【房日寄稿】150904*戦跡シンポ④高橋博夫

戦争遺跡保存全国シンポジウム④

館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ

高橋博夫=元館山市教育長=

(房日新聞寄稿2015.9.4付)
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関東大震災の3年後、隆起した海を埋め立てて館山海軍航空隊(以下「館空」)の建設工事が始まった。伊豆石を積み上げ、赤山の南側を削った土砂を使って埋め立てた。足りない土砂は、本庁舎裏側の段差を削って使った。滑走路の部分は大林組がサンドポンプで浚渫して海の土砂を入れ、コンクリートで固めた。塩分を含む砂のため、東西800mの滑走路いい状態ではなかったが、航空母艦に見立てた離着陸の訓練をしていた。

館空建設のために多くの家が移転を命じられ、「第1次疎開」が始まった。私は昭和2年生まれだが、我が家も4年2月28日に海軍へ売却し、現在地に移転している。西原区は岩盤の水脈が豊富だが、館空は人が多いので宮城の山中にダムが作られ、地下の水路で館空に水を引いた。

地下壕建設が始まると、土砂(ズリ)を捨てるために、館空から東の砂浜を埋め立てて港の岸壁が作られた。この工事に伴いズリを運搬するために「第2次疎開」が行われ、境界線は高いトタン塀で囲まれた。砂利道に軽便鉄道用のレールを敷いた道路が作られ、トロッコで海岸まで運んだ。丸太を付けただけのブレーキ装置で体重をかけて止めていたが、道路は傾斜なので勢いよく曲がると横転して怪我人も出た。そのうち軽機関車で引っ張るようになり、踏切番のおばさんが立つようになった。今も信号脇に当時の踏切台が残っている。台車置場は子どもの頃の遊び場だった。トロッコ作業が始まったのは、ハワイ真珠湾攻撃の前年だったと思う。

地下壕の掘削方法は、最初はツルハシで、次はダイナマイトも使っていった。サイレンや笛で安全を確認してから爆破させていた。ツルハシはすぐ刃こぼれするので、脇の小屋に鍛冶屋がいた。赤山の作業には様々な職業の人が徴用されていて、年配の陸軍の兵士も赤山を掘削する労働者として駐屯していた。西の浜には赤山を掘削している会社の組頭がいた。

大正15年に作られた青山学院水泳合宿所は赤山の前にあったが、日米開戦の前後に退去している。同校の佐藤隆一教諭の調査によると、昭和16年9月に海軍から極秘の命令があり、譲渡と立ち退きが進められたという。地下壕の建設に関係しているのではないか。

戦争が激しくなるとB29の本土空襲が始まり、館空周辺も機銃掃射を受けたため、家屋の間引きも合わせて「第3次疎開」となった。

敗戦を迎え、今度は占領軍が上陸し、宮城から大賀は占領地となり住めなくなった。8月27日に「第4次疎開」が通知され、29日までに退去せよという命令だった。みんな着の身着のままで市内の親戚などへ移り、占領は約5か月続いたと思う。4回とも疎開になった人もいた。木村屋旅館に館山終戦連絡事務所が設置され、館山市民には戸締りと外出禁止の命令が出た。

我が家は館山湾を見晴らせる高台にあるため、連絡事務所の数名が待機し、上陸の様子を見ていた。30日に上陸した先遣隊は、上半身裸で緑色の短パン、腰に拳銃をつけていた。ミズーリ号の降伏調印式の翌9月3日には、館空の水上班滑走台から本隊が上陸してきた。星条旗が掲げられ、我が家の横から西側へは鉄条網が張られ、歩哨の見張り小屋が作られて機関砲がこちら側に向けて設置された。

4日間で軍政は解除となったが、道路は進入禁止のままなので、西岬国民学校で代用教員だった私は神戸経由の遠回りで通った。衛兵は戦闘服だったがフレンドリーな感じだったので、片言の英語で親しくなった。学校長と子どもたちの了解をとり、テキサス出身というその兵士を学校へ連れて行って話をさせた。余り教育を受けていないようで読み書きが苦手だった。また、「日本の生活が知りたい」という士官を我が家に招待した。靴を脱ぎ、畳の部屋で座布団に座る習慣や、床の間や欄間などの日本家屋に興味を示した。彼らからは文化度の高さを感じた。

館山病院の穂坂与明院長や川名正義副院長らは国際人であったので、占領軍との直接交渉や軍医の視察があったらしい。10月頃には院内に米兵による英会話教室が開かれ、私も11月に少しだけ通った。市内には米兵向けのお土産屋も開かれた。先遣隊の時には事件もいろいろ起きたが、占領軍本隊とはこのような交流が育まれ、戦後日本のスタートとなっていった。

 

【房日寄稿連載】戦争遺跡保存全国シンポジウム

①「戦後70年」大会へのお誘い
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

② 米占領軍の館山上陸の新史料発見
:愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)

③ GHQの「三布告」撤回と館山の直接軍政
:佐野達也(「BS歴史館」番組制作者)

④ 館山航空隊と赤山地下壕建設から占領軍上陸へ
:高橋博夫(元館山市教育長)

⑤ 韓国と日本、二つの祖国を生きる
:河正雄(ハ・ジョンウン/韓国光州市立美術館名誉館長)