【東京新聞】250425 市部瀬の惨劇
<2025年 戦後80年>
市部瀬の惨劇 もう二度と
動けぬ列車に機銃掃射…阿鼻叫喚
市民ら 記憶つなぐ活動
1945年5月8日午前11時50分ごろ、多くの民間人を乗せて旧勝山町の下佐久間(現在の千葉県鋸南町)を走行中の7両編成列車が米軍戦闘機に機銃掃射され、13人が死亡、46人が重軽傷を負った。地域の名から「市部瀬(いちぶせ)の惨劇」と呼ぶ。「『二度と再び、戦争をしたり戦争に加担したりしてはならない』と伝えたい」と語り継ぐ市民グループは80年の節目となる今年も、その日に献花式を開く。(山本哲正)
「5月8日、P51二機編隊の敵機の空襲を受け、偶々(たまたま)町内を通過中の下り列車の機関部にその銃弾が命中、運行不能の列車は反復攻撃を受け-」。当時の町助役川崎正(ただし)さん(1903~84年)の回顧録に、こう書かれている。
川崎さんは、犠牲者の遺体を町内の神社に収容する際、当初は神官に「血相を変えて激怒された」エピソードにも触れた。統治を神聖化する「国家神教(国家神道)の当時としては無理ない」と、当時の世相を生々しく書き残していた。
語り継ぐ活動をしているのは、市民グループ「明日(あす)の鋸南町を考える会」。町議選をきっかけに2000年に30人でスタートし、川崎さんの話を知って証言を集めてきた。
被害を受けた列車の車掌だった鈴木角治さんの証言によると、機銃掃射される前、列車は空襲警報の鳴る中で安房勝山駅を出発した。鈴木さんの記憶する駅長と機関士の会話からすると、「岩井-勝山間の切割(切り通し)に逃げ込めば守られる」との判断だったらしい。
米軍機の「反復攻撃」について、傷痍(しょうい)軍人として療養中に乗り合わせた渡辺開夫さんは「大黒山の上あたりからこちらに機銃掃射して。見れば全部3両目4両目、真ん中です」「全部、列車の中央に集中して、それこそ中は阿鼻(あび)叫喚ではなかったかと思う」と証言した。
同会は10年、JR内房線線路脇の現場で献花式を始め、翌11年には同所に高さ1・6メートルで黒御影石製の「恒久平和祈念の碑」を建てた。会員の渡辺謙一さん(74)は、現地の草刈りなどをしている。
昨年は子どもたちにも分かりやすく伝えられるよう紙芝居「市部瀬の惨劇」(縦40センチ、横60センチ、15枚)も作った。
発足当時副会長だった元教員の山野井孝子さん(98)は、戦後80年となる社会で戦争そのものに対する記憶が薄れゆくことを、心配する。「ロシアのウクライナ侵攻などを理由に、軍備増強を求める声も勢いを増している。戦争となったら相手国など遠い場所だけではなく、自分たちの暮らす場所や命が大変なことになると、市部瀬の惨劇を知ることで考えてほしい」
現会長の岡村妙子さん(74)も「戦後80年の節目で先の戦争が話題になると思うが、一過性で終わらないでほしい」と願う。
◆来月8日、鋸南町で献花式 13日から資料展示
献花式は5月8日11時から、鋸南町下佐久間市部瀬の恒久平和祈念の碑前で。碑に揮毫(きごう)した地元の高島超子(ちょうこ)さん(故人)のめいで八王子音楽院(東京都八王子市)院長の広瀬美紀子さんによるピアノコンサートも同日午後2時から、道の駅保田小学校(鋸南町保田)2階音楽室で開かれる。
5月13~18日午前10時~午後3時、道の駅保田小学校まちのギャラリーで惨劇の資料を展示。13、14、17、18日は午後1時半から紙芝居、同2時から戦争経験者の手記の朗読もある。
いずれも入場無料。問い合わせは、明日の鋸南町を考える会の岡村妙子会長=電080(5049)1485=か、山野井孝子さん=電0470(55)2227=へ。