【信濃毎日】170814*漂うマツシロ③〜南風原・館山は独自に指定
漂うマツシロ③〜史跡化、国の対応待つ長野
南風原・館山は独自に指定
(信濃毎日新聞2017.8.14付)‥⇒印刷用PDF
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地下壕(ごう)を懐中電灯を手に進む。かつて米軍の火炎放射器に焼かれた壁は所々黒ずんでいる。
ひめゆり学徒隊で知られる沖縄県南風原(はえばる)町の南風原陸軍病院壕。7月16日、近くで沖縄戦の資料を展示する南風原文化センターの学芸員保久盛陽(ほくもり あきる)さん(27)は「戦争を追体験するのに遺跡は有効です」と話した。
壕は、長野市の松代大本営地下壕の一般公開が始まった直後の1990年、戦争遺跡として全国に先駆けて町史跡に指定された。
95年に文化財保護法が改正され、戦争遺跡が国史跡の対象となる前のことだ。多くの住民が犠牲となった沖縄戦の歴史を学んだ高校生や住民の「平和の道しるべにしようという思い」に町が応えて、「独自の動きにつながった」。
文化庁が国の史跡指定に向けた「詳細調査」の対象とした全国51の遺跡にも、松代と一緒に選ばれた。現在、年間約1万人が見学に訪れる。
戦争遺跡に詳しい沖縄国際大学(沖縄県宜野湾市)教授の吉浜忍さん(67)は「90年代、保存運動で全国的に先駆けていたのは松代と南風原だった」と振り返る。市民団体同士が交流し、南風原町も壕の活用について松代から多くを学んだという。
一方で松代は史跡指定の動きは宙に浮いている。吉浜教授はもどかしい。「今後国へ働き掛けても変わらないでしょう。突破口を見つけてほしい」
「戦時下の国のプロジェクトであり、造った国の責任で評価するべきもの」。7月5日、長野市役所。市教委の松本孝生教育次長が、松代大本営地下壕の保存・活用に取り組む市内のNPO法人「松代大本営平和祈念館」の6人に説明した。市の史跡指定を先行しては—との質問に、国が実施した詳細調査の報告書を待つという従来の姿勢を強調した。
市側は文化財保護を担当する市教委、地下壕を管理する商工観光部の幹部らが並んだ。樋口博副市長は「国際的な大局観に立った判断が必要な案件。国の考え方を尊重したい」と補った。
同NPOの久保田雅文さん(67)は「国を待っていたら、永遠にどうにもならない感じがする」とつぶやいた。
95年に国が戦争遺跡の保全に積極的に動き出して以降、長野市は「国の対応待ち」の姿勢を貫く。「歴史認識を巡る対立に巻き込まれる恐れがある」(13年、文化庁への説明)と理由を挙げている。
地下壕を巡っては、日本とアジアの関係が影を落としてきた。地元にあった「慰安所」の実情などで、関係団体や住民の意見が分かれた。14年には、市が、入り口の説明版に記された朝鮮人労働者らの動員について「強制的に」の部分を伏せて問題化、「さまざまな見解がある」と書き換えた。
房総半島最南端の千葉県館山市。海軍が築いた館山海軍航空隊赤山地下壕が網目状に広がる。市は05年に史跡に指定。全長1.6キロのうち250メートルが公開されており、市内のNPO法人安房文化遺産フォーラムなどが平和学習の拠点に利用している。松代や南風原と違い、国が選んだ21の調査対象に入っていない。
「当初、市は(地下壕を)あまり評価していなかった」。NPO代表の愛沢伸雄さん(65)が話す。世界史の高校教員だった愛沢さんは89年に教材として戦争遺跡に着目。公民館で講座も開き、徐々に市民運動へと発展した。
館山の基地は中国への爆撃や真珠湾攻撃などの加害の一端を担い、歴史的評価も一様ではなかった。「花と海の観光地に戦争遺跡はイメージダウン」といった声が、観光業者から出たこともある。愛沢さんは「戦争遺跡だけを前面に出すのは難しい」と捉え、中世の城跡をはじめ身近な歴史文化の流れの中に位置付ける工夫をしてきた。
愛沢さんによると、史跡指定の際、館山市の企画担当課長が理解を示し、よく話を聞いてくれた。「長野市にもそんな職員がいるはず」と語った。
■南風原陸軍病院壕
沖縄陸軍病院が入った地下壕。1944(昭和19)年10月の空襲で病院が那覇から移転すると、空襲に備えて黄金森と呼ばれる丘の斜面に約30本の壕が掘られた。45年3月下旬から空襲や艦砲射撃で壕内に移動。軍医や看護婦、衛生兵ら300人余とひめゆり学徒隊222人が動員され、負傷兵を治療した。米軍が迫った5月下旬に撤去する際、重症患者に青酸カリを飲ませたとされる。公開している第20号壕では当時の壕内の臭いを再現し、希望者はかぐことができる。近くには関係資料を展示する南風原文化センターがある。
■館山海軍航空隊赤山地下壕
千葉県館山市の砂岩などでできた標高60メートルの赤山に、海軍の専門部隊が築いたとされる総延長1.6キロの地下壕。大部分は素掘りで、つるはしの痕跡が残る。記録や証言が少なく、造られた正確な時期は分かっていない。内部の形状などから、1930(昭和5)年に誕生した館山海軍航空隊の基地の司令部や、戦闘指揮所、兵舎、病院、発電所、航空機部品格納庫、兵器や燃料の貯蔵庫といった施設があったとみられる。戦後は一時、キノコ栽培に利用されたという。
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地層がはっきり分かる千葉県館山市の史跡に指定されている赤山地下壕。ガイドは松代大本営と比較して説明する=7月25日、同市