【東京】140813*千葉から語り継ぐ戦争①〜白浜の艦砲射撃
千葉から語り継ぐ戦争①
白浜の艦砲射撃〜爆音轟く240発23人死傷
(東京新聞千葉房総版2014.8.13付)
爆音轟く240発 23人死傷
米軍、レーダー基地狙い
安倍政権が自衛隊の海外での武力行使を可能とする集団的自衛権の行使を認め、憲法の平和主義が根底から揺らぐ中、終戦の日は69回目を迎える。二度とあんな悲惨な体験はしてほしくない—。次世代に強く訴えかける県内の語り部を訪ね歩いた。
壕で家族助かる
「ヒューン」「バーン」。深夜の房総半島南端に爆音が轟いた。南房総市白濱町の飯田敏夫さん(81)は当時12歳。「家の空き地に掘っていた防空壕に両親と子供6人全員が逃げ込んだ。爆音に続いて土がさく裂してザーッと壕の天井に降り注ぐ。崩れないように下から両手で押さえていたことが忘れられない」
1時間ほどたち、恐る恐る外へはい出ると、周りは直径2〜3メートルはあろうかとう穴だらけ。「家族にけが人はなかったが、すぐに山の方向に走り、穴を掘って入り込んだ」
1945年(昭和20)年7月18日。米軍は午後11時52分、野島崎沖から白浜城山(じょうやま)レーダー基地に向けて艦砲射撃を開始した。巡洋艦4隻と駆逐艦9隻の布陣で砲弾240発を撃ち込んだ。飯田さんが「長く感じた」という攻撃時間は、たった5分間だった。基地は破壊されなかったが、現在の白浜町白浜付近に37発が着弾。6人が死亡。17人が負傷した。
艦砲射撃の後、白浜には米軍が上陸するとの噂(うわさ)が流れたという。「どの家にも竹槍(やり)があり、これで撃退しろと言われた」。町にある戦没者や戦災死没者らの碑を前に、飯田さんは振り返った。
今も生々しい痕
同町の星野幸枝さん(73)宅は艦砲射撃をいまに伝える。築約120年の旧宅で、亡夫の実家。居間の天井の梁(はり)には砲弾の破片が刺さってできた傷が残る。6センチほどの大きさの破片も保管している。
星野さんが夫から聞いた話では、攻撃の夜、家の近くに着弾し、居間の隣の二間はあっという間に吹き飛んだ。居間にいた夫の家族は奇跡的に助かったが、東京から疎開し二間で寝起きしていた親類夫婦が犠牲となった。6人の死者のうちの2人だ。
「戦後家は改修したけれど、梁や柱は頑丈なのでそのまま。建て替える予定はない。傷は残していく。戦争は二度と起きてほしくないから」と語る。
情報を隠す場所
終戦間近の白浜艦砲射撃。日本側に詳しい記録はいまのところ見当たらない。元高校教師で、NPO法人安房文化遺産フォーラム(館山市)代表の愛沢伸雄さん(63)は、戦後50年(95年)の活動で調査していたころ、国立国会図書館保管の米側資料の中に見つけた。「米国戦略爆撃調査団」が戦後の現地調査として、米攻撃の内容や日本側の被害などが書かれていた。
愛沢さんは「国民を動揺させまいと軍や政府が詳細を知らせなかったことで結局、戦後も広く知られることはなかった。本土決戦に向けて房総は一触即発だったのではないか。射撃は終戦に向かう要因の一つになった可能性はある」とみている。
◆取材後記
「バーン」。空襲や爆撃を経験した人が爆音を口頭で表現するとき、その迫力に驚かされる。突然、生死の境に追い込まれた極限の状況が語る人を通して聞く者に迫ってくるからであろう。
来年は戦後70年。戦争や戦災を直接経験した世代の高齢化が進む中、県内でも知る人が多いとはいえない白浜艦砲射撃の生々しい証言や砲弾破片の傷などに接することができたのは貴重なことだった。
(北浜修)