【公明】080815=「震洋」特攻基地跡

歴史の証人
戦争遺跡は訴える

.記者:千葉宣男

きょう8月15日は「終戦記念日」。旧日本軍によって造られた地下壕や兵舎、砲台跡など、先の戦争に関係した建物や跡地が全国各地に残っており、それは今、「戦争遺跡」と呼ばれている。戦後63年を過ぎ、戦争体験の風化が進むなかで、これらの遺跡は戦争の事実を迫力をもって伝えてくる。この夏、地域の身近な場所にある〝歴史の証人〟たちの訴えい耳を傾けてはどうだろうか。

東京大空襲(東京)
下町の犠牲者は10万人に及ぶ

第2次世界大戦の末期になると、米軍による日本への爆撃は全国の都市に及んだ。その中で、広島、長崎の原爆を除き、東京が最も大きな被害を受けた。B29爆撃機による空襲は約120回に及び、とりわけ、1945年3月10日未明に東京の下町を襲った大空襲での死者はおよそ10万人に上った。

この「東京大空襲」の戦績は今や乏しいが、それでもいくつかみることができる。隅田川にかかる言問橋の石柱もその一つ。大空襲の際は、大勢の人がこの橋の上で亡くなった。石柱の黒ずんだ部分は、犠牲者の血と脂だといわれている。

また、かつて墨田電話局と呼ばれていたNTT石原ビル(墨田区石原4丁目)の前庭には、殉職した電話交換手らの慰霊碑が設置されている。作家・吉川英治の碑文も添えられている。

このほか、東京・両国の江戸東京博物館には、「空襲と都民」のコーナーが設けられており、不発弾(複製)や焼夷弾の残骸などが展示されている。

一方、防衛省(新宿区市谷本村町)の敷地内には、かつての陸軍士官学校本部がある。本部の大講堂は、極東国際軍事裁判の法廷となった場所としても知られ、現在、市ヶ谷記念館として一般公開されている。

<メモ> 市ヶ谷記念館の見学は事前予約制。防衛省大臣官房広報課記念館係。

 

「震洋」特攻基地(千葉)
船首に爆薬積み体当たり狙う

房総半島南部の千葉縣館山市には、現在でも旧海軍の水上特攻兵期「震洋」の特攻基地が残る。震洋は、ベニヤ製の特攻ボートで、船首部分に250キロの爆薬を積んで体当たり攻撃で船舶を撃沈する。第二次世界大戦末期、本土決戦に備えて建造された。

同市波左間にある特攻基地は、航空機から発見しづらいように、漁村の民家に紛れて配置された。海岸から約200メートルほど離れた山すそには震洋の格納壕跡があるほか、海岸にはコンクリート製の滑り台跡がある。この波左間基地跡から西方約3キロの洲崎にも格納壕跡がある。

東京湾の入り口に位置する館山市は、首都防衛の最前線として、軍事施設が集中して建設されてきた。それだけに、数多くの戦争遺跡を見つけることができる。

関係者の証言から、館山海軍航空隊基地の司令部などがあったと推定されるが赤山地下壕や、敵機から零戦を隠すために造られた掩体壕と呼ばれる格納施設跡、洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡、洲崎第1、第2砲台跡などがある。

<メモ> NPO安房文化遺産フォーラムが、平和学習のための戦績ガイドを実施中。

 

松代大本営地下壕(長野)
掘り跡は生々しい象山の内部

長野市松代町にある松代大本営地下壕は、第2次世界大戦の末期、本土決戦の際の最後の拠点として大本営、政府機関などを松代に移すという軍部の極秘計画のもとに造られた。大本営とは、戦争の時に天皇のもとで作戦をねり、戦争を指揮する旧日本軍の最高司令部。

工事は、1944年11月から翌年8月15日の終戦まで行われた。労働者として住民や朝鮮人ら延べ300万人が強制的に動員され、過酷な労働に多くの犠牲者を出したといわれる。

松代の地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密自身観測室)を中心に、皆神山、象山の3カ所に碁盤の目のように掘り抜かれており、総延長10キロメートル以上になる。このうち公開されているのは、象山地下壕(総延長5.8キロメートル)の500メートルの部分。岩がむき出しとなっている壕内の天井や壁には、削岩機の先端部であるロッドや木片が食い込んだまま残っていたり、砕いた岩を運ぶためのトロッコのレールの枕木跡などを見ることができる。

<メモ> 長野市松代町松代479-11。入壕無料。午前9時~午後4時まで。休みは第3火曜と年末年始など。