【毎日】110629=「海の幸」モチーフに新説〜房総の神輿が源泉か

「海の幸」モチーフに新設

房総の神輿が源泉か

青木繁没後100年 京都・東京などで巡回展

(毎日新聞2011.6.29)‥⇒印刷用PDF

貧困と病苦の末に夭折(ようせつ)した洋画家、青木繁(1882〜1911)。その代表作「海の幸」(国重要文化財)が、京都国立近代美術館(京都市左京区)で開催中の「没後100青木繁展 よみがえる神話と芸術」(7月10日まで)に出品されている。未完成ともされ、謎が多い本作には、イメージソースを巡ってさまざまな説がある。没後100年を迎えた今年、ブリヂストン美術館学芸員の貝塚健さんが房総の祭りに注目し、新たな説を提唱した。 【手塚さや香】

3匹のサメをかつぎ、砂浜を2列になって歩く男たち。横長の画面は、原始的なエネルギーを発散する。この絵の成り立ちを巡っては青木繁の死後、多くの研究がなされ、背景がわかってきた。

1904年の7月中旬から8月末まで、当時22歳の青木らは写生のために千葉県館山市の布良(めら)に滞在、その地で「海の幸」を描いたことが判明している。同行したのは同郷の画家、坂本繁二郎、青木の恋人の福田たね、森田恒友。青木はこの旅について友人の梅野満雄にあてた手紙に「……こゝは万葉にある『女良(注・原文のまま)』だ。すぐ近くに安房(あわ)神社といふがある、官幣大社(かんぺいたいしゃ)で、天豊美命(あまのとみのみこと)をまつつたものだ……」とつづっている。

となると「海の幸」に描かれているのは、青木が布良で目撃した光景なのか。実は後のいくつかの証言から、そうではないことが分かった。証言の一つは、同行した坂本のものだ。制作から60年以上を経て、坂本は自分が青木に語った水揚げの光景が「海の幸」制作のきっかけになっていると明かした。写実を重視した坂本は「あの『海の幸』は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大量陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです」と語っている。他の関係者の証言も、坂本のそれと矛盾しない。

青木は坂本の話だけを源泉に、この絵を描いたのだろうか。これまでに、先行する西洋作品との構図との類似や、当時の広告図案との類似などが指摘されてきた。しかし貝塚さんは、銛(もり)を方にかつぎ長い柄をあずけるようにしてサメを運ぶさまが神輿(みこし)に似ていると指摘する。

注目したのは、青木の書簡にも表れる安房神社だ。「安房神社のもっとも大きな行事である例祭が、『海の幸』の源泉の一つになっているに違いない」。例祭は8月10日に行われており、青木の滞在時期とも一致する。「安房神社や神話に関心を持っていた青木が、この例祭を見に行かなかったとは考えにくい」と貝塚さんは言う。

『海の幸』をよく見ると、男たちの前方から光が当たっていることが分かる。現在の例祭は規模が小さくなっているが、館山市史を調べた貝塚さんは、かつて例祭の中心は相浜(あいはま)のお浜出であり、神輿は夕日に向かって進んでいたことを突き止めた。相浜のすぐ南にある布良から見物に出掛け、南側から神輿の担ぎ手たちを見たとすると、絵と同じに右から左へ二つの隊列は進むのだ。さらに青木が滞在した年の8月10日の館山は、晴天だった可能性が高い。「『海の幸』は祝祭的、とも言われますが、祝祭そのものから影響を受けたものとすれば納得がいきます」

貝塚さんの新説は、青木繁展の図録に収録されている。

「没後100年青木繁展 よみがえる神話と芸術」東京展はブリヂストン美術館(ちゅおうく)で7月17日〜9月4日に開催される。