【日経】110411*青木繁没後100年回顧展
青木繁没後100年回顧展
「海の幸」に豊かな解釈
(日本経済新聞2011.4.11夕刊文化)
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日本近代を代表する洋画家、青木繁の没後100年を機に39年ぶりの回顧展が開かれている。代表作「海の幸」をめぐる斬新な解釈が現れるなど「早世の転載画家」の新たな側面に光が当たる。
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国の重要文化財に指定されている青木の代表作「海の幸」。日焼けした漁師たちが大魚をぶら下げ、誇らしげに行進する。この絵がしばしば「祝祭的」と評される理由をブリヂストン美術館の貝塚健学芸員は「祝祭そのものを描いたから」と見る。
2列目の男たち、水平に近い角度で担ぐ銛—。「祭りの御輿みたいだ」と感じた貝塚学芸員は展覧会の調査を進める中で、安房郡の布良)現千葉県館山市(にある安房神社の例祭を知った。
漁業で栄えた村が最も活気づく例祭の中心的な行事が8月10日の「お浜出」。日暮れに鳳凰を頂いた輿を浜辺に持ち出すことから「夕日の祭典」と呼ばれた。「青木はお浜出を見たのではないか」と貝塚学芸員は直感する。
1904年7月4日に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した青木はその11日後、恋人の福田たね、親友の坂本繁二郎らを伴って写生旅行に出かけた。約1ヶ月半の布良滞在時に「海の幸」を描いたことはよく知られている。
「イメージ辞書」
貝塚学芸員の推測はこうだ。青木は房総半島の突端部、西側の海に面した布良から北にある浜辺に向かって練り歩く行列を南側から見物した。確かに「海の幸」では、画面左側に向けて歩く男たちが夕焼けを浴びているように見える。
青木は日本の神話や伝説に着想し、19世紀のラファエル前派、世紀末芸術などとの関連も指摘される。あらゆるものを絵画の糧として取り組んだ画家を貝塚氏は「イメージ辞書」と評する。「考えていたイメージの量は同時代の画家と比べても圧倒的。『海の幸』はそれを裏付ける」と話す。
福岡県久留米市の石橋美術館で5月15日まで開催中の「没後100年 青木繁展」(京都、東京に巡回)を訪れると、その「イメージ辞書」ぶりがよく分かる。
出品作約240点(資料は除く)。書きなぐりの素描を含めて440〜450点しか残っていない作品の半数が集められた。愛知県の個人コレクターが所蔵する「帰漁する父子」などの初公開スケッチも並ぶ。「こうした漁村のスケッチや海の絵なども代表作につながったと思う。絶えず手を動かし試行錯誤をしたことがわかる」と石橋美術館の森山秀子学芸課長は説明する。
日露戦争の影響
首都大学東京の長田謙一教授は「海の幸」が描かれた時代に着目する。1903年、青木は白馬会への出品作が絶賛され画壇へのデビューを果たした。たねと恋に落ちるのもこのころだ。翌年2月には日露戦争が勃発。日本中が海戦のニュースにふるえ、熱狂した。早世の天才のイメージが先走り、これまで日露戦争とのかかわりはほとんど指摘されてこなかったが、長田教授は「日露戦争は彼にモチーフを提供した」と言う。「すべてのものが熱によって溶け合わされ、この時、青木は人生の夏を迎えた」
「海の幸」は「悲劇の始まり」だったとも長田教授は見る。「形が生まれてくるさまを描いた青木には、絵が鮮度を保っていることが重要だった」。必然的に、画風は下書きや制作過程の描線が残る粗削りなものになった。それらはアカデミズムには受け入れられず、07年創設の第1回文部省美術展(文展)にも2作品を出品するが落選。「日本の前衛芸術の扉を開き」(長田教授)、失意のどん底でこの世を去るのは4年後のことだった。
(文化部 窪田直子)