達代さんの踊る手〜介護体験を通して思うこと=『まほろば4号(2002.3)』

達代さんの踊る手〜介護体験を通して思うこと

池田恵美子

85歳の達代さんは、私の友人かや子さんのお母さんだ。母娘2人暮らしで、かや子さんとホームヘルパーさんが寝たり起きたりの達代さんを介助していた。ある日食事をしていた達代さんは、お箸を落としたり、よだれが垂れたりした。様子がおかしいと気づいたかや子さんがすぐ病院に連れて行ったところ、脳梗塞の再発で緊急入院となった。

「母が入院して、精神的なフォローが気になるから、手伝ってもらえないかしら」

と、かや子さんから電話があった。達代さんとかや子さんは、私にとっても母と姉のような存在。取るものも取り敢えず、病院に駆けつけた。

幸い発見が早かったので、大事には至らなかったが、それまでマダラボケだった達代さんは、全く何も分からなくなってしまった。医師から「1週間は絶対安静」と言われ、完全にベッド張りつけ状態となった。上体を起こしてもいけないというのだ。私はかや子さんと交代で、病院に泊まり込んだ。夜中にフッと目が覚めると、寝ぼけた達代さんがベッドから身を起こそうとしている。私は慌てて飛び起き、なだめすかしてベッドに押さえつけ、手を握って眠らせる。なにしろ会話の通じない相手である。しばらくして、またフッと目が覚めると、今度は腕の点滴を外そうとしている。また飛び起き、なだめすかして眠らせる。一晩中こんな調子が続いた。

数日後、ベッドの角度が30度まで許され、水を飲むのが少しラクになった。ついに90度、車椅子でトイレに行くことができるようになった。この頃になると、付き添いの泊まり込みは不要になり、私たちは日中だけ介護するようになっていた。前後不覚だった達代さんのアタマは、着実に、マダラボケに向かって快復していた。

病院とは実に不思議だなぁと思ったことがある。ボケ度チェックのためだろうか、「今日は何月何日ですか?何曜日ですか?」と、毎日達代さんに訊ねるのだ。名前や年齢ならまだしも、今日の日付や曜日なんて、30代だった私でさえしょっちゅう分からなくなる。ただでさえ、いろんなことが分からないということ自体、本人にとっては苦痛なはず。だって、自分が今なぜここにいるのか、何をしているのか、全く状態が掴めないのだから、ボケはボケなりに辛いのだ。ボケてるから分からない…のではない。分からないということは、それだけでストレスなのだ。「何曜日か」なんて訊ねるのではなく、「今日は月曜日よ」って教えて毎日を意識させることがリハビリの一歩ではないだろうか。

少しずつ意識がしっかりしてくると、マダラボケながらも状況を把握するようになってきた。「悲しい」と泣いたり、「申し訳ない」と謝ったり、感情を表現するようになった。気分はウツのようだ。私は、達代さんの不安を取り除き、元気づけることに力を注いだ。曜日は病院名なども認識できるように、一日に何度も伝えた。ハグ(抱擁)し、手をつなぎ、童謡や小学唱歌を一緒に歌った。

一番のお気に入りは『365歩のマーチ』。「シアワセは〜歩いてこない、だ〜から歩いてゆくんだね〜」という歌詞から『幸せの歌』と呼んで、日に何度も歌った。かつて日舞を十八番としていた達代さんは、ベッドに寝たまま、歌に合わせて手だけで踊るようになってきた。ウツには特効薬だった。実はこの歌、私自身が落ち込んだ時、自分を励ますためによく歌っていたのだった。よそで試したら、赤ちゃんにも効果テキメンだった。

一ヶ月後の退院の頃には、笑顔が見られるほどになっていた。退院後、私は毎週4晩泊りこみ、24時間体制のケアを引き受けた。初めのうちはベッドから身体を起こすことさえ自力でできずに、夜中のトイレもその都度起きて介助した。褥瘡がひどくなり、腰痛を訴えるときは、オイルマッサージや足湯を施し、激痛のときは鎮痛座薬を用いた。

次第に精神状態が安定しはじめ、寝たまま手で踊ることも増え、車椅子での散歩やデイサービスへの参加も始めた。これらよい刺激となったのか、次第に自力でベッドから起き上がれるようになり、壁伝いのバーにつかまり歩行もできるほどに快復してきた。そして驚くことに、もともとウィットに富んでいたオチャメな達代さんは、ダジャレまで言うようになったのだ。

人間の生命力はホントにすごい。達代さんの快復ぶりは、赤ちゃんの成長並みだった。もちろん、私もかや子さんも彼女の快復を願い、信じてやまなかった。周囲のそういう思いが、彼女に生きる気力と活力を与えたのだろうか。もし赤ちゃんに対して、この子はこれ以上成長しないだろうと思って関われば、もしかしたらその子は何も覚えず、何もできないままかもしれない。周囲が成長を信じて願い、成長を喜ぶエネルギーがあるからこそ、それが子どもを伸ばす力になっているにちがいない。達代さんの具合は私たちのバロメーターであり、彼女は私の師匠であった。

目覚ましい快復は、秋風とともに止まった。かや子さんから「寒くなって風邪をひいたら大変だから、散歩に行くのはやめてね」という指示が出た。私と達代さんは、終日家の中で過ごすようになった。密集した都会の住宅街なので、達代さんは隣家や路地から見られることを嫌がるため、窓の障子は閉めたまま。一日中、外の空気を吸うこともなければ、青空を見上げることもなくなった。これには私がまいった。息が詰まり、気が詰まってしまったのだ。達代さんの気分はウツに戻ってしまった。私もエネルギー不足になったようで、達代さんを元気づけるために歌う気力さえ湧かなくなっていた。ウツは他人事ではなかった。

人間、心のゆとりがなくなると、意地悪になるものだ。達代さんがベッドから私を呼んでも、応えるのが億劫になる。何回かに一回、聞こえないふりをしてしまう自分が怖ろしかった。そんな自分がイヤになる。お互いのためにも、いいことがない。まずは自分を取り戻し、センタリング(*)しなくては。泊まり込みをやめて、通いに変えた。デイケアサービスの回数も増やしてもらった。

この体験を通して、本当にたくさんのことを学ばせてもらった。「病は気から」は本当だと思う。周りから「いい気」をたくさんもらえれば、病気は驚くほど快方に向かうだろう。しかし「気が詰まる」と、心身ともにどんどん病んでいくのだ。

高齢者や病人を抱えた家庭で、最もケアが必要なのは家族といえるだろう。責任感だけでは共倒れしかねない。行政に頼るのも限界があり、行政を批判しても始まらない。私たちが今こうして幸せに生きていられるのは、紛れもなく先人たちのおかげである。その先人が病に伏せったら、みんなで支え合える世の中でありたいものだ。一人残らず、まちがいなく、順番に老いてゆくのだから。私には子どもがいないが、いたとしても、兄弟数の少ない現代では、我が子だけに頼るのは困難になりつつある。

自分は自分、他人は他人という排他的な考えを手放して、「みんなの親は社会の親、みんなの子どもは社会の子ども」という共同体の原点に立ち返り、社会の在り方を見直すことから始めたい。大きなことはできなくても、そういう意識を持ち続けることから、希望の未来に一歩近づけるかもしれない。

(*)センタリング…精神的にぶれた自分を中心に戻すこと。冷静さを回復すること。

 

(『南総ふるさと発見伝まほろば』4号:2002年3月)