【読売夕刊】150904*米占領軍上陸地(千葉県館山市)

戦後70年、歴史を歩く〜米占領軍上陸地(千葉県館山市)

行き違い?直接軍政の謎

上半身裸に短パン姿、腰にピストルを下げていた

(読売新聞夕刊2015.9.4付)⇒印刷用PDF(要拡大)

東京湾の玄関口、千葉県館山市の館山湾は「鏡ケ浦」と呼ばれ、穏やかな海が広がる。70年前、ここで米軍の対日占領政策の一歩が踏み出された。

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1945年9月3日午前9時半頃、米進駐軍(第112騎兵連隊)4200人が、湾内の館山海軍航空隊水上班滑走台から続々と上陸した。前日、米戦艦ミズーリ号で降伏調印があり、首都・東京を挟むように、東京湾の軍事拠点である館山と対岸の横浜への進駐作戦が始まっていた。

館山港の西側、上陸地点に立ってみた。コンクリート斜面が海中に滑り込む。飛行艇が出入した滑走台跡は昔のまま残っていた。

進駐軍の上陸に先立つ8月30日、米海兵隊先遣隊が館山や富津、横須賀に上陸し、要塞を破壊するなど事前作戦を展開している。

同じ日、館山航空隊(現・海上自衛隊館山航空基地)近くに今も住む元館山市教育長の高橋博夫さん(87)は自宅から、十数人の名兵が館山港から上陸するのを目撃した。「正午前、上半身裸の短パン姿で、腰にピストルを下げた連中が上陸した」と話す。この米兵は機雷などの障害物を除去する水中爆破班とみられている。

翌31日にクロフォード少佐ら先遣隊が館山航空隊を武装解除。9月3日、進駐軍のカニンガム准将らが、館山終戦連絡委員会(※)の代表らに指令書「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」を手渡した。

指令には「軍政参謀課(Military Government Staff Sections)を設置し、裁判所管理、物価統制などの権限を持つほか、学校閉鎖や外出制限を実施することなどが記されていた。「千葉県史」によると、終戦連絡委は「米軍は直接軍政を指向しているのではないか」と考え、間接統治のポツダム宣言や米政府方針と違うことを政府に急報したという。

当時、館山病院副院長の川名正義医師(1903〜83年)は地元医師会誌に市内の様子を書いている。「街に人影はなく病院も休診状態」。市民じゃ家の中で息を潜めるばかりだったが、川名医師は医療面の協力で米軍側の信頼を得た。終戦連絡委とカニンガムから市民代表に指名され、英会話教室を開くなど、米軍と市民の良好な関係を築く上で大きな役割を果たした。

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沖縄以外で唯一の直接軍政が、なぜ館山だったのか。

連合国軍最高司令官マッカーサーが準備した「軍政三布告」の撤回が命令されたのが9月3日午前10時。カニンガムの指令文が渡されたのは同9時半前。行き違いがあった可能性がある。

9月6日、米政府が出した間接統治の再指示で、軍政は終了したとされる。では軍政三布告を撤回後なぜ4日間続いたのか。戦史に詳しいNPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(63)は「カニンガムはソ連の南下や館山の戦争継続派への不安から、軍政を続けたかった。だが、館山市民は意外に協力的だった。これなら大丈夫と思ったのでは」とみる。

戦後日本の再出発の舞台の一つ、千葉県で行われた当初の占領政策は、こうして“幻の軍政”となった。

(千葉支部 笹川実)