【産経】150811*米軍上陸‥自宅そばに「占領地」(高橋博夫)
千葉から語り継ぐ戦後70年
米軍上陸‥自宅そばに「占領地」顔合わせるうちに親しく、学校に招待も
元館山市教育長・高橋博夫さん
終戦から間もない昭和20年8月30日正午ごろ。館山湾から上陸してくる米軍の先遣隊の様子を一目見ようと、国民学校の助教だった高橋博夫さん(87)=館山市沼=は自宅のソテツの木の陰から目をこらした。地域の住民には数日前に「米軍が近く上陸する」と知らされており、周囲の家は戸を閉じ息を潜めている。女性や子供を避難させた家もあり、まち全体が静まりかえっていた。
高橋さんの自宅は海岸を見渡せる場所に位置していたため、館山終戦連絡委員会の職員が不測の事態に備えて待機していた。全員が落ち着かない様子で港の方向を見つめていた。
やがて、東京湾上の艦艇から上陸用舟艇数隻が接岸。上陸してきた米兵の先遣部隊十数人が見えたが、その姿にぎょっとした。上半身裸に短パン姿で、腰には拳銃を携えている。
「日本軍だとあんな恰好は考えられない。『すげぇ国だな、野蛮な国なのかな』と職員の人たちと話したのを覚えている。
その後、米軍の兵士らは日本軍の兵士らとともに車に乗って館山海軍航空隊基地方面に向かっていった。
ああ、負けたのか
高橋さんは、旧制中学を卒業し、終戦の4カ月前に教員不足に陥っていた西岬村立東国民学校(現・西岬小学校、館山市)に助教として勤務していた。
しかし、戦局はすでに厳しく、学校近くの畑でイモやカボチャを作ることがほとんどで、ろくに勉強を教えることはなかった。学校の講堂などに陸軍が駐在していて、使える教室は限られていた。「千葉県が米軍が上陸して来るといわれていて、どこの学校も同じような状況だった」という。
8月15日の玉音放送のラジオは学校で聞いたが、音が悪いのと、慣れない言葉だったためよく分からなかった。ただ、学校に駐屯していた部隊長が「戦争に負けました。次の命令が下るまで乱すことなく待つように」と話、「ああ、負けたのか」と理解した。
教え子たちには日本が負けた事実だけ伝えた。「この後どうなるかなんて自分自身が分からなかった」
いつ銃口が向くか
ミズーリ号での降伏文書調印翌日の20年9月3日、再び米軍の別の部隊が館山に上陸した。高橋さんはこのときの様子も見ていたが「前回と違い、整然と隊列を組んでいた」という。上陸した米軍はその日のうちに高橋さんの自宅そばの道路に沿って鉄条網を敷き、機関銃を設置。鉄条網の中は米軍の「占領地」となった。鉄条網は4日間ほどで撤去されたが、高橋さんは「いつ銃口を向けられるかと怖かった」と振り返る。
鉄条網の撤去後も衛兵の詰所は残され、高橋さんは衛兵と毎朝顔を合わせるうちに米兵らと次第に親しくなった。若い兵士を勤務先の学校に招待したり、「日本文化を学びたい」という将校を自宅に招いてもてなしたりしたことも。「米兵は接してみると威圧的な様子はなく親しみやすかった。こっちも負けた悔しさはなく、人間同士のつきあいができた」という。
戦後は地元の小学校などに勤務し、館山市教育長も務めた。教育現場では、欧米の新たな価値観を取り入れながらも、日本人の誇りを大事にする人づくりに力を入れた。一線を退いた現在、日本社会を「自己中心的行動が目立つようになった」とみる。
「終戦から70年が過ぎ、もう一度、家庭や社会を大事にする日本人らしさを見直すことが必要。そうすれば、戦争のない、よりよい社会が築けるはずだ」
(大島悠亮)