【房日講演抄録】100128*天野努「考古資料からみた安房神社成立の基層」覚書

【講演抄録】「考古資料からみた安房神社成立の基層」覚書

古くから人の住んだ場所、海人集団首長の崇拝地か

安房歴史文化研究会会長 天野努

(房日2010.1.28)

安房神社の成立のもとはどういうことだったのかを考古資料から考えていく。

文献資料では忌部広成が書いたといわれる「古語拾遺」と、天皇の食膳を担当していた高橋氏による「高橋氏文」の2つの氏族伝承がある。今までは「古語拾遺」が多く語られていたが、最近の文献史学では新しい史料が発掘され、「高橋氏文」は史実を反映しているものだとされるようになった。

「高橋氏文」では▽安房のカツオと貝がセットで天皇の食膳に提供されていること▽高橋氏の祖先が天皇から「大伴部(おおともべ)」と呼ばれる部民を賜ったこと▽安房大神(あわのおおかみ)を御食都神(みつけかみ)として大膳職の祭神としていたこと—などが書かれている。

これまでの記述を証明するものはなかったが、731年の「類聚三代格」という文書の中に、「安房地方で安房大神を祀っていた女性たちが上京して宮中の御食都神を祀ることを命令されていた」ことを示す内容が見つかった。当時は安房神社は、安房大神と言われていたようだ。

これを考古学の資料からみるとどうなるか。

安房の漁村型集落遺跡の沢辺遺跡(南房総市白浜町)では、7世紀ごろの疑餌針が出ている。カツオの骨とウロコもたくさん出てきた。カツオ漁が行われていたのは確かで、「高橋氏文」の内容と符合している。

出土した貝はサザエが多いのだが、アワビオコシの道具も出ている。

平城京跡などから出土した木簡には、安房の「大伴部」がアワビを献上したことが記されている。出土木簡に書かれている「大伴部」姓は安房の人以外にはなく、このことからも「高橋氏文」の内容は史実だと考えられる。

一昨年、昨年と千葉大学の考古学研究室が、安房神社の境内にある安房神社洞窟を再調査した。洞窟のある場所は、6000年前の縄文海進で海が一番高くなった「沼1面」にあたる。出てきた一番古い土器は縄文前期。縄文海進が終わって陸化し、その段階で洞窟になっていたところに人が住み始めている。

安房神社の境内でも以前、縄文時代の土器が採取されたという。安房神社のある所に古くから人が住んでいた場所だ。

境内から出土して、安房神社が今も所蔵している高坏、5世紀のもので市の文化財に指定されているが、これが館山市沼の大寺山洞穴遺跡から出たものとまったく同じ特徴を持つ。安房神社のものは祭祀に使われたと考えられている。

大寺山の高坏は舟形木簡の副葬品だった。時代は同じ。形がまったく同じ高坏は、この2ヶ所以外では出ていない。大寺山では他に鉄の兜、短い鎧が出ている。これも5世紀のもの。短い鎧は房総では珍しいが、ふつうは古墳から出てくる。それが海岸近くの洞窟から出てきた。この遺跡に葬られた人々は、安房の海人集団の首長だと考えられる。

房総半島の中で、祭祀遺跡は(古代の)安房郡=注:現在の館山市、旧白浜町を主とする地域=に集中する。白浜の小滝涼源寺遺跡は4世紀後半からの遺跡だが、石製模造品と言われている剣や鏡が伴っている。祭祀が早い段階で行われていた。房総にはヤマトタケルの伝承もあるが、大和朝廷の東北支配にかかわる遺跡ではないかと考えられている。

5世紀の遺跡になると、土器を使った祭祀品が出てくる。

安房の地域には古代からの漁労民の集落があり、祭祀遺跡や洞穴遺跡がある。特に大寺山遺跡と安房神社境内に同様の出土品がある。安房神社のある場所というのは海人の首長に崇拝される、地域の人にあがめられる、そういう場所だったのではないか。

神社が形を持ってくるのは、天武天皇の時代の7世紀後半から。安房は5世紀ぐらいに大和朝廷の支配下に入っていく。当時の漁労種族、房総半島を回るときの水先案内人のような人々がいて、その中心的崇拝地が安房大神、それが安房神社になったのではと考えられる。

(本稿は平成22年1月23日に館山市コミュニティセンターで行われた同研究会公開講座の内容を要約・再構成したものです)