【東京】250506_語り継ぐ慰安婦 2つの碑(中)
<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(中)
みんなが帰る場所 建立を
(東京新聞 2025年5月6日付)
千葉県館山市の小高い丘に、「噫(ああ)従軍慰安婦」と刻字された碑が立つ。高さ約2メートル。元慰安婦の故・城田すず子さん(仮名、1921~93年)が「かつての同僚」のためにと強く願い、86年に建てられた。今も8月15日には、慰霊碑前で鎮魂祭が執り行われ、参加者たちは「戦争と性搾取の歴史を繰り返すまい」と誓う。
城田さんは、東京・深川の裕福なパン店の長女に生まれた。だが、14歳で母が亡くなり、親戚や父親の借金などから17歳で芸者屋に売られ、客を取らされた。まもなく、日本統治下の台湾で「海軍御用」と看板のある遊郭へ。南方のサイパンなどを経て、45年ごろパラオへ。そこで、若い慰安婦の管理や世話もした。
「(海軍の)特要隊の女の子は、朝鮮と沖縄の人ばかりで、内地の人はいませんでした」「20人の女の子がそれぞれ番号がきまっていて(中略)お客は、『何番をください』と言って切符を買うのでした」と書き残している。
城田さんは戦後、「汚い商売をしていた人は家に上げられない」と実家から拒絶された。全国にあった、「特殊飲食店」の名目で売春を認めた赤線地帯を転々としたが、妹の自死などをきっかけに「足を洗わなければ」と考えた。最終的に頼った東京都板橋区の社会福祉法人「ベテスダ奉仕女母(ほうしじょはは)の家」で57年、深津文雄牧師(09~2000年)と出会う。
「城田さんのように困っている人を見捨てるわけにはいかない」と励ましてくれた深津牧師は、翌1958年に婦人保護施設「いずみ寮」が開設されると寮長に。65年には、困難を抱え行き場がない全国の女性たちの「最後の砦(とりで)」として館山に「かにた婦人の村」が開かれ、初代施設長になった。
終戦40年を迎えるころ、城田さんは病弱で、2度の危篤を乗り越えていた。慰安婦の存在が語られずにいたことに思い詰め、深津牧師に「どうか慰霊塔を建ててほしい」と手紙で訴えた。深津牧師やスタッフの手厚い介護を受けて、隠されていた心のひだをさらけ出すかのような告白だった。
心動かされた深津牧師は85年8月15日、「鎮魂」と墨書きしたヒノキの柱を立てる。除幕式で城田さんは「みんな、ここに帰っておいでよ」と叫んだ。1年後、「噫従軍慰安婦」の石碑が建てられた。
城田さんと深津牧師の物語は、かにた婦人の村第3代施設長の五十嵐逸美(いつみ)さん(63)が語り継いできた。地域の歴史を掘り起こすNPO法人安房文化遺産フォーラムも、機会あるごとに紹介。城田さんの著書「マリヤの賛歌」(かにた出版部、2200円)は6月、岩波書店の岩波現代文庫からも刊行予定だ。城田さんについて、五十嵐さんは「忠君愛国と育ったが、今の若い人たちには同じ思いをさせたくない思いが強かったと思う」と振り返る。
城田さんが亡くなる前に語った言葉を口にすると、今も五十嵐さんの目は潤む。「もし生まれ変われるなら、普通のお嬢さん、普通のお嫁さん、普通のおばあちゃんになって、孫に囲まれて生きてみたい」
◆「私は見たのです、女の地獄を」
<城田すず子さんから深津文雄牧師への手紙> 兵隊さんや民間人のことは各地で祭られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄(もてあそ)ばれて、足手まといになると、放りだされ、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬か狼(おおかみ)の餌になり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手させられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を…。
四〇年たっても健康回復はできずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。