【房日寄稿】150903*戦跡シンポ③佐野達也

戦争遺跡保存全国シンポジウム③

GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政

佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

(房日新聞寄稿2015.9.3付)
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日本では8月15日を終戦記念日としているが、世界的には1945年9月2日が終戦といわれている。それは、東京湾上に停泊する戦艦ミズーリ号において降伏文書調印式がおこなわれた日である。戦争が正式に終結し、世界に平和がもたらされたはずのこの日、日本が国家存亡の危機に直面していたことはあまり知られていない。

調印式から6時半後の夕刻、横浜終戦連絡事務局の鈴木九萬(ただかつ)は、GHQのマーシャル参謀次長から呼び出しを受け、重大な通告を受けた。終戦連絡事務局とは、GHQと日本政府の間にパイプ役として置かれ、日本外交の最前線を担っていた機関である。そこで告げられたのは「三布告」と呼ばれる占領政策であった。「日本國民ニ告グ」で始まり、GHQが日本政府を飛び越え国民を直接軍政下に支配しようとする内容である。

・布告第一号:英語を公用語とすること

・布告第二号:占領軍裁判所が設置され、司法権はGHQにあること(軍事裁判により死刑)

・布告第三号:占領軍の発行する軍用紙幣B円を日本法貨とすること

すでに軍票B円は各部隊に3億円を配布済であり、翌3日の朝6時に「三布告」とともに公布する予定であるという。なかでも日本政府が怖れたことは、B円乱発によるインフレーションである。権力をもった占領国が経済をコントロールすることは、日本がアメリカの州のようになってしまうことである。鈴木は、「ポツダム宣言によれば、GHQは日本政府の存在を認めているのだから、日本国民に対する命令は日本政府を通してするべきだ、日本政府を通さず直接命令するのは違反である」と反論したが、「三布告」にはすでにマッカーサーの署名がされていた。

降伏文書調印式にも立ち会っていた終戦連絡中央事務局長の岡崎勝男は、首相官邸に呼ばれ、「三布告」撤回の使命を託された。深夜、岡崎は横浜のホテルニューグランドに潜入し、就寝中のマーシャル参謀次長に直談判した結果、3日未明に、「三布告」公布を延期するという回答を取り付けた。午前8時、重光葵(まもる)外務大臣と岡崎はマッカーサー司令部のある横浜税関で待ち、直接交渉をおこなった。その結果、マッカーサーは「連合軍の目的は、日本国を破壊し国民を奴隷とすることではない。この問題は、政府及び国民の出方一つによる」と言い、正午に「三布告」は取り消された。日本政府は、GHQの直接軍政下に置かれることをぎりぎりで阻止したといえる。日本の運命が分かれた2日間だったのである。

1945年9月3日、午前6時に公布予定だった「三布告」は正午に停止された。ところがこの空白の時間に、千葉県館山市では撤回されたはずの直接軍政が実施されていたのである。外交資料館の記録によれば、館山の行政を監督するのは軍政参謀課、つまり米軍であった。公的機関は閉鎖され、酒場や劇場など娯楽施設は休業させられ、夜間の外出禁止など戒厳令ともいうべき措置がとられた。9月5日の新聞には、「館山に軍政」と報道されている。千葉県立安房高校(旧安房中学)に残る当時の教務日誌によると、9月3日に学校の閉鎖が命じられ、6日までの4日間生徒は出校停止となっている。はじめ恐怖を抱いていた市民も、上陸した正規軍の紳士的で茶目っ気ある態度に緊張感は和み、占領は平和裏に受け入れられていったと証言している。

 

【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム

①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

④ 館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ
:高橋博夫(元館山市教育長)

⑤ 韓国と日本、二つの祖国を生きる
:河正雄(ハ・ジョンウン/韓国光州市立美術館名誉館長)