【西日本新聞】151017*ノーベル賞・大村智先生と青木繁(吉武研司)

ノーベル賞・大村智先生と青木繁

天才画家の「熱」と「輝き」を共有‥吉武研司

(西日本新聞・文化2015年10月17日付)‥⇒印刷用PDF

大村智先生と青木繁、ノーベル賞の科学者と夭折(ようせつ)の天才画家—。私たちNPO法人「青木繁『海の幸』会」は大村先生を理事長に頂き、青木繁が「海の幸」を描いた「小谷家」(千葉県館山市)の修復・保存を目指す運動を続けてきました。6年間の活動を経て、近く目標額に達し、修復を終え、来年4月には一般公開が始まる予定です。

私は佐賀西校生の頃、美術部の石橋美術館(福岡県久留米市)見学で「海の幸」に感動し、熱に浮かされ画家を志し上京しました。それから30年後、女子美術大の学生とスケッチ旅行に行った布良(千葉・館山)の海岸。時空を超えて「海の幸」の熱気がぶり返しました。「ここであの絵が生まれたのだ」と思えたとき時に鳥肌が立ちました。「海の幸」が描かれた小谷家を「絵描きの聖地」として残したいと思ったのでした。

久留米出身の画家吉岡友次郎氏と出会い、小谷家保存に向けたNPO法人設立を計画する中で、当時、女子美大の理事長だった大村先生と繋(つな)がるのです。入江観先生(女子美名誉教授)を通じて理事長就任を依頼すると、大村先生はすぐに「小谷家」を訪ね、修復プランを把握し、資金面も計画し、引き受けていただきました。その後の動きは迅速でした。

新婚旅行に館山を訪れたのが「海の幸」との繋がりを強めた、とも話されていました。修復・保存費用として私財300万を寄付され、東京や福岡などで計12回開いたチャリティー絵画展では、その都度作品を購入されるなど、常にこの運動を後押しし、元気づけてもらいました。

「海の幸」は「青木繁の青春」のピークに制作された作品で、近代に踏み出した「日本の青春」と交差し、その息吹を記録した傑作とも言えます。そのイメージ力は、若い絵描きの精神の血を湧かせあおって、脳に刻印する力を持っています。青木と坂本繁二郎、福田たね(青木の恋人)、森田恒友の房総への旅は1904年。神話を研究していた青木は海の神を祭る安房神社を訪ね、海に遊びました。ある日、坂本から大漁の素晴らしい様子を聞き、いきなり美の女神が舞い降り、宿泊していた小谷家で現場を見ずしてあの絵をイメージしたのでした。

それから70年後、大村先生は小谷家がある館山の対岸、相模湾を挟んだ伊豆半島のゴルフ場で土を採取し、新種の細菌を見つけ、寄生虫に効果のある抗生物質を発見。それが感染症の治療薬となり、ノーベル賞につながったとの話は、広く報道された通りです。

大村先生は絵が大好きで、才能を愛し、美を深く愛しています。作品をコレクションし、奨励制度を設け、病院をたくさんの絵で飾り、美術館をつくり、後輩を育て、人を助け、北里大学はもちろん女子美の発展にも尽くされました。「人のために生きること」を信条とする先生の判断と能力は、様々なところで発揮されてきたことでしょう。

大村先生にはじめて会った時は、「ビリッ」とする厳しい印象でした。しかしいったん話し出すと優しく、笑いが出てくる感じで、昔のおやじのイメージがあります。意志が強く、きちんと生きておられる感じがひしひしと伝わってきます。

「海の幸」を描いた22歳の青木繁の「熱」はきっと大村先生に伝染し、「海の幸」のイメージの輝きも共有されているのでしょう。

 

よしたけ・けんじ 画家。1948年佐賀市生まれ。NPO法人「青木繁『海の幸』会」理事、元女子美術大教授。独立美術協会会員。