【東京新聞】141211*千葉から語り継ぐ戦争(秘密保護法)
千葉から語り継ぐ戦争〜秘密保護法施行深まる懸念
「見るな、話すな」戦後も国民縛る…軍機保護法と重ね合わせ
特定秘密保護法が十日、施行された。「戦時中と同様に、また国民を縛ることになりはしないか」。房総半島の戦跡の保存、研究に取り組む館山市のNPO法人「安房文化遺産フォーラム」代表、愛沢伸雄さん(63)は戦争の「語り部」として、国民の知る権利を侵す恐れのある法律に懸念を隠せない。(北浜修)
JR館山駅から館山湾沿いを西へ約二・五キロ、海上自衛隊館山航空基地に近い高台に、市指定史跡「館山海軍航空隊 赤山(あかやま)地下壕(ごう)跡」がある。海軍航空隊は、現在の海自基地の場所にあった。壕は合計の長さが約一・六キロ(公開部分は約二百五十メートル)と全国的にも大きなもので、市を代表する戦争遺跡だ。
内部の高さや幅は一定ではない。高さが三〜四メートルほどの所もあれば、一般の成人男性がかがまないと歩けないほどの部分もある。
ひんやりとした壕の中で、愛沢さんが見学者らに発電設備の跡を示したり、少ない証言などから、航空隊の事務施設や電信設備などがあったとみられることを話していた。同フォーラムはここ十年、希望者らのガイドを引き受けている。
しかし、壕がいつ、何のためにつくられたのかは、資料がほとんどないためにはっきりしない。
市のホームページなどでは、大きな地下壕が日米開戦の一九四一(昭和十六)年以前につくられた例はなく、軍部が本格的につくり始めたのは四二年以降であるとして、空襲が激しくなった戦争末期、航空隊の防空壕として使われていたとの見方が示されている。
愛沢さんの見解は異なる。
館山は東京湾の入り口に位置し、首都防衛の要所だった。三〇(昭和五)年に実戦部隊の館山海軍航空隊が開設。四三(同十八)年には隣接地に、整備部門の航空隊として洲ノ埼海軍航空隊が置かれるなど、海軍の一大拠点だった。
壕は、館山海軍航空隊の艦船や艦載機をコントロールする通信基地で、司令部や戦闘指揮所、病室、兵器貯蔵施設などを併せ持つ「要塞」だったとみている。
「日米関係が悪化していく中、対米開戦の前、三〇年代にはつくられたのではないか。戦争末期に単なる防空壕としてつくられたとは考えにくい」
さらに重要な点として戦前、軍事機密を保護する目的で施行された軍機保護法に着目する。
「資料はないが、地下壕が軍機保護法の対象であろうことは十分考えられる。当然いつ、何の目的でつくられたか、市民には知らされなかっただろう」。市民が空襲で赤山の壕に逃げ込んだという証言を得たことはあるが、周辺には多くの壕があり、場所は特定できなかったという。
愛沢さんは軍機保護法と秘密保護法を重ね合わせる。「地下壕について知っていても何も言わずに亡くなった方は多いと思う。戦前の『見るな、話すな』という社会のシステムは戦後になっても国民を縛り続けた。同じことを繰り返すことになるのでは」
歴史研究への影響も懸念する。「証言は一つ一つ検証する必要はあるが、まず誰かが証言しなければ歴史研究は始まらない。『何が秘密であるかも秘密』という社会でよいのだろうか」。そう語る表情は最後まで厳しかった。
軍事機密を漏らした軍人や民間人を処罰する法律。明治時代につくられた。日中戦争の始まった1937(昭和12)年の法改正で内容が強化され、陸相や海相が指定した機密が全て対象になった。情報収集、漏えいなどにとどまらず、軍事施設の撮影やスケッチなども制限。民間人にも適用された。終戦直後に廃止。