【読売】150624=民防空監視哨、経験者証言

戦後70年 少年たちの前線館山に

民防空監視哨、経験者証言手記に

(読売新聞千葉2015.6.24付)⇒印刷用PDF


先の大戦で、本土に来襲する米機をいち早く見つける軍の監視哨の補助として「民防空監視哨」があった。機密扱いだったため、実態はよく分かっていないが、首都防衛の玄関口、館山市の「富崎民防空監視哨」の詳細が、動員体験のある豊崎栄吉さん(86)(館山市布良)の証言で明らかになった。親戚で元中学校教師、山口栄彦さん(84)(日本文芸家協会会員)が聞き取って手記にまとめている。(笹川実)

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南房総の民防空監視哨は詳細記録が残っていない。館山市史によると、東部軍司令部・館山防空監視隊本部が北条警察署(現館山署)2階にあり、1941年(昭和16年)下部組織が市内の富崎を始め、館山、洲崎(西岬)各地域など安房地方の数十か所に置かれた。

豊崎さんによると、富崎監視哨は当初、館山市布良と旧白浜町の境に設置された。開設数か月後には、軍の電波探知機陣地構築のため、旧富崎小の敷地内に移転した。豊崎さんは移転後の44年6月に入哨。富崎村青年学校2年生、16歳だった。

哨長と副哨長の4人は軍経験の大人。青年学校から動員された14〜18歳の18人が哨員となり、3班に分かれて1日交代で哨に入った。班内で2人ずつのペアを3組作り、立哨、連絡、炊事などを交代でこなした。

通信連絡や炊事・待機用の30平方メートルほどの小屋1棟があり、太平洋が一望できる建物前に固定式の対空双眼鏡が2台。その脇に直径穴があった。これは雨や曇りの爆音で機種を識別するための「聴音壕」。豊崎さんは「飛行高度や機体の色、爆音で、機種を識別する訓練を徹底的に受けた。しかし、壕で識別できたことは一度もなかった」と語る。

青年学校は勤労青少年の夜間学校だった。監視哨が非番の時は漁師などとして働き、夜に勉強した。44年秋、1万メートル上空を飛ぶ米機B29を哨員が発見、空襲警報につなげ表彰された。

豊崎さんは、45年春の潜水艦攻撃船「駆潜艇」の惨劇が忘れられない。監視哨の前方で米機B24の攻撃を受けて撃沈。米機が去るまで住民らは助け舟を出せず、大勢の兵士が死んだ。後日、平砂浦上空で米機P51が被弾し、墜落。操縦士がパラシュートで脱出、着水すると米軍の潜水艦が浮上し救助した。いずれも双眼鏡で目撃した。目の前の海は既に米軍が掌握していた。

豊崎さんに詳細証言を勧めた山口さんは、監視哨は少年たちの“前線”だったと考えている。「民間の青少年が動員され、史料がほとんどない監視哨の記録を残した」と聞き取りを続けている。