【訃報】伊東万里子さん
伊東万里子氏(いとう・まりこ=劇団「貝の火」主宰・代表、日本人形劇人協会理事)
10月31日、東京都内の自宅で死去、91歳。
葬儀は近親者で済ませた。納骨は24日午前11時から、館山市上真倉2124の宗真寺で。喪主は劇団貝の火の小澤響氏。喪主は供花、供物、香典などを辞退している。
東京生まれ。館山市に疎開する。NHK「チロリン村とくるみの木」「プリンプリン物語」などで、人形操演者として出演。人形劇の第一人者として各種作品を演じた。
若いころ過ごした南房総市富浦地区を「第二のふるさと」として、昭和63年に稽古場(スタジオ)を開設。人形劇フェスティバルなどで、地元と深く関わった。創作「竜子姫物語」「南総里見八犬伝」などが代表作。
【追悼メッセージ】
伊東万里子さん、安らかに。
~平和と安房高女への想いを胸に~
NPO法人安房文化遺産フォーラム
代表 愛沢伸雄
人形劇団「貝の火」を主宰する伊東万里子さんが、10月31日に91歳で亡くなられました。その10日前に私がお会いしたときはお元気でしたので、天寿を全うされたのだと思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
振り返れば、1996年の「里見氏稲村城跡を保存する会」発足時からのご縁になります。NHK『新八犬伝』で人形操演されていた伊東さんは、『南総里見八犬伝』の舞台でもある稲村城跡が市道計画で破壊寸前となったときに、いち早く立ち上がってくださいました。17年の保存運動を経て国指定史跡が叶ったときには、万感の思いを分かち合いました。
平行していた戦争遺跡の調査と保存運動も実り、赤山地下壕跡が公開されて市指定史跡となりました。これらを母体にNPO法人を立ち上げた際にすぐ会員となってくださり、彼女が戦災遺児であったと知りました。ちょうどその頃、せんぼんよしこ監督が館山の戦争について知りたいと尋ねて来られ、私の話をもとに戦後60年の平和祈念映画『赤い鯨と白い蛇』を製作されました。
お二人は安房高等女学校の同窓生でもあり、私が南総文化ホールで上映会を企画したとき、伊東さんは実行委員長を務めてくださいました。そのときの紹介文を再掲します。
<昭和20年3月、私は東京大空襲で母と3人の弟たちを亡くし、父の故郷・館山に疎開しました。東京の女学校から旧制安房高等女学校に転校し、安房第二高等学校(現在の安房南高校)を卒業するまでの6年間、戦禍に傷ついた私を温かく励ましてくれたのは、館山の自然と諸先生や多くの友人でした。あれから62年たった今もなお、母なる館山・安房の地は私の心の支えです。
そんな私の想いを代弁するかのように、学校の先輩であるせんぼんよしこさんが、館山を舞台に素晴らしい映画をお創りになりました。「赤い鯨」は軍都だった館山の沖で訓練していた特殊潜航艇を意味し、「白い蛇」は家の守り神を象徴しています。せんぼんさんや私同様、主人公の香川京子さんが少女時代に疎開した館山を訪ねるという設定です。世代の異なる5人の女性とラストシーンの赤ちゃんが織り成す物語は、まるで絵巻のように見えました。すべての世代に通じるメッセージは、せんぼんさんでなければ描けない、しかも美しい館山だからこそ描けた作品です。せんぼんさんが熱い想いをふるさと館山に贈ってくださった宝ものに思えて、とても感動しました。
女学生時代、私たちは戦争について本当のことを知らされていませんでした。安房で本土決戦が想定され軍備強化されていたことや、「ひめゆり部隊」のような役割を担わされていたかもしれなかったことなど、最近になって知りました。封印されていた過去の出来事をきちんと見つめ直し、未来の子どもたちに何を手渡さなければならないか、それを問うのがこの映画の主題です。
しかも由緒ある安房南高校が創立百年を迎え、さらに統廃合によってその名が消えゆく最後の年に誕生した記念碑的作品です。「誠の徳を磨けよ」と建てられた母校で学んだ卒業生によって、このような映画が創られたことを心から誇りに思います。すべての世代の人にぜひ見てほしい映画です。そして、受けた感動の中身をじっくりと考えてみませんか。それが、戦争を起こさない世界を子孫に贈るための大切な一歩であると信じます。〉
同校で10年間世界史教員を務めた私は、お二人の心を受け継ぐように、戦時下の安房の女子教育について今も調査を続けています。奇しくも最近、伊東万里子さんの転校に関する書類を発見しました。
国民学校の学童疎開中に大空襲が起き、お父さんの故郷である館山に来たものの、すでに安房高女の入試と手続きは終わっていたそうです。罹災前に都立深川高等女学校の入学が決まっていたため、お父さんは急いで上京し、焼け野原のなかを奔走して、本所区役所で罹災証明を、深川高女から転学申請を発行してもらい、晴れて安房高女生になれたといいます。今回、私が見つけたのはそれを証明する6枚の書類でした。
そこで過日お会いし、その写をお見せしたところ、「お父さんが生き返ったような気がする」と、喜んでいただきました。本当によい供養になったと、改めて安堵しています。
その資料と寄宿舎「芳誼寮」の記念撮影をパネルにして、安房南高校木造校舎の公開時に紹介しました。亡くなったことを聞いたのは、まさにその日でした。なんという巡り合わせでしょうか。
東京大空襲で被災し、安房高女へ転校した女生徒は、現在18人確認できています。病気療養中の私は思うように活動できませんが、命ある限り、地道な調査研究で一隅を照らしながら、お世話になった安房の地域社会へもう少しご恩返しができれば幸いと思っています。 合掌。