【房日】100509*市部瀬の惨劇、生々しい証言次々と

鋸南、生々しい証言次々と
65年前の「市部瀬の惨劇」
平和願い現地に60人集う

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友人が、同級生が、親戚が乗っていました——。65年前の5月8日、鋸南町下佐久間字市部瀬であった米軍機による列車への機銃掃射事件を忘れず、恒久平和を願おうという集いが8日、同所のJR内房線沿線であり、60人が惨劇の現場で献花、焼香した。地元有志らが、本紙記事を通じて当時の列車乗客にも参加を呼びかけたところ、高齢を押して駆けつけた人もいた。会場では民間人が犠牲になった惨劇が語り継がれ、参加者は平和への思いを新たにしていた。

事件は、1945年(昭和20)の5月8日午前11時50分に起きた。米軍機P51は、太平洋上から九十九里方面を経て、100機ほどが飛来。千葉市や木更津市を襲撃した後、38機が館山方面へ南下した。「千葉県の歴史」(平成12年、県発行)は、この日の空襲被害で、県内で死者41人、重傷者51人、軽症者52人、全焼家屋49、半焼家屋6——とまとめている。

房総西線(現内房線)の列車を襲ったのは、このうちの3機。波状攻撃を繰り返し、低空で列車に機銃掃射を加えた。乗客は死者13人、負傷者46人を数え、この日の空襲では県内最大の被害となった。

今年がその「市部瀬の惨劇」から65年になるため、地元の「明日の鋸南町を考える会・子どもの未来に平和を実行委員会」(安藤恵美子代表)が、現地での献花と焼香を呼びかけ、当時を知る人たちに語ってもらう会を開催した。

この日、会場の勝山ドライブインに集まったのは、60人。最初に線路わきで献花、焼香し、ドライブイン内で体験談を聞いた。

現場近くに住む川崎信さん(80)は、当時15歳。幼い妹たちを迎えに行こうとしたとき、空襲警報を聞いた。P51はバリバリと列車に機銃掃射を加え、乗客は逃げ惑った。近くの民家から火の手が上がり、悲惨な光景となった。

館山市竹原の農業、近藤好雄さん(86)は、志願して少年飛行兵となり、九州の部隊にいた。当時22歳。この日は外泊の許可が出て、館山へ向かうためこの列車に乗り合わせた。機銃の弾丸が左腕に当たった。勝山病院で治療を受けた。

このほか、敵機に向かって逃げて助かった87歳の男性、当時小学5年生で、小3の弟と乗り合わせた女性、列車の下に隠れて助かった81歳の男性など、当時の乗客の証言も次々と出た。

献花の現場では、杖や松葉杖の人もいて、65年の歳月が関係者に重くのしかかっていることがまざまざ。有志のメンバーらは「市部瀬の惨劇を後世に語り継がなくては、この戦争が風化してしまう」などと、ふるさとで起きた戦争の一端を伝え、恒久平和への決意を新たにしている。

(房日新聞2010.5.9)