市民が主役の文化財保存運動と生涯学習まちづくり=社会教育分科会レポート(2013.8)
第53回社会教育研究全国集会(千葉大会)博物館分科会発表
市民が主役の文化財保存運動と生涯学習まちづくり
「館山まるごと博物館」の事例
NPO法人安房文化遺産フォーラム 事務局長 池田恵美子
1.戦争遺跡の保存と平和学習
東京湾要塞の軍都であった房総南端の館山には、全国的に見ても貴重な戦争遺跡(以下、戦跡)が多く残っている。1989年、高校世界史教員であった愛沢伸雄(当NPO代表)が、教材化のために戦跡の調査を始めたことが活動の原点となる。市民の聞き取り調査に基づき、1993年に「学徒出陣50周年」洲ノ空・館砲展を開催、1995年には「戦後50年」平和の集いを開催した。戦跡の存在が市民に認知され、関心を集めるようになった。
1995年原爆ドームの世界遺産登録を機に、文化庁の基準が改定され、戦跡が文化財として認められるようになる。1997年に戦争遺跡保存全国ネットワークが発足、各地の市民団体が連携を図り、調査研究や文化庁との話し合いを進めていった。
同年から館山地区公民館の郷土史講座で戦跡フィールドワークが始まり、2003年には戦跡調査保存サークルが発足した。
愛沢が歴史教育者協議会で授業実践を報告し、あるいはテレビや新聞の報道を契機として、全国から学校や各種団体の平和学習が来訪するようになった。愛沢とともに、公民館で学んだ市民がガイドとして活躍する場が増えていった。
これらの実績が追い風となり、2002年館山市は戦跡の調査を行なった。市内約50ヶ所の戦跡のうち、半数はAランク(近代史を理解するうえで欠くことができない史跡)と認定された。市当局は、まちづくりの目標像を「館山歴史公園都市〜オープンエアーミュージアム」とし、貴重な戦跡群を保存活用する旨、調査報告書に記している。
なかでも代表的な赤山地下壕跡は市有地であったため、平和学習の拠点として整備され、2004年に一般公開が始まった。同年、私たちはNPO法人を設立し、市を共催として第8回戦跡保存全国シンポジウム館山大会を開催した。翌年、赤山地下壕跡は市指定史跡となった。しかし、民有地や国有地にある他の戦跡群は今なお保存が進まず、当NPOが所有者の許可を得て草刈りなどの整備をしながら、ガイド活動を実践している。
2.里見氏稲村城跡の保存運動
1996年、『南総里見八犬伝』の舞台のひとつでもある里見氏稲村城跡が、市道建設計画により破壊されようとしていた。400年以上前の城跡が守れなければ、50年前の戦跡が残せるはずがない。愛沢の呼びかけによって「里見氏稲村城跡を保存する会」が発足、県内外から1万筆以上の署名が集まり、請願書審議も7回にわたった。
上野国(群馬県)の出自である里見氏は、戦国期170年間多くの城郭を築いて安房国を治めたものの、江戸初期に伯耆国(鳥取県)へ改易となった。市指定史跡の館山城跡は城山公園として整備されており、南房総市の岡本城跡や白浜城跡、滝田城跡などはそれぞれ旧町村の指定史跡となっている。1533年の天文の内乱によって廃城となった稲村城跡は、戦国初期の城郭遺構が「真空パック」のように置かれ、忘れ去られた文化遺産だった。
市民の保存運動は「歩く・学ぶ・伝える」をテーマに多様な活動を展開した。講演会やシンポジウムによって、里見氏に対する市民の認識を深めた。展示会では、手作りのウォーキングマップや城跡のジオラマによって、立体的に理解できる工夫をこらした。さらに3年がかりでヤブを刈って整備し、現れた遺構に手作り看板を立て、ウォーキングガイドを行なった。国史跡化を目標とし、先進地の巡見バスツアーも毎年行なってきた。
保存を目ざすには、活用=来訪者を増やす実績が必須要件である。そこで、アニメやゲームなど日本の若者文化が世界で人気を集めていることに注目し、本物の城跡を舞台に戦国コスプレ大会を3回開催した。歴史ファンが全国から集まった。
これらの成果が実り、17年にわたる保存運動の末、2012年に稲村城跡は南房総市の岡本城跡とともに国指定史跡となった。複数の城郭が里見氏城跡群として指定されたことにより、将来的に他の城跡も追加で指定される可能性が生まれている。
安房の戦跡と城跡は、市民力によってその価値が磨かれた。時代を超えて存在する重層的な史跡群は、まるで野外博物館のようである。
3.文化遺産を活かした生涯学習まちづくり
1971年フランスで「エコミュージアム」という概念が提唱された。地域全体を「まるごと博物館」と見立て、魅力的な自然や文化遺産を再発見するとともに、学習・研究・展示や保全活動を通じて、市民が主役の地域づくりを進めていく手法である。
館山の文化財保存運動が成功した要因も、戦跡と城跡という異種の文化遺産を「館山まるごと博物館」と捉えたことにあると考えられる。市民は、多面的な学習により歴史的環境を見つめ直し、地域に対する誇りを育んでいったことが、運動の相乗効果を高めたといえるのではないだろうか。
歴史的環境とは、1977年に閣議決定された「第三次全国総合開発計画(三全総)」において、「単に指定文化財に限らず、これらと一体になって形成されてきた周辺の環境、地域の人々の生活や意識の中で祭りや年中行事等意味を持っているもの、さらにそれらの舞台となった環境などの地域の文化財並びに遺跡及び遺構など、自然の中で残っているものなどを包括して、一体の環境を構成している民族の軌跡の総体である」と定義されている。
まさに私たちは、戦跡や城跡ばかりでなく、生活文化や歴史的環境すべてを「館山まるごと博物館」と捉え、多様な企画を実践した。「里見ウォーキング」は自然や文化遺産をめぐる10kmコースのスタンプラリーで、各ポイントに市民ガイドを配置した。中央公民館との共催では地図作り講座を開き、ウォーキングイラストマップを作成した。
1989年文部省の臨時教育審議会答申以降、効果的なまちづくり手法として生涯学習が推進された。まさに「まるごと博物館」は、モノ(文化財)だけではなく、ヒト(市民)が介在して成立し得る。生涯学習まちづくりとは、市民が学ぶことによって地域の誇りを育み、社会活動に参画し、その豊かな経験や能力を地域に還元していくことである。
2006年からNPO活動の拠点として開いた小高記念館は、大正期の銀行建物を昭和初期に移築したヘリテージのまちかど博物館である。現在、国登録文化財の対象として調査が進められている。
2007年の観光キャンペーン(千葉DC)では、商店街の空き店舗6店をまちかどミニ博物館とした。鉄道グッズ展や、館山がロケ地となった人気ドラマ『ビーチボーイズ』展、安房水産高校や館山海上技術学校の海洋展、公民館サークルの作品展などを開催、1万人の来場者を迎えた。
また、里見氏ゆかりの群馬県高崎市(旧榛名町)や鳥取県倉吉市(旧関金町)との里見サミットを開き、これが契機となって手作り甲冑や子ども歌舞伎などの市民の文化交流が相互に広がった。
あるいは、江戸初期建立のハングル「四面石塔」を活かした日韓交流や、明治期に渡米したアワビ漁師の移民史を活かした日米交流も実践している。
本年7月には、東京湾から引き揚げられた第三海堡が横須賀市重要文化財に指定されたことを記念し、横須賀市追浜のNPOとの共催で「東京湾まるごと博物館シンポジウム」を開催した。
それぞれのテーマは、市民研究者によって調査が進められ、さらに他のテーマと有機的に結合し、それまで見えなかった地域像が明らかになってきた。歴史を共有する他地域との交流も育まれ、広域の〝まるごと博物館〟として広がりつつある。
4.青木繁《海の幸》誕生の漁村まちづくり①
1904年夏、画家の青木繁は友人3人とともに房州布良(館山市富崎地区)を訪れ、漁師頭の小谷家に滞在し、重要文化財《海の幸》を描いた。
夭逝した青木を偲び、1962年には友人の画家たちが基金を募り、没後50年の記念碑が建立された。かつて日本有数の漁獲高を誇った漁村が衰退し、1998年館山ユースホステルが廃業した。このとき、隣接した国有地に建っていた記念碑も解体寸前となったが、地元住民の保存運動により、市が国に借地料を払うことで記念碑は保存された。
2005年、さらに進む少子高齢過疎化が懸念され、漁村のまちづくり活動が始まった。小谷家は今も当主が暮らす個人住宅だが、地域活性化に役立つならと、当主は住宅を後世に残すことに同意し、2008年館山市有形文化財の指定を受けた。
館山市の文化財に関する条例では、私有財産の場合の維持修理費は所有者負担と謳われている。同年、文化財の管理・活用に関して所有者を補助するために、地元地区の役員を中心として「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」が設立され、当NPOはその事務局を担っている。
青木繁没後100年にあたる2011年には、生誕地の福岡県久留米市を訪問し、命日祭(けしけし祭)に参加、久留米市長をはじめ青木繁旧居保存会や久留米連合文化会などと交流を育んだ。青木繁展を開催した石橋美術館で、「布良という聖地〜《海の幸》が生まれた場所」というテーマの美術講座が開かれていると知り、館山のまちづくりでもキャッチフレーズとして使うこととした。
さらに、青木繁の聖地を守りたいと願う全国の著名な画家や美術大学の教授らも、NPO法人青木繁「海の幸」会を発足し、小谷家住宅の修復を目ざす募金活動は全国展開となった。一時期、東日本大震災によって文化財修復の寄付活動に困難が生じたが、同会では青木繁「海の幸」オマージュ展を開き、チャリティ基金を創出している。
これらの市民運動を受け、館山市ふるさと納税において「小谷家住宅の保存活用」事業を指定すると所得税などが優遇される寄付制度が整備された。民官学の協働により、目標額3,600万円のうち半分近い基金が現在集まっている。
5.青木繁《海の幸》誕生の漁村まちづくり②
少子化が進んでいた当該地区の富崎小学校は、漁村の誇りを伝えるために、青木繁・安房節・アジの開きの頭文字をとって、「3つの〝あ〟のふるさと学習」を実践していた。昨春、統合により休校となってしまったが、私たちはこの理念を継承し、「3つの〝あ〟のまちづくり」を進めている。
青木繁の〝あ〟は《海の幸》誕生の小谷家住宅保存のコミュニティファンド、安房節の〝あ〟は漁村の歴史や生活文化、アジの開きの〝あ〟は漁村の食文化「おらがごっつお(我が家のご馳走)」を象徴するまちづくりのプロジェクトである。
多様な活動から、美術館の学芸員とは異なる、地元ならではの美術解釈が生まれている。たとえば《海の幸》の群像は、小谷家に隣接する布良崎神社の夏祭りで、1トンの大神輿を担いで海の中に入る「御浜下り」という神事からインスピレーションを得たのではないかと考えられ、神社の氏子たちがガイド活動に加わるようになった。
一方、小谷家住宅からは明治期の文書や書画類が発見された。市民の調査により、《海の幸》誕生の布良は、近代水産業の発展において重要な役割を担った先進的な漁村であり、文化水準も高かったことが判明してきた。ひと夏もの間、青木繁ら若者4人の無賃逗留を快く受け容れた、漁村の背景が明らかになりつつある。
市民によって磨かれたそれぞれの地域資源は、点と点が線に結ばれ、さらに面になってゆく。それが、「館山まるごと博物館」の姿である。
6.行政との協働・受賞等と課題
2004年の設立以降、5年連続で千葉県NPO活動補助金に選定され、各種事業を実践した。館山市からは、2005年に特色あるまちづくり補助金で食文化研究、2007年に観光振興支援事業補助金で第1回戦国コスプレ大会を開催した。鳥取県倉吉市の委託を受け、同地の里見氏文書類を調査した。
2008年に国土交通省の「新たな公によるコミュニティ創生」モデル事業に選定され、保存会の案内チラシと同地区のガイドマップ、漁村の食文化レシピ集『おらがごっつお富崎』を制作し、当該地区500世帯の全戸に配布した。
2011年には、館山市教育委員会生涯学習課の策定に基づき、文化庁の「地域の文化遺産を活かした観光振興と地域活性化」事業に選定された。青木繁没後100年のポスター・チラシを制作し、まちづくり市民講座や多様なイベントを開催した。
翌年も継続事業となり、「館山まるごと博物館」のDVDと日英韓パンフレット(本大会配布)を制作し、芸術文学散歩バスツアーを行なった。
表彰においては、2006年あしたのまち・くらしづくり活動賞内閣官房長官賞、2008年千葉県文化の日功労賞、2009年文化財保存全国協議会より第10回和島誠一賞、2010年日本都市計画家協会よりまちづくり教育部門特別賞、2013年千葉県文化財保護協会より文化財保護功労者が授与された。
NPO設立10年目を迎え、活動の評価は得てきたものの、実際には人件費も十分に生み出せていないという課題が続いている。補助金の条件も、対象支出は活動諸経費のみで、主体団体の労働対価は認めらない場合が多い。自由でユニークな発想による企画力や行動力、調査力やコーディネート力など、市民活動ならではの価値が認められ、正当な人件費が創出できるよう、行政や企業の委託事業など協働のあり方が模索されている。