【読売】150812*布良沖の惨劇
戦後70年 第2部 苦悩の記憶
⑦布良沖の惨劇(1945年春)
死傷者 地元に記録なし
(読売新聞千葉2015.8.12付)⇒印刷用PDF
その日も朝から天気が良く、館山市布良(めら)の沖合は春の日差しを受けて青く輝いていた。
布良沖には潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇が1隻、爆雷投下訓練の後、一時停泊していた。昼前になり、突然、伊豆半島方面から米軍の爆撃機が1機、低空で接近してきた。爆音と硝煙が上がり、艦艇はあっという間に船尾から沈んだ。
近くの土手で遊んでいた少年たちから「あ—撃沈だ」との声が上がる。その中の一人、青木辰一さん(83)(館山市相浜)は「米軍機は旋回して来て今度は機銃掃射した」と振り返る。攻撃は一方的だったという。住民は救助に出ることもできず、目の前で初めて見る惨劇をただ眺めているしかなかった。
一部始終は、その土手近くにあった民間防空富崎監視哨からも目撃されていた。監視哨は敵機をいち早く見つける施設で、14〜18歳の少年らが詰めていた。
監視哨にいた豊崎栄吉さん(86)(同市布良)は双眼鏡で艦艇が攻撃される様子を目撃し哨長が本部に「布良沖で駆潜艇訓練中」と報告するのを聞いた。哨長の命令を受け富崎漁港に状況視察に出ると、地元の漁船に救助された大勢の将兵たちが運ばれており、「海軍の若い人たちが多かった。血だらけの負傷兵を住民が手当てし、海女さんたちが体で温めていた」と証言する。
多数の将兵が死傷したとされるにもかかわらず、惨劇の記録は地元に残っていない。
艦艇はそこで何をしていたのか。
東京湾の入り口にあたる布良沖は日清、日露戦争の頃から海軍の演習場となっていたが、当時、県上空では既に米軍機が定期的に偵察活動をしており、危険な状態だった。「そんな場所で訓練するのは理解できない」と豊崎さん。艦艇の乗員は、爆雷で浮き上がった魚をボートから回収していたという。
記録がないため、死傷者数、艦艇の名前、訓練目的は不明のままだ。港に行った豊崎さんは「地元の警防団長が負傷者に艦長名を聞いたが、『指揮者死亡』と答えていた」と話す。死傷者は館山海軍砲術学校から来た関係者が運び、地元住民に説明はなかった。
また、惨劇の日時についても、東京大空襲(3月10日)の後から、横浜大空襲(5月29日)あたりまでの間と、特定できていない。
埋もれた戦災の聞き取りを続ける元中学教師の山口栄彦さん(84)(同市大神宮)は「かなりの人が見ているのに日時すらはっきりしない。証言者が出てきたことは全容解明につながる」と期待している。
住民の記憶にのみ残る「布良沖の惨劇」。70年がたち、その過去を知る人も少なくなった。米軍史料を含め、史実を掘り起こす作業は始まったばかりだ。
館山 軍事上の重要拠点
布良沖を含む館山市一帯は帝都・東京の海の入り口という地理的要因から軍事上の重要拠点だった。
東京湾要塞が江戸末期から明治時代に設置され、終戦まで運用された。布良地区には古くは気象観測や海上監視を担う海軍の施設「布良望楼」が設置され、先の大戦がはじまると敵機を見つける監視哨もできた。近くの山には海軍のレーダー基地が造られ、布良沖は海軍の演習場にもなっていた。
米軍も布良の陸と海の役割を把握し、偵察や拠点攻撃をしたとみられる。