【読売】250822_館山基地に巨大地下壕

<戦後80年> 戦跡をたどる

館山基地に巨大地下壕

(読売新聞 千葉版 2025.8.22.付)

房総半島南端に位置する館山市は、帝都東京を防衛する要として早くから軍事施設が整備された。戦闘機を攻撃から守るための 掩体壕 や特攻艇「 震洋 」の基地跡など、戦争遺跡は47か所に上る。

中でも、赤山地下壕跡は総延長が1.6キロと非常に規模が大きい。海上自衛隊館山航空基地の南東側の裏山、標高60メートルほどの丘陵にある。壕内の無数のツルハシの跡は丁寧な工事を物語っていて、全国に残る他の大規模な壕のように、空襲の脅威が増す中、拙速に造った感じは受けない。

海自館山航空基地の敷地にはかつて、館山海軍航空隊基地(館空)があった。1923年の関東大震災で隆起し、浅瀬になった館山湾の一部を埋め立てて30年に設置された。海に突き出た基地は短い滑走路を備え、「陸の空母」と呼ばれた。空母艦載機のパイロット養成などにも使われた。

赤山地下壕のある丘陵はその昔、砂や泥などが堆積してできた砂岩や泥岩の海底が隆起してできた。壕は網の目のように張り巡らされた複雑な構造で、館空と隣り合うように建設された。内部には鮮やかな地層が浮き出ていた、バウムクーヘンの模様を思わせる。

壕が戦後長らく放置され、キノコ栽培に使われた時期もあった。だが、高校教師だった愛沢伸雄さん(73)が戦後50年を機に戦争遺跡を調べる中で、その価値に気づき、保存を呼びかけた。市は内部を整備し、2004年から壕の一部約250メートルを一般公開している。05年には壕全体を市の史跡に指定した。

開戦前に着工 機密部隊拠点か

旧日本軍による大規模な地下壕は、松代大本営(長野市)などのように本土空襲の脅威が増してから建設されたものが知られている。

一方、赤山地下壕は、近くに住む100歳近くになる住民の話などから、太平洋戦争が開戦した1941年の真珠湾攻撃前には着工していたことがわかっている。

壕は上部に3、4階部分がある多重構造で、まさに「地下要塞」の様相だ。入り口近くには4気筒ディーゼルエンジンを設置した「自力発電所跡」と変電所電気員の待機場所とされるくぼみがあり、奥には尉官、佐官クラスの部屋と思われる空間があり、天皇の写真「御真影」を安置した奉安殿も確認できた。頂上へ抜ける巨大な円筒形の燃料庫縦坑跡も2本残る。館空に通じる可能性のあるトンネルは石材で封鎖されていた。

防衛庁防衛研究所に残されている「館山航空基地次期戦備計画位置図」には、壕の位置に「工作科格納庫」「自力発電所」「応急治療所」などの記載を確認することができる。

戦後まもなく、館山に上陸した米占領軍のカニンガム准将のリポートには、「完全な地下の海軍航空隊基地で発見された。ここには完全な信号、電源、他の様々な装備が含まれていた」と記されている。

愛沢さんは調査・研究を進め、赤山地下壕には館空で行われていた「軍極秘の航空機開発・実験に関わる長距離無線通信など、気密性の高い部隊が置かれていた」と推定している。

愛沢さんは仲間とNPO法人「安房文化遺産フォーラム」を組織し、会員による壕のガイドを毎月第一日曜日に行っている。壕を訪れた人の総計は、この夏に42万人を超えた。

フォーラム共同代表の池田恵美子さん(64)は「赤山地下壕を考えるには、当時の航空戦略の全体像と館空の役割をおさえる必要がある」と指摘している。

(当間敏雄)