【東京】250213_保里ます 波乱の生

保里ます 波乱の生
明治期、20歳で渡米 日本の酪農に尽力

 あすから故郷・南房総で資料展示

(東京新聞 2025.2.13.付)

明治-昭和初期、日米を行き来して酪農発展に力を尽くした女性がいた。大井村(現千葉県南房総市大井)出身の保里(ほり)ます(1868~1948年)は20歳の1888(明治21)年、単身で渡米。米国人と結婚し、帰国後に牧場経営に手腕を発揮する。戦争が近づくきな臭さで1941年に再び米国に渡り、生涯を終えた。「烈女」とも評される波乱の人生に迫る資料展示が14~24日、同市で開かれる。(山本哲正)

大井の県酪農のさとに、明治後期から乳牛飼育を指導したイタリア系米国人ジョセフ・デネレーの写真がある。「大井になぜ米国人が?」。隣接の民間施設「みねおかいきいき館」事務長の芳賀裕(はがゆたか)さん(72)は疑問に思って調べ、妻ますの存在を知った。手紙などの文献から二人の調査研究を続け、今回の展示はその中間発表だ。

◆「お家再興」かけた父

芳賀さんによると、大井には江戸期に幕府直轄の牧場「嶺岡牧(みねおかまき)」があった。開国後、牧場は家畜伝染病が広がるなど苦境にもまれる一方、東京で牛肉や牛乳の消費は拡大した。大井で生まれたますの家族のルーツは、南北朝時代にある。南北朝対立の敗者で安房に流れ着き、農民となった堀川家が明治に改姓したのが保里家。「お家再興」が家伝で、江戸で学び視野を広げた保里昭平(1841~1923年)は、酪農と東京進出に活路を見いだそうとした。
長女ますは1888年5月、客船「シドニー号」で横浜から渡米。同年は、6歳で日本初の女子留学生となった津田梅子が24歳で再渡米する1年前にあたる。当時の新聞は、ます渡米の目的を「裁縫を研究」と書いた。だが芳賀さんは、本当の目的は別にあったとみる。当時、弟の宗次郎は東京・巣鴨で保里牧場を営んでおり、「優良な種牛の調査研究のため」との見方だ。

事実、ますはサンフランシスコに到着すると、サクラメント、カーソンなど酪農が盛んなカリフォルニア州内を移動し、同じく盛んなニューヨーク州なども回った記録が残る。

 1904年にデネレーと結婚。翌年に帰国すると、大井にデネレー牧場を開いた。米国から種雌牛を輸入し、優良な乳牛の普及に努めた。後に東京に進出、保里牧場と合流した。

 牛の買い付けに走る夫妻の姿は、ハワイの日系新聞「日布時事」(08年6月16日)に記述が残る。「白人を夫に持ち米国にて一稼ぎしたる」「親牛子牛十五頭の種牛を連れ本国に赴く」
◆開戦迫る中、再び米に
 しかし、関東大震災(23年)などで牧場は移転を余儀なくされた。デネレーは40年に75歳で死去。日米開戦の空気が強まり、真珠湾攻撃の迫る41年、ますは米国に戻り、デネレーの故郷ミズーリ州で亡くなった。
 夫妻は牛の買い付けでカリフォルニア州を訪れた06年、約3千人が犠牲になったサンフランシスコ地震にも遭遇した。芳賀さんは「ますさんの生涯で、災害と戦争は大きな壁だった。日米関係の悪化は、デネレーと結婚していたますの立場も危うくした」と指摘し、こう強調する。
 「戦争などに翻弄(ほんろう)された生涯から当時を見ることは、偉人伝などで粉飾された明治維新礼賛と異なり、日本の歴史を正確に理解する助けになる」
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「安房女性烈伝 保里ます 明治から日米を舞台に活躍した女性の物語り」は14~24日の正午~午後4時、南房総市岩糸の「ギャラリーMOMO」。解説パネル、ますの肖像画など50点以上の資料を展示する。入場無料。火-木曜休み。22日は午後1時半から調査報告&交流会があり、会場の広さの都合で見学しづらい場合もある。参加費千円。事前申し込みで、希望者が多い場合は23日も開催可能。問い合わせは、芳賀さん=電090(5415)0561=へ。