸さんです。

定置網のメンテナンス作業を行っていた際に発見した残骸が、震洋ではないかと言うのです。さっそく現場に潜ってみることにしました。

早い潮の流れを感じながら水深30メートルの海底を目指すと、見えてきたのは、3メートルほどの岩のような塊です。表面は、さまざまな生き物に覆われ、その上に泥が積もっています。

合計8回の潜水を行って丁寧に観察していくと、それがエンジンや爆薬が入っていた容器とみられることがわかってきました。

さらに砂の中からスクリューも見つかりました。残骸が間違いなく船のものであることは分かりましたが、それが「震洋」のものだという確証は得られない中、取材を進めました。

 

▽館山市にあった震洋の部隊

船の残骸が見つかった場所から1キロほど離れた館山市の波左間漁港は、夏は多くの海水浴客でにぎわいます。

この場所に、かつて「震洋」の部隊が配属されていました。隊員数176人からなる「第59震洋隊」の役割は、東京湾の入口で首都を防衛することでした。しかし部隊は出撃のないまま終戦を迎え、第59震洋隊はその任を終えました。隊員たちは、どのような思いで出撃を待っていたのか。それを知るために元隊員を探しましたが、極秘扱いだった震洋は、部隊の記録もほとんど残されていません。戦後に記されたわずかな手記や人づてに、なんとか第59震洋隊の元搭乗員にたどり着くことができました。

 

▽残された道は「震洋」しかない

「70年以上たって、今振り返ると、異常なことだったと感じる。でも、私たちは好き好んであの時代に生きていたわけではない」

東京都立川市に住む高部博さんは14歳のときに志願して海軍の予科練に入り、ゼロ戦のパイロットを目指していました。昭和20年4月、16歳で特攻に志願した高部さんが乗ることになったのは、特攻機ではなく「震洋」でした。「こんなもので走ってもたかがしれている。」しかし恐怖や葛藤を抱くことはなく、「これしかない」と腹をくくったそうです。戦局を打開するためには命を投げ出して当然という時代の中で、高部さんも特攻を当たり前のように受け入れていたと言います。「これが最善の選択だと純粋に受け止めて『死ぬ訓練』に没頭していた」10代という時期をただひたすら死に向かって生きるということは、想像もつかないことでした。「めちゃくちゃな時代だった。志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれか特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…」

神奈川県相模原市に住む伏島誠さんも、ゼロ戦に憧れて14歳の時に予科練に入りました。しかし、特攻に志願したことは一度もありませんでした。ある時名前を呼ばれて整列し、向かうことになった先が、震洋の訓練所があった長崎県川棚町でした。なんてちっぽけな船なんだ。」初めて震洋を見た時、その簡素な造りに驚いたそうです。訓練中も浸水や沈没が頻発し、死と隣り合わせでした。昭和20年7月、館山の第59震洋隊に配属された伏島さんは、そこで終戦を迎えました。「これでお袋のところに帰れる。」

伏島さんは戦後、記憶をたよりに震洋の模型を作っていました。震洋による特攻の存在を形に残しておきたいという思いからです。爆薬の容器やそこにつながる3つの信管、そしてエンジンやスクリュー。模型は資料にも残っていない細部まで精巧に再現されていました。「これは、ベニヤのボートに命を預けていたことの証し。そして、そこから生きて帰ってきたことの証しなんだ。」高部さんと伏島さん、2人の元隊員の証言を聞き、個人の意志が無視され理不尽なことがまかりとおる時代があったことを改めて認識させられました。

 

▽震洋から何を学び伝えるか

取材を進める中で、はじめは知らなかった震洋の姿が、どんどん迫ってくるように感じました。

水中で撮影した残骸の映像を見た伏島さんは、爆薬の容器の形状や信管の数や位置が震洋のものとそっくりだと証言しました。残骸の見つかった館山を訪れた高部さんは、上官の命令で震洋を海に沈めて処分した場所と、今回残骸が見つかった場所が、ほぼ同じだったことを証言しました。

残骸が震洋のものである可能性は限りなく高いことが分かりましたが、比較する資料や現物がほとんど残っていないため、それが震洋だという確かな証拠は現時点ではまだ得られていません。それでも、震洋について調べ、元隊員に話を聞くきっかけとなった残骸の存在は非常に大きなものでした。

高部さんが取材の最後に語った言葉です。「私たちが経験したことは無駄だったようにも思う。それでも何かの形で残しておこないと、過去のなかったものになってしまう」

震洋という存在から何を学び、何を伝えていくのか。無謀な特攻を生んだ戦争を、再び起こさせないために何ができるのか。海底で見つかった残骸の存在が、多くの人に考えるきっかけを与えてくれればと思います。

 

NHKオンライン「戦跡 薄れる記憶」
NHK「グッと!スポーツ」に成田均さんが出演!

NHK「グッと!スポーツ」にダイバー・成田均さんが出演します。

日時=2017年8月1日(火)午後10時25分〜午後11時15分

再放送=2017年8月8日(火)午前0時55分〜午前1時45分

「水深100mの海へ フリーダイビング福田朋夏」

*番組ホームページ

日本の素潜り女性チャンピオンの福田朋夏さんの特集で、

人類初の水深100mを達成したジャック・マイヨールについて、

無二の親友であった館山市在住のダイバー・成田均さんが語ります。


【房日】170721*青木繁を特集「日曜美術館」

青木繁を特集、NHKEテレ「日曜美術館」

(房日新聞2017.7.21付)


館山市布良で代表作「海の幸」を描いた画家・青木繁が、7月23日のNHKEテレの「日曜美術館」で特集される。タイトルは「魂こがして青木繁〜海を越えた〝海の幸〟と石橋凌の対話〜」。放映は午前9時から。

青木と同じ福岡県久留米市出身で、青木の絵に深い思い入れを持つ俳優でミュージシャンの石橋凌さんが、青木の作品世界に迫る内容。海の幸を描いた布良にも番組スタッフが訪れ、小谷家住宅「青木繁『海の幸』記念館」、布良の海、布良崎神社などを主催したという。


※再放送は7月30日(日)20時〜

【まちむら№134】1606*「館山まるごと博物館」のまちづくり

「館山まるごと博物館」のまちづくり

よみがえった青木繁「海の幸」誕生の家・小谷家住宅

公益財団法人あしたの日本を創る協会

『まちむら』№134(2016年6月号)‥⇒印刷用PDF

千葉県南房総地域に残る戦国大名里見氏の城跡や、戦争遺跡などの歴史・文化遺産が、時代とともに忘れ去られ、破壊されていく状況にあったところを、多面的に保存・活用活動に取り組み、多くの情報を発信(フォーラムやシンポジウム、遺跡ウォーキング、講演会、講習会等を開催)することによって、地域に自信と誇りを呼び戻し、この地を訪れる人びとにも波及し、新たな交流文化によるコミュニティ・ネットワークを広げようと活躍している。地域資源を活用し、参加と連携に多様な方法と工夫を用い、また、積極的な情報発信と幅広い人材活用・育成を行なっており、また、地域の活性化につながる「新しい公共」活動の実践事例およびNPO活動のモデルとして今後一層の発展が期待される。

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【千葉日報】170613*歴史遺産で地域学習(館山で千葉大生)

歴史遺産で地域学習

館山で千葉大生

(千葉日報2017.6.13付)‥⇒印刷用PDF

千葉大学教育学部の竹内裕一ゼミは11日、館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)跡をはじめとした歴史遺産を現場視察した。学生や大学院生ら25人が参加。文化財の保存に努めるNPO法人安房文化遺産フォーラムの解説を聞き、平和教育や歴史遺産を使ったまちづくりを学んだ。

同法人は地域学習を推進するため、筑波や中央学院、明星などの大学で教育を学ぶ学生に現地見学や解説を行っている。社会科教育を専門とする竹内ゼミは、地域を調査する「巡検」を毎年実施しており、館山市内の歴史遺産を訪れるのは初めてとなる。

学生らは明治期の画家、青木繁が代表作「海の幸」を描いた小谷家住宅を修復工事した「青木繁『海の幸』記念館」や婦人保護長期入所施設「かにた婦人の村」を訪問。同法人の愛沢伸雄代表らから施設概要や歴史などの解説を受け、遺産を通じて地域の文化や生活を知ること、教材として活用できることを体感していった。

参加した千葉大学教育学部4年の宮本一輝さん(22)は「なかなか知れない戦争遺跡の説明を受けられてよかった。小学校の教員を目指しているので、遺跡をどう子供たちに伝えていくか考えていきたい」と話した。

【事業構想】1610*「館山まるごと博物館」のエコミュージアム実践研究

「館山まるごと博物館」のエコミュージアム実践研究

地域資源の再発見と街づくり

「月間事業構想」2016年10月号‥⇒印刷用PDF

 

【房日】170530*旧海軍落下傘部隊を語り継ぐ会

旧海軍落下傘部隊を語り継ぐ会

遺族ら集い当時を振り返る

(房日新聞2017.5.30付)‥⇒印刷用PDF


太平洋戦争開戦前、館山市の館山海軍航空隊に招集された海軍初の落下傘部隊。落下傘による奇襲のため、多くの犠牲者を出し、同市の安房神社には戦友会有志により慰霊碑が、海上自衛隊館山航空基地内には、落下傘部隊発祥の地の碑が建立されている。海軍記念日の27日、戦後、版画家として活躍した元隊員の秋山巌さんの長女、町田珠実さん(兵庫県在住)が、地元の安房文化遺産フォーラムと連携し、市コミュニティセンターで報告会「海軍落下傘を語り継ぐために」を開いた。地域住民ら約20人が、町田さんをはじめ遺族の話に耳を傾けた。会の前には、安房神社で慰霊祭が行われ、戦死した隊員らをしのんだ。

真珠湾攻撃の3か月前の昭和16年9月、館山海軍航空隊に、精鋭1500人が招集され、海軍初の落下傘部隊が誕生。隊員らは上空300㍍から降下する厳しい訓練をこなし、太平洋戦争開戦から間もない17年1月、オランダ領東インドのセレベス島メナド、2月にはティモール島への降下作戦を敢行。犠牲者が多く、生還者はわずか200人だったといわれている。

元隊員の秋山さんは7年前、館山で体験証言会を開いたが、3年前に逝去。長女の珠実さんは「この事実を広く知ってもらいたい」と同フォーラムと連携。「海軍落下傘部隊を語り継ぐ会」として報告会を開いた。

この日は、父親が落下傘部隊に所属していた高崎邦敏さん、畠山彪さんも遺族として参加。それぞれ聞いたこと、父が残した物などをもとに、当時を振り返った。

珠実さんは、落下傘訓練の様子や父から直接聞いた戦争中の体験などを講話。最後に「戦死した父親の手がかりを探す遺族が多い。発祥の地である館山を人知れず訪れたり、基地内の碑に手を合わせに来る人がいたりしてうれしい。こうした事実を次の世代へと語り継いでいきたい」と涙ながらに話していた。

【写真説明】当時の落下傘訓練の様子を語る町田珠実さん=館山コミセンで