【東京】230824_赤山地下壕 太平洋戦争前に建設か
赤山地下壕 太平洋戦争前に建設か
館山のNPO研究
市の解説と食い違い
高度な工法 考えにくい突貫工事
千葉県館山市指定史跡の赤山地下壕(同市宮城)が建設された時期について、「日米開戦の1941(昭和16)年より前の30年代に始まった」とするNPO法人安房文化遺産フォーラムの研究が進んでいる。「開戦後」とする市の立場と食い違っており、壕の入り口に掲げられた市の解説文に、関係者が疑義を唱え始めている。(山本哲正)
旧館山海軍航空隊(現海上自衛隊館山航空基地)に近い標高60メートルの小高い山。通称「赤山」と呼ばれるこの岩山の中に、総延長約2キロの地下壕が残っている。資料はほとんどなく、市による解説看板には「大きな地下壕が太平洋戦争の前につくられた例はないといわれる」「つくりから見て四四年より後ではないかと考えられている」と書かれている。
記者はヘルメットをかぶり、フォーラム共同代表の池田恵美子さん(62)と入壕した。壕内の一部には、当時日本で見られなかった高度な工法でコンクリートを吹き付けてあるという。池田さんは「岩盤とコンクリートの膨張率は異なり、間に空気層を持たせ剝落を防いだ。差し迫った時にわざわざやることでしょうか」と「定説」に疑問を呈した。
隆起して美しい地層の壁面に、つるはしによる掘り跡が鮮やかに残る。「均等な力加減で非常に丁寧。勤労動員や強制連行された素人ではなく専門部隊によって掘られたと考えられる」と池田さん。ほかにも床に水路の溝跡など、戦争末期の突貫工事とは考えにくい痕跡が幾つも残るという。
池田さんは、43年ごろ作成とみられる「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」を基にした図面を広げた。位置図では治療所なども壕内にあったと分かる。
隆起して美しい地層の壁面に、つるはしによる掘り跡が鮮やかに残る。「均等な力加減で非常に丁寧。勤労動員や強制連行された素人ではなく専門部隊によって掘られたと考えられる」と池田さん。ほかにも床に水路の溝跡など、戦争末期の突貫工事とは考えにくい痕跡が幾つも残るという。
池田さんは、43年ごろ作成とみられる「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」を基にした図面を広げた。位置図では治療所なども壕内にあったと分かる。
同NPO法人共同代表の愛沢伸雄さん(71)によると、地下壕のすぐ隣にある館山海軍航空隊は、関東大震災(23年)で隆起して干潟になった館山湾を埋め立てて30年に開隊。「航空本部技術部長時代に山本五十六が精力を注いだ航空機開発、実験がきっかけになって、長距離通信機の設置や開発機の格納を含め、赤山に地下要塞的な機能を持たせたのではないか」と愛沢さん。航空隊のサイズが、ハワイ真珠湾内のフォード島とほぼ同じことに着目し、「パイロットは山と山の間を低空飛行して館山湾に進入するルートで訓練し、真珠湾攻撃に向かったのではないか」と推測する。
赤山近くで生まれ育った元市教育長の高橋博夫さん(96)も「地下壕建設のトロッコ作業は開戦前から行われていた」と証言する。
愛沢さんは、占領軍本隊を率いたジュリアン・W・カニンガム司令官による報告書を米国から取り寄せ、研究を続けている。報告書の45年9月5日のページには地下壕についてこう書かれているという。
「完全な地下の海軍航空司令所が館山海軍航空基地で発見された。ここには完全な信号、電源、他のさまざまな装備が含まれていた」
地下壕と基地を一体的に捉えていることに、愛沢さんは「赤山を当時見た米軍人の認識であり、注目すべき内容だ。地下壕は単なる防空壕ではなく、館山海軍航空隊を補強する地下施設ではないかと示唆している。史跡解説の修正は急務だ」と語った。