【読売】150904*「布良沖」生還者の手記発見

戦後70年、「布良沖」生還者の手記発見

沈没「5月29日」と記述、兵科予備学生回想集に収録

練習駆潜特務艇の可能性

(読売新聞千葉版2015.9.4付)‥⇒印刷用PDF

館山市布良沖で終戦の年、潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇が米軍機の攻撃で沈没し、多数の死傷者が出た「布良沖の惨劇」で、分かっていなかった発生日が1945年5月29日だった可能性が出てきた。本誌の戦後70年連載の記事がきっかけとなり、この沈没艇に乗っていて生還した士官の回想手記が見つかった。

(笹川実)

回想手記には、「5月29日、最終の艦務実習のため対潜校の練習駆潜特務艇にて早朝浦賀を出港、相模湾上にて一通りの実習を終了し帰港の途次(略)横浜大空襲の分派になるB25他により房総半島の布良沖に於(おい)て乗艇は撃沈された」などとある。

この手記は、「海軍第2期兵科予備学生の記(第2集)」(東港会刊)に含まれていた。書いたのは海軍第2期兵科予備学生の士官だった男性。「海軍機雷学校出身者の戦歴」と題し、43年の少尉任官から45年12月の福音までの自らの足跡を記していた。

兵科予備学生は一般に、大学などを卒業した志願者で、2期生は飛行科への転科を除き420名だった。日本の統治下であった台湾の東港で基礎訓練を受けた。「東港会」は同期生会。会員向け会誌を発行、第2集は回想集として97年に刊行された。

「布良沖の惨劇」に関する本紙記事は、8月12日の朝刊に掲載された。館山市にあった「民防空富崎監視哨」の哨員として目撃した豊崎栄吉さん(86)(同市布良)の証言や、豊崎さんらの証言を引き出した元中学教師の山口栄彦さん(84)(同市大神宮)を紹介した。記事を見た山口さんの知人が、たまたま手元にあった第2集に惨劇を裏付ける手記を見つけ連絡した。

発生日や船の種類、死傷者数は不明のままとされていたが、手記から5月29日に発生し、船は「練習駆潜特務艇」だった可能性が浮上した。また手記の続きの記述から、乗船していたのは基礎教育後、戦地経験を積んで戻り、専門研修中の中尉や少尉ら若い海軍士官だったことや、少なくとも手記を書いた男性を含め4人の生存者がいたこともわかった。

手記について豊崎さんは「私の記憶とよく似ていて、間違いないと思う」と話し、館山市で6日開催の戦争遺跡保存全国シンポジウムの特別分科会「証言者の集い」で報告する。山口さんは「2期兵科予備学生の悲劇とわかったので、さらに正式記録も探して裏付け、死傷者数など全容を解明したい」と語った。