青木繁が「海の幸」を描いた漁村
アサココスタディ日帰りバスツアー
(asacoco:2019.2.7付)‥⇒印刷用PDF
西洋画として日本で最初の重要文化財に指定された「海の幸」は青木繁・22歳の作。房州布良(めら)の漁師頭・小谷喜録宅に滞在して描いた。この小谷家は、明治20年代の漁村を代表する建造物として館山市有形文化財に指定され、現在は青木繁記念館として、公開されている。築130年の「小谷家」の和風建築を訪ね、春の房総路へ。
■3月6日(水曜日)。参加費1万2000円。(バス代・昼食代など)。20人(最小催行16人)。集合=京王線高幡不動駅6時20分、国立駅南口6時50分。安房自然村、小谷家住宅、圓光寺・波の伊八欄間彫刻などを訪れる。
企画主催:アサココ。手配旅行者:㈱NKトラベル。申し込みはFAX042・505・6905。TEL042・505・6904。
古風なひな人形で華やぐ
小谷家で来月24日まで展示
(房日新聞2019.2.21付)‥⇒印刷用PDF
館山市布良の小谷家住宅「青木繁『海の幸』記念館で、同住宅から見つかった歴史を感じさせるひな人形の展示が始まった。土曜、日曜日開館で、3月24日まで。
青木繁が「海の幸」を描いた小谷家は、江戸時代から続く網元の名家。展示されているのは数年前に納戸から見つかった4対のひな人形、正確な年代は不明だが、江戸末期のものと推測されている。
一緒に見つかった江戸中期から後期制作とみられる高砂人形、館山市の愛好家らが製作したつるしびなも展示されている。
小谷福哲館長は「4月で開館から丸3年を迎える。ひな人形の展示は恒例となっており、毎年好評の催し。旧家の中でひなまつりの華やいだ雰囲気を感じてもらいたい」と来場を呼び掛けている。
入館料は、一般200円、小中高は100円。3月3日には甘酒を無料で振る舞うサービスを予定している。
太極拳指導者から座禅学ぶ
布良の能忍寺、20人がワークショップ
(房日新聞2018.2.20付)‥⇒印刷用PDF
アメリカ、イギリス、オーストラリアの精神科医やソーシャルワーカーら7人が11日、館山市布良の曹洞宗能忍寺で、わが国で太極拳指導の第一人者とされる山口博永住職から、座禅を学んだ。オーストラリアのメルボルン大学のベック・レビン教授が呼び掛けたワークショップ「森田療法」に参加した。ワークショップは11日まで行われ、約20人が学んだ。
山口住職は「私は座禅と太極拳を50年やってきた。4年前に脳梗塞で倒れた。本来ならその後遺症で手足が動かないはずだが、“気”のめぐりがいいからか、体は自由に動く。座禅とは何かを知ってほしい。森田療法も神と深いかかわりがあると聞いている」と前置きした。
そして「日本の文化は剣道、柔道、茶道、華道と“道”が付いている。禅と太極拳は関係があると直感したから、太極拳を始めた」と力説。
一行は同寺1階の座禅道場に移動。山口住職は、座禅の3つの要素である「呼吸」「体」「心」を説いた。さらに、息を吐くときに、丹田(へその下の下腹部にあたるところ)に息を吐いて下腹を充実させる。それと同時に首筋(後頭部)を突き上げておく。この2つが1つになってつながる時がある。このことを太極拳が見事に教えてくれたと説明。参加者は座禅の作法の注意点を学んだ後、約20分間、瞑想(めいそう)した。
モリタ療法は、1919年(大正8)に森田正馬によって始められた神経質に対する精神療法。神経質は、神経衰弱、神経症、不安障害と重なる部分が大きいとされ、近年はうつ病などの疾患に対しても適用されることもあるという。森田は、薬は使わなかったとされる。元来入院が基本だったが、最近では通院が中心になりつつある。海外でも中国を中心に活動が展開されている。
「安房高女」の役割語る
安房歴史文化研究会、26日に館山で公開講座
(房日新聞2019.1.20付)‥⇒印刷用PDF
安房歴史文化研究会の今年度第5回の公開講座(通算57回)が、26日の午後2時から、館山市北条の市コミュニティセンター2階集団指導室で開かれる。NPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表が「安房の高等女学校にみる地域教育〜大正期を中心に」のテーマで語る。資料代として200円。
愛沢代表によると、旧安房南高校舎は関東大震災後に再建された木造校舎。県有形文化財として地域の重要な文化遺産だが、現存している学校資料は千葉県教育史に位置付けられているだけでなく、地域の歴史文化を知る上で極めて貴重な文化遺産となっている。
1907年(明治40)、公立では県下二番目に設立され、大正期に県立移管となった。小学校教員養成校として大きな役割を果たした。大正期、安房地域に多数の小学校教員を送り出した意義は大きいという。
背景にある学校の教育姿勢や安房中学とのスポーツ交流、保護者の関わりなどを紹介する予定。大正デモクラシー期における自由教育では、安房郡小学校54校の取り組みは県下トップとされ、北条小など15校が最も優れていたといわれる。安房高女の教育実習校は北条小であり、安房高女出身の小学校教員はどうであったかを探ってみる内容。
6日間で150にが貝磨き、あす大会も
お守りやアクセサリーに
(房日新聞2019年1月13日付)‥⇒印刷用PDF
館山市布良の布良?神社集会所で1日から6日まで、貝殻を磨いてお守りやアクセサリーをつくるイベント「お守り貝磨き初め」があり、6日間で計150人が参加した。あす13日には旧富崎小体育館で、「貝のみがき初め大会」もある。参加費は1人1000円、願掛けの文字彫りは1000円追加。
NPO法人アワブンカイサンフォーラムなどが主催したイベント。大人から子どもまで多くの人が参加し、貝磨き職人の福田康孝さんの手ほどきで、願いを込めて貝磨きをしてお守りやアクセサリーをつくった。
貝のみがき初め大会は「書き初め大会」になぞらえたイベントで、福田さんの指導で、みんなで貝磨きをする。2部制で第1部が午前10時半から、第2部が午後1時半から。
問い合わせは、同フォーラムの河辺さん(090-3218-3479)まで。
布良崎神社でお守り貝みがき
元旦から館山
(房日新聞2018.12.29付)‥⇒印刷用PDF
館山市布良の布良?神社集会所で来年1月1日から6日まで、貝殻を磨いてお守りをつくるイベント「お守り貝みがき初め」が開催される。時間は午前10時〜午後3時(1日は午後1時〜3時)。参加費は1人1000円。願掛けの文字彫りは1000円追加。NPO法人安房文化遺産フォーラムなどが主催。
問い合わせは、同フォーラムの河辺さん(090-3218-3479)まで。
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⇒★詳細はこちら。
連載コラム「館山まるごと博物館」がスタートしました。
[002]ピースツーリズム〜巨大な戦争遺跡・赤山地下壕跡〜
EICネット「エコナビ」一般財団法人環境イノベーション情報機構
‥⇒リンクはこちら
・導かれて戦跡ガイドに
・巨大地下壕の謎
・完全な地下航空指令所
‥⇒シリーズ一覧
赤山地下壕30万人到達と紹介した番組を見て感動
(房日新聞寄稿2018.12.25付)‥⇒印刷用PDF
館山市指定史跡である「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」は、平和学習拠点として公開されて14年目で、入壕30万人を迎えた。館山市広報誌「だん暖たてやま」12月1日号の表紙に紹介され、素晴らしいことだなと思った。
その赤山地下壕がいつ作られたかということについて、BSテレビ東京の「ミステリアスジャパン」という番組で、「巨大地下要塞と直接軍政4日間の謎」というテーマの特集が放送された。
市のホームページや解説看板によると、「昭和10年代のはじめに、ひそかに建設がはじまったという証言もあります」とする一方で、「昭和19年より後に建設されたのではないかと考えられています」と記されているが、この矛盾を検証しようという内容であった。
番組ではもうひとつの謎として、ミズーリ号降伏文書調印式の翌日、昭和20年9月3日に米占領軍3500名が館山に上陸し、全国唯一4日間だけの直接軍政を館山に敷いたことについても言及している。
長年にわたり調査研究にあたってきたNPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長が出演し、調査報告と見解を紹介していた。
東京湾の入口にあたる館山は、幕末から台場が造られ、明治から昭和にかけて東京湾要塞の拠点であった。関東大震災の直後の海を埋め立てて昭和5年に開かれた館山海軍航空隊は、空母パイロットの養成基地だったという。赤山地下壕はその管制塔を担う軍極秘の地下要塞として、震災後の地質を調査したうえで場所を選定し、専門部隊により建設が始まったとNPOでは考えている。
さらに、赤山の前で生まれ育った元館山市教育長(昭和2年生まれ)は、日米開戦(真珠湾攻撃)前から掘削が始まっていたと明言しているという。また、NPOがテキサス軍事博物館より入手した資料には、終戦直後に館山に上陸した米占領軍の兵士の報告書があり、「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、そこには完全な信号、電源、ほかの様々な装備が含まれていた」と記され、終戦時には赤山地下壕が完ぺきな状態で存在していたことを意味する。
これらの事柄から類推されることは、戦争末期のいわゆる防空壕ではなく、国内でもかなり早い段階から秘密裡に建設が始まったという説が正しいのではないかと考えられる。こうした証言や資料が明らかになったのであれば、市指定史跡の解説について再度の調査検討が求められるのではないだろうか。
番組ではもう一つの謎として、昭和20年9月3日から7日にかけて、全国唯一、館山だけが米占領軍により直接軍政が敷かれたことの背景について言及している。はっきりした理由はわからないが、戦後日本をどう扱うかという試金石として、国民性を知るためのモデル占領だったのではないかと仮説が立てられていた。
海に囲まれた半島先端の館山では、古くから海を通じて交流や共生があり、遭難救助が当たり前という助け合いの精神が生きていた。とくに、外務省終戦連絡委員会とともに市民代表として交渉にあたった館山病院の川名正義副院長は、米軍機が墜落し漂着した遺体を検死して埋葬した事実を伝えたという。こうした紳士的な館山市民の特質によりGHQは安心し、4日間で軍政を解除した可能性が考えられる。
もし館山でクーデターや反発が起きていたら、沖縄のように全国が占領統治されていたのかもしれない。館山市民のもつ「平和の文化」が、平和な戦後日本をもたらしたのではないか、と番組は締めくくられた。
知られざる館山の一面について掘り下げられ、きちんと整理されてまとめられていて、とても参考になった。館山市民として誇らしい気持ちになった。多くの人に見てほしい番組であり、ぜひ再放送を望むところである。
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