【読売夕刊】150627=特攻操縦ペア再会「海龍」

戦後70年、特攻操縦ペア再会

旧日本軍兵器「海龍」

10か月訓練「夫婦より強い絆」

(読売新聞夕刊2015.6.27付)⇒印刷用PDF

太平洋戦争末期、旧海軍が特攻兵器として開発した2日とのりの特殊潜航艇「海龍※」でペアを組んでいた元搭乗員が今月、終戦以来の再会を果たした。特攻隊員として、死と隣り合わせの日々をともに過ごした2人は「70年間どうしているかと思い続けていた」と健在を喜び合った。

(清水健司)

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再開したのは、工藤英三さん(93)(長野県木島平村)と立川有(たもつ)さん(88)(新潟県弥彦村)。今月15日、足が不自由な立川さんを、工藤さんが訪ねた。再開の瞬間、2人は言葉にならない声を上げて抱き合い、「彼と一緒なら死んでもいいと思っていたから、うれしい」(工藤さん)、「一緒に訓練したのは10か月だが、夫婦よりも強い絆があった。当時の深い気持ちを再確認した」(立川さん)と語った。

工藤さんは1943年、予備学生3期として海軍に志願。立川さんも同年、飛行予科練習生(予科練)として海軍に入隊した。翌年、2人は広島県呉市にあった特殊潜航艇の秘密基地に配属され、ペアを組むことに。ハッチを閉じると立つこともできない狭い艇内で、操縦訓練を重ねた。

艇長の工藤さんが後部席で潜望鏡をのぞき、前で操縦かんを握る立川さんに指示する。操艇には、完璧な意思疎通が必要だった。

45年6月、2人は千葉県・房総半島にあった第一特攻戦隊第18突撃隊の勝山基地に配属され、中尉だった工藤さんは第11海龍隊の隊長となった。沖合約1キロにある小島を拠点に、東京湾に敵艦が侵入するとの想定で訓練を続けた。

訓練中の事故で死者も出た。8月には、係留中の海龍がハッチを開けたままの状態で沈み、艇内で作業中の整備兵ら2人が命を落とした。

終戦間際には「600キロの炸薬(さくやく)を積んで突破せよ」との命令が下る。工藤さんは「それで最大の戦果を上げるなら」と覚悟を決めたが、そのまま終戦を迎えた。その後、どうやって別れたのか、2人とも記憶がはっきりしない。

立川さんは故郷の弥彦村に戻り、半年ほどして結婚、婿入りして「石川」から姓が変わった。農業を経て、今は酒屋を営む。工藤さんは複数の大学で体育学の教授を歴任。スキー指導員の資格を持ち、今でも滑る。

記者が取材で工藤隊の名簿が書かれている本を入手し、連絡先を調べたところ、2人とも健在だった。それぞれの消息を伝えると、いずれも声を上げて驚いた。「会いたい」という気持ちを持っていることが分かり、70年ぶりの再会が決まった。2人は「あのとき、死ななくて良かった。相手を殺さなくて良かった」と、平和の尊さを口にした。

 

※海龍‥‥

全長17・28メートル、直径1・3メートルの小型潜水艇。短い両翼を備え、飛行機のように上下させて潜航や浮上をした。2本の魚雷を搭載できるが、終戦間際には艇の先端部分に爆薬を積んで体当たり攻撃をすることが計画された。終戦までに200隻以上建造されたが、本格的な作戦が行われる前に終戦となったため、幻の特攻兵器とも呼ばれる。