080628和光大学・歩く平和学*岩本さま
土曜日の見学、大変有意義でした。はじめて見るウミホタルの妖しい光や、まさに土地に刻まれた戦争の爪あとに、感じ入ることが多々ありました。
先ほど、福岡の父(岩本照夫、大正14年12月26日生まれ)に電話を入れてみました。「館山海軍航空隊」の昔話をしてくれましたので、ご紹介いたします。思わぬ長電話になりました。館山の人に知らせてあげるといったら喜んでいました。必要あれば自由にお使いください。
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館山海軍航空隊といえば、自分が最初に覚えた航空隊の名前だった。昭和10年ごろ、台湾・花蓮港の陸軍飛行場に、館山から、複葉の13式艦上攻撃機と、90艦上戦闘機が来た。全部で40機くらい来たようだ。飛来の予告があり、子供たちは飛行場に見に行っていた。すると、敏捷な戦闘機が3機で上空500メートルから300メートルあたりを旋回し、こちらに向かって次々と急降下しては反転上昇することを繰り返すデモ飛行を行った。エンジン音が怖くて、地面に伏せた。女の子たちはたまげて逃げていた。これが「艦橋掃射」のスタイルということは後で知った。複葉機の方は特に何もせずに、次々と着陸した。
その日の6時ごろ、親父(岩本清、昭和15年に数えの40で没)が、木材会社の社宅に海軍兵を三人くらい招き、風呂に入れた後、花蓮港で一流とされていたカフェ「タイガー」にタクシーで連れて行って飲ませた。出かける前に士官が点呼に来て、兵隊に厳しく指示をあたえる口調が、まるでいじめているかのように、子供心に感じられた。航空兵は操縦や機上射手の軍曹くらいの人で、中に18歳の田中兵曹という人がいたのを覚えている。18歳というと予科練だったのかもしれない(陸軍の少年飛行兵は遅かったが、海軍は早かった=照夫はその後、陸軍少飛12期=)*。
航空兵たちは自分(照夫)が寝た後にカフェから戻って一泊し、翌朝には再度将校がやってきて点呼をとった。父(清)は脇で神妙にしていた。「何時にバスが来るから忘れ物のないように」といったことを伝える口調がやはり厳しく、いじめている感じがした。
小学校の校庭で朝礼があっている時。体操が終わり、はげ頭の校長が講話をしている最中に、離陸する飛行機の爆音が響き渡り、頭上を飛行機が飛びだした。子供は大喜びで校長の話どころではなくなった。
この時の館山航空隊は、黄海の空母を飛び立ち、花蓮港経由で高雄まで行った、海上航法能力の海軍初となった長距離訓練だったことを、後になって知った。
*海軍の予科練は昭和5年に出来たとあります。
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その他
飛行場の立地に関しては『飛行場設定教範』というパンフレットがあり、航空航法、土地の風向きの性質をにらんで造成することなどを習った。ただ陸軍はフランス流だったのか、飛行場は四角で、吹流しの向きで離着陸を行っていた。それでも、主滑走路はこっち向きくらいは決めてあった。
海軍は燃料や爆弾で重く、揚力のない状態から空母を飛び立たなくてはならないため、飛行場の立地は陸軍よりも厳密だったのだろう。
渡洋爆撃の「中攻」は「中型攻撃機」の略。その後、一式陸攻(陸上攻撃機)が出てから、96陸攻と呼ばれるようになった。
以上が岩本照夫の昔話です。ご案内いただいた射撃調整場には、映像にもあった大型の機銃弾(私の手元のサンプルを取り出してみましたが、やはり20mmでよいと思います)の他に、小型のが刺さっていたようでした。ノギスがあるとよかったのですが。こちらは7ミリ7で、いずれも徹甲弾か曳光弾だろうと思います。壁面におわん位の穴があいていたのは、炸薬入りの7ミリ7だった可能性があります。あそこで零戦の、弾道の違う20ミリと7ミリ7を収束させていたのでしょう。将来、出来るものであれば整備の際に、きちんと考古学的な発掘をしてデータを取りたいものだと思ったことでした。
長くなりました。今後ともよろしくお願い申し上げます。