「安房高女」の役割語る
安房歴史文化研究会、26日に館山で公開講座
(房日新聞2019.1.20付)‥⇒印刷用PDF
安房歴史文化研究会の今年度第5回の公開講座(通算57回)が、26日の午後2時から、館山市北条の市コミュニティセンター2階集団指導室で開かれる。NPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表が「安房の高等女学校にみる地域教育〜大正期を中心に」のテーマで語る。資料代として200円。
愛沢代表によると、旧安房南高校舎は関東大震災後に再建された木造校舎。県有形文化財として地域の重要な文化遺産だが、現存している学校資料は千葉県教育史に位置付けられているだけでなく、地域の歴史文化を知る上で極めて貴重な文化遺産となっている。
1907年(明治40)、公立では県下二番目に設立され、大正期に県立移管となった。小学校教員養成校として大きな役割を果たした。大正期、安房地域に多数の小学校教員を送り出した意義は大きいという。
背景にある学校の教育姿勢や安房中学とのスポーツ交流、保護者の関わりなどを紹介する予定。大正デモクラシー期における自由教育では、安房郡小学校54校の取り組みは県下トップとされ、北条小など15校が最も優れていたといわれる。安房高女の教育実習校は北条小であり、安房高女出身の小学校教員はどうであったかを探ってみる内容。
6日間で150にが貝磨き、あす大会も
お守りやアクセサリーに
(房日新聞2019年1月13日付)‥⇒印刷用PDF
館山市布良の布良?神社集会所で1日から6日まで、貝殻を磨いてお守りやアクセサリーをつくるイベント「お守り貝磨き初め」があり、6日間で計150人が参加した。あす13日には旧富崎小体育館で、「貝のみがき初め大会」もある。参加費は1人1000円、願掛けの文字彫りは1000円追加。
NPO法人アワブンカイサンフォーラムなどが主催したイベント。大人から子どもまで多くの人が参加し、貝磨き職人の福田康孝さんの手ほどきで、願いを込めて貝磨きをしてお守りやアクセサリーをつくった。
貝のみがき初め大会は「書き初め大会」になぞらえたイベントで、福田さんの指導で、みんなで貝磨きをする。2部制で第1部が午前10時半から、第2部が午後1時半から。
問い合わせは、同フォーラムの河辺さん(090-3218-3479)まで。
布良崎神社でお守り貝みがき
元旦から館山
(房日新聞2018.12.29付)‥⇒印刷用PDF
館山市布良の布良?神社集会所で来年1月1日から6日まで、貝殻を磨いてお守りをつくるイベント「お守り貝みがき初め」が開催される。時間は午前10時〜午後3時(1日は午後1時〜3時)。参加費は1人1000円。願掛けの文字彫りは1000円追加。NPO法人安房文化遺産フォーラムなどが主催。
問い合わせは、同フォーラムの河辺さん(090-3218-3479)まで。
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連載コラム「館山まるごと博物館」がスタートしました。
[002]ピースツーリズム〜巨大な戦争遺跡・赤山地下壕跡〜
EICネット「エコナビ」一般財団法人環境イノベーション情報機構
‥⇒リンクはこちら
・導かれて戦跡ガイドに
・巨大地下壕の謎
・完全な地下航空指令所
‥⇒シリーズ一覧
演出家・映画監督のせんぼんよしこさん
78歳で映画監督デビュー、テレビ時代からの夢叶う
(千葉日報2006.11.25付)
赤山地下壕30万人到達と紹介した番組を見て感動
(房日新聞寄稿2018.12.25付)‥⇒印刷用PDF
館山市指定史跡である「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」は、平和学習拠点として公開されて14年目で、入壕30万人を迎えた。館山市広報誌「だん暖たてやま」12月1日号の表紙に紹介され、素晴らしいことだなと思った。
その赤山地下壕がいつ作られたかということについて、BSテレビ東京の「ミステリアスジャパン」という番組で、「巨大地下要塞と直接軍政4日間の謎」というテーマの特集が放送された。
市のホームページや解説看板によると、「昭和10年代のはじめに、ひそかに建設がはじまったという証言もあります」とする一方で、「昭和19年より後に建設されたのではないかと考えられています」と記されているが、この矛盾を検証しようという内容であった。
番組ではもうひとつの謎として、ミズーリ号降伏文書調印式の翌日、昭和20年9月3日に米占領軍3500名が館山に上陸し、全国唯一4日間だけの直接軍政を館山に敷いたことについても言及している。
長年にわたり調査研究にあたってきたNPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長が出演し、調査報告と見解を紹介していた。
東京湾の入口にあたる館山は、幕末から台場が造られ、明治から昭和にかけて東京湾要塞の拠点であった。関東大震災の直後の海を埋め立てて昭和5年に開かれた館山海軍航空隊は、空母パイロットの養成基地だったという。赤山地下壕はその管制塔を担う軍極秘の地下要塞として、震災後の地質を調査したうえで場所を選定し、専門部隊により建設が始まったとNPOでは考えている。
さらに、赤山の前で生まれ育った元館山市教育長(昭和2年生まれ)は、日米開戦(真珠湾攻撃)前から掘削が始まっていたと明言しているという。また、NPOがテキサス軍事博物館より入手した資料には、終戦直後に館山に上陸した米占領軍の兵士の報告書があり、「完全な地下海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見され、そこには完全な信号、電源、ほかの様々な装備が含まれていた」と記され、終戦時には赤山地下壕が完ぺきな状態で存在していたことを意味する。
これらの事柄から類推されることは、戦争末期のいわゆる防空壕ではなく、国内でもかなり早い段階から秘密裡に建設が始まったという説が正しいのではないかと考えられる。こうした証言や資料が明らかになったのであれば、市指定史跡の解説について再度の調査検討が求められるのではないだろうか。
番組ではもう一つの謎として、昭和20年9月3日から7日にかけて、全国唯一、館山だけが米占領軍により直接軍政が敷かれたことの背景について言及している。はっきりした理由はわからないが、戦後日本をどう扱うかという試金石として、国民性を知るためのモデル占領だったのではないかと仮説が立てられていた。
海に囲まれた半島先端の館山では、古くから海を通じて交流や共生があり、遭難救助が当たり前という助け合いの精神が生きていた。とくに、外務省終戦連絡委員会とともに市民代表として交渉にあたった館山病院の川名正義副院長は、米軍機が墜落し漂着した遺体を検死して埋葬した事実を伝えたという。こうした紳士的な館山市民の特質によりGHQは安心し、4日間で軍政を解除した可能性が考えられる。
もし館山でクーデターや反発が起きていたら、沖縄のように全国が占領統治されていたのかもしれない。館山市民のもつ「平和の文化」が、平和な戦後日本をもたらしたのではないか、と番組は締めくくられた。
知られざる館山の一面について掘り下げられ、きちんと整理されてまとめられていて、とても参考になった。館山市民として誇らしい気持ちになった。多くの人に見てほしい番組であり、ぜひ再放送を望むところである。
⇒ 取材記事はこちら。
4市の「昭和」写真集(木更津・君津・富津・袖ヶ浦)
変貌する暮らし、街600点
(読売新聞2018.12.14付)…⇒印刷用PDF
戦前から戦中、戦後の木更津、君津、富津、袖ケ浦4市の街の移ろいや、住民の暮らしぶりを記録した写真集が今月、発刊された。約600点が収録されており、それぞれの写真からは「激動の昭和」をこの地で生きた人々の息吹が伝わってくる。
変貌する暮らし、街600点
タイトルは、「写真アルバム『木更津・君津・富津・袖ケ浦の昭和』」。木更津市在住で、同市の市史編集部会委員を務める栗原克栄さん(68)が監修した。
県立高校で日本史を教える傍ら、上総地域の郷土史を研究してきた栗原さんは65歳で退職後、同市教委から市史の委員を委嘱され、明治時代以降の資料調査を行っている。今回、東日本を中心にした各地の昭和の写真アルバムを刊行している「いき出版」(新潟県長岡市)から監修を依頼され、全体の構成や写真の説明などを担当した。
写真は、いき出版が公募したり、4市の観光協会や博物館などから借りたりして集めた。当時の人々の暮らしや変貌(へんぼう)していく街並み、地域の祭りや行事、交通の発展ぶりなど様々なカットが収められており、懐かしさにあふれている。
例えば木更津の写真では昭和30〜40年代に商業都市として栄えた木更津駅西口の商店街の様子がとらえられえおり、君津市では八幡製鉄(言・新日鉄住金)の操業開始とともに大きく変わった街の表情が写されている。
風光明媚(めいび)な観光地として発展してきた状況がわかるのが、富津市の写真。袖ケ浦市のカットからは、干拓事業とその後の大規模工場進出に伴う湾岸の変化が伝わってくる。
「上総地域のかつての姿を後世に伝えるのが私の仕事」と栗原さん。「平成という一つの時代が終わろうとする中で、この地域の昭和を記録として残すことができてうれしい」と話している。
写真集はA4判で280ページ。税込み9990円。1500部の限出版で4市の書店などで販売している。問い合わせは千葉県教科書販売(043・242・4421=今月21日まで。25日以降は043・312・2800)。
22店でコーヒー180キロ流通
ウガンダキャンペーン終わる、支援・寄付金も
(房日新聞2018.12.14付)‥⇒印刷用PDF
NPO法人安房文化遺産フォーラムが10月に展開した「ウガンダコーヒーを飲みましょう」キャンペーンで、支援金7万9400円と、寄付金4万6136円が寄せられた。主催者が在日ウガンダ大使館政務次官と面会、活動を報告した。
NPOの関係者3人が現地のコーヒー農園を視察したことで、ウガンダ産コーヒーのフェアトレードなどを呼びかけ、10月をコーヒー月間とし、関連イベントを展開した。
安房地域の22店舗がウガンダコーヒーを取り扱い、その流通量は180キロになった。
支援金、寄付金は平和のための美術展、安房西高校JRC部のバザー、館山病院感謝祭のバザーなどでも寄せられた。寄せられた支援金、寄付金は活動支援の経費の一部に充てるという。
政務次官からは「ぜひ館山を訪問し、感謝を伝えたい」旨のメッセージが届いた。
NPO法人安房文化遺産フォーラムでは、コーヒーの予約販売を続けるという。
問い合わせは、同フォーラム(0470-22-8271)へ。
【展望台】
誇っていい文化財
(房日新聞2018.11.3付)
以前から気になっていた建物を、じっくり見学する機会があった。木造だが風格があり、由緒を感じさせる。国道を走るとちらりと一部が見え、正体を知りたいと思っていたところだった。
館山市北条にある旧県立安房南高校の第一校舎。県指定の有形文化財だ。先月下旬に行われた一般公開では、朝方の強い雨にもかかわらず次々と見学客が訪れ、駐車場もぎっしりだった。
開校は明治時代の1909年。当時は安房郡立の高等女学校で、大正時代の1921年に県立に切り替わる。その2年後の関東大震災で校舎は倒壊し、現在残っている校舎が完成するのは昭和に入った1930年になってからだ。2008年には安房高校に統合され、使われなくなったこの校舎はほぼ放置された状態だった。
正面玄関の前に立つと、目に入るのは2階上部と玄関にある幾何学模様の装飾だ。1930年代といえばフランス発のアールデコと呼ばれるこのような様式が世界中に広がった時期。JR目黒駅近くの旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)がその代表例で、完成は南高に遅れること3年の1933年だ。南高が当時最新の流行を取り込んだ建築であることが分かる。
教室の内部を見ると天井から下部に突き出ているように見える梁が異常に太い。関東大震災クラスに耐えるような耐震構造が採用された、というガイドの説明を聞いて納得する。階段の幅の広さ、傾斜の緩やかさ、手すりの頑丈さなどにもいざという時への備えが感じられる。
廊下には明治以来の通学服などを人形に着せて展示。和服にはかま姿の初期のものから戦時体制下のもんぺ姿、戦時の制服など、近代日本の歩みがそのまま感じ取れるものだった。古い写真には、開校当時の運動会でダンスを披露するはかま姿の乙女たちの様子もあった。
数年前まではほこりだらけだったという廊下は、ボランティアたちが昔ながらのぬか雑巾で磨き上げてぴかぴかの状態。吹奏楽の準備などで行き来する現役の安房高生たちを見ていると、今も使われている校舎と勘違いするほど整備されて見えた。
ガイドによると、高等女学校の木造校舎が残っているのは、全国でも館山のほかには函館(北海道)しかないという。大事に残したい文化財だ。
(U)