【読売・文化】150930*戦跡考⑥赤山地下壕跡

文化歴史〜戦跡考⑥

赤山地下壕跡

ツルハシで掘削、目的不明

(読売新聞2015.9.30付)‥⇒印刷用PDF


地下壕の壁面や天井は、地層のしま模様が鮮やかだ。壕が掘られた丘陵は、かつて海底に堆積した砂岩や泥岩でできている。「もろい砂岩はダイナマイトを使うと崩れてしまう。だからツルハシで掘られました」。無数に残るツルハシの跡を懐中電灯で照らしでガイドの男性が説明すると、ガイドから感嘆の声が上がった。

千葉県館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕跡は、2004年4月から一般公開され、毎月第一日曜日には、NPO法人「安房文化遺産フォーラム」の会員によるガイドが行われている。

確認されているだけで延長1.6キロに及ぶ壕が、いつ、何の目的で掘られたのか。確かなことは不明だ。資料がほとんど残っていないからだ。壕内には、発電施設や病室、電信室もあったとされ、戦争末期には、海軍航空隊の防空壕として使われていたとされる。

軍による大規模地下壕は、松代大本営(長野市)や日吉台地下壕(横浜市)のように、本土空襲の脅威が増してから掘られたものが知られている。だが、赤山地下壕は、1941年の真珠湾攻撃前から工事していた、という地元住民の証言がある。同法人の愛沢伸雄代表(63)は、「気密性が高い任務のため、開戦前から準備されていたのでは」とみる。

館山は軍都だった。東京湾の入り口にあり、館山海軍航空隊のほか、東京湾要塞の砲台、海軍砲術学校なども置かれた。今でも、市内の各所に砲台跡や飛行機の掩体(えんたい)壕などが残り、その名残を伝える。

戦後、赤山地下壕跡は放置され、キノコ栽培に使われた時期もあった。高校教師だった愛沢さんが、95年の戦後50年にちなんで地域の歴史を学ぶ教材を探す中で価値に気づき、保存を呼びかけ始めた。愛沢さんは壕とは別に、市内にある戦国大名の里見氏が居城とした稲村城跡の保存運動にもかかわってきた。「戦争遺跡も里見の城も、人類が生んだ文化財という意味では同じ。二つを同時に進めたからこそ価値を発信できた」と言う。壕は05年に市の史跡に、城跡は12年に国の史跡に指定された。

現在、市は「館山歴史公園都市」を掲げ、赤山地下壕跡や稲村城跡など市内の歴史遺産をネットワーク化し、観光資源にする取り組みを進める。壕の見学者数は昨年度、過去最高の2万4028人に達した。市の調査では、同市を訪れる観光客の目的はここ数年、かつてメインだった「海水浴」を「文化財見学」が上回り続けている。

「戦争遺跡は、ただ残すだけでは研究者や物好きしか来ない。地域が磨きをかけてこそ意味がある」と愛沢さん。日本中に残る「負の遺産」は、活用の仕方次第で地域の宝に代わる可能性を秘めている。

(清岡央)