【東京新聞】250612_「花作りは国賊」もう二度と
<2025年 戦後80年>
「花作りは国賊」もう二度と
安房で禁止にあらがった祖母の思い継ぐ
南房総の生産農家・川名さん
(東京新聞 2025.6.12)-400x251.jpg)
花を作る者は国賊だ-。先の戦争中、農地作付け統制で花の生産は禁じられるに至った。花をめでることもままならない時代を繰り返してよいはずもない。戦後80年。当時も花を守り、守ろうとした人たちの思いを知りたくて、産地の安房(千葉県南部)を訪ねた。(山本哲正)
捕鯨基地・和田漁港のある海に、山が迫る南房総市和田町。「川惣(かわそう)農園」でお盆に向けてキクを育てている川名秀(しゅう)さん(55)は、「花は心の食べものです」とプリントしてある出荷箱を掲げた。「父の代からの、うちの看板になる言葉。全国に広めたい」
「花は心の食べものです」とプリントしてある出荷箱を見せる川名秀さん=南房総市で
◆「不要不急の作物」指定
安房で花作りが盛んになっていった大正の頃、和田町でも薬剤師の間宮七郎平さんが研究を始めた。「食えもしない花などを」と物笑いの種にする人たちもいた中、秀さんの祖母りんさんは一緒に研究。1922(大正11)年、出荷にこぎ着ける。売れれば米や麦より割が良く、花作りは広がっていった。
だが、昭和になり日中・太平洋戦争が泥沼化。政府は人や物資の統制を強めた。41(昭和16)年、花卉(かき)は「不要不急の作物」に指定され、その3年後、県内での栽培を禁止する命令も出た。多くの生産者は肩身が狭くなり、命令に従って畑から花を抜き取り、種や球根を焼却した。りんさんの長男で農学校で園芸を学ぼうとした、武さん=2009年に死去=でさえ「やってはだめ」と栽培に反対した。だが、りんさんは1944年5月まで出荷を続けた。
当時、りんさんは、スイセンの球根を人目につかないスギ山の木の下に埋め、隠した。戦争が終わるとすぐ、花作りを再開。武さんは、りんさんの下で学んだ。息子の秀さんに、りんさんのことを「本当に花が好きで、作りたかったんだろうな」と語ったという。
◆田宮虎彦さんの小説に
再開後、地域が活気づくのも早かった。安房ではほかにも、心の中では続けたかった人や、種を隠していた人がいたからだ。
りんさんは70年に68歳で亡くなった。その生涯は間宮さんの逸話と共に、田宮虎彦さん(11~88年)の小説「花」のモデルとなり、映画「花物語」(89年、堀川弘通監督)になった。「花は心の食べものです」は小説中の言葉で、武さんが逆輸入のように田宮さんの了承を得て使うように。地域の歴史、文化遺産を研究するNPO法人安房文化遺産フォーラムも語り継いでいる。
「戦争は一度始まると私たちの暮らし、その土台、先人の築いた文化も一瞬にして取り上げてしまうものだった」と祖母、父に学んだ秀さん。和田町から全国に花を届けたいと励む日々だ。「同じ過ちを繰り返してはいけないのは当たり前。暮らしに直結する政治には、知恵を使って戦争しない最善の道を進むかじ取りをしてほしい」
◆鋸南のスイセンも危機だった 球根掘らねば「非国民」
花の生産禁止を乗り越えた人は、鋸南町にもいた。冬にスイセンを楽しめる「水仙ロード」のある同町江月の馬賀忠幸さん(77)の祖母きよさんだ。地域でこの問題を取材し続ける、町おこし情報紙「野水仙つうしん」編集委員の塚田一未(かずみ)さん(77)に同行し、馬賀さんに話を聞いた。
明治生まれのきよさんはニホンスイセンを栽培して東京へ出荷していた。戦時中は花卉栽培の禁止により、スイセンを掘り出すことを迫られたという。「このあたりではうちが一番多く作ってたから、目を付けられた」(馬賀さん)
きよさんは仕方なく、麦畑にしていったが、全ての球根を掘りきらないまま終戦となり、残りを戦後すぐに使うことができた。
馬賀さんの母は、戦後に70代で亡くなったきよさんが「『掘れ』と言われたからしょうがない。反対すると『非国民』と言われてしまうから掘った」と話していたと、教えてくれたという。馬賀さんは「一番いいのは戦争をしないことです」と語る。