【房日寄稿】230204「稲村の城跡 断章」島田輝弥
里見氏の居城、稲村城跡が岡本城跡とともに国の史跡に指定され、10年となった。稲村城跡は簡単に指定されたわけではない。6000日に及ぶ粘り強い市民運動と、それを支え続けた多くの人たちの力が結実されたものである。
市民運動で史跡の破壊を食い止め、国の史跡になるという全国的にも珍しいことが起こったのである。この指定10年の節目に合わせるかのように、里見史研究の泰斗、滝川恒昭先生が「関東無双の大将」と呼ばれ活躍した里見義堯の人物像を克明に描いた労作『里見義堯』を上梓(じょうし)された。あとがきには次のように記されている。
「平成24年1月24日官報で稲村城跡は岡本城跡と共に国指定史跡として告示された。千葉県内の城郭跡としては千葉氏本城本佐倉城跡に次ぐ2例目の国指定史跡となり、ここに保存会を結成した愛沢伸雄氏を中心に、平成8年から足かけ17年の長きにわたって粘り強く続けられてきた稲村城跡保存運動は、当初目標とした遺跡の破壊を防ぐことだけにとどまらず、永久に保存と活用の道が開かれた国指定史跡となって結実したのであった」
運動の始まりは安房南高校の2人の教師の行動だった。いま房日俳壇の選者として活躍されている石崎和夫氏によれば、「稲村城跡が工業団地の道路建設で破壊されようとしている。どうしても守りたいという滝川恒昭さんたち研究者の訴えがあった。
立ち上った愛沢伸雄さんと職員室で机を並べていた私は、愛沢さんの心意気に応え運動を始めた」ということだった。2人の出会いはまさに天の配剤と言えよう。
愛沢氏は1996年4月、150人でつくられた「里見氏稲村城跡を保存する会」の代表に就任。文字通り東奔西走、獅子奮迅の大活躍をした。
この間の氏の働きぶりは保存する会が発行した『里見氏稲村城跡を見つめて』全5冊や千葉城郭研究会編集の『城郭と中世の東国』に詳しく記述されているのでここでは割愛する。
97年1月、地元の方たちの同意を得て21人で城跡に密生した竹刈りが実施された。それまでの主郭部(本丸)は竹が繁茂し、立ち入りが困難な台地だったのだ。
国史跡決定まで定期的に竹と草の刈り取りが行われたが、それ以外に時間をつくって5人の高齢の男性が作業を続けて来られた。おひとりは故人となられたが、4人の方はいま90歳前後になるが、お元気で日々過ごされている。
保存運動では、川名登、佐藤博信、峰岸純夫の各氏ら高名な歴史学者が足しげく館山を訪れ、何度も里見氏について講演された。また在野の研究者も協力を惜しまなかった。滝川氏や遠山成一氏が活動する千葉城郭研究会の方たちは総力を挙げて取り組んでくれた。
保存する会は多くの事業を展開した。講演会、ウオーキング、里見紀行、展示会、わんぱく探検などなど子どもから大人まで参加できる企画を矢継ぎ早に実施し、多くの方たちに城跡保存の大切さを訴えた。
この6000日の間、これらの動きを細大漏らさず報道し続けてくれたのは唯一房日新聞である。国史跡指定に大きな役割を果たしたのは間違いない。ただただ感謝である。
里見氏の歴史を分かりやすく記述した『さとみ物語』の著者として知られる館山市立博物館の岡田晃司氏には、里見氏のみならず日本や地域の歴史などについても多くを教えていただいた。
川崎勝丸氏は保存する会が解散した後つくられた「歩いて学ぶ里見氏の会」にも参与として協力、山歩きのスペシャリストぶりを発揮してくれた。
ところで、保存する会には何人かの女性が参加しており、雑務を全てこなしていた。最後まで残ったのは8人である。この方たちは母として妻として家庭を支え、会をも支え続けたのである。身内ながらあえて記しておきたい。
前出の『里見義堯』の中で、滝川恒昭先氏は稲村城について「稲村城こそ、立地から見ても里見氏が安房国の実質的支配権を握ったことを意味する象徴的な城郭であり、天文2年7月から翌3年4月にかけて起こった、房総里見氏歴史上の大きな転換点といえる天文の内乱の端緒となった場と考えられる。
そして約9カ月にもわたった内乱の最終的な勝者として歴史の表舞台にはじめて登場したのが、里見義堯だったのである。そこからいえば稲村城は、まさに戦国大名里見義堯を世に送り出した城と言ってもいいだろう」と述べている。
今見る稲村城跡は、小高い山としか思えない。しかし、この主郭部は版築と呼ばれる性質の異なる土を交互に重ね固めた高度な技法を用いてつくり上げた台地である。
城郭研究者の柴田龍司氏によれば「県外も含めて中世城館跡で、版築技法を伴う郭面の造成はいまのところ類例は知られていない。稲村城が占地する丘陵はやせ尾根で郭面をつくり出すのには適さない地形であったが、強引に土木工事を実施し、郭面をつくり出したのである。里見氏は是が非でも稲村の地に城郭を築かなければならなかった強い意志を感じさせる」という。
ところで「城跡」と聞くと天守があった跡と考える方が多い。しかし、「城」は「土で成る」と書くように、山を土木工事によって味方には守りやすく、敵からは攻撃しにくい施設につくり変えたものである。稲村城など当時の城には「天守」は存在していなかった。
しかし、城マニアは好んでこれらの山城や平山城を歩き、ここかしこに遺(のこ)る当時の「軍事施設」の跡を見つけるのである。これが実に面白い。時を忘れるほどである。
とりわけ、稲村城跡は天文の内乱(1533~1534)以来、地元稲地区の皆さんの努力によって大切に守られ、500年前の姿がそのまま遺(のこ)っており、「構造も16世紀前葉の姿を現在までとどめている極めて貴重な城跡といえる」(柴田氏)と高く評価されている城跡である。
小生はこれまで一般市民、高校生、大学生、院生、大学教授といった方たちを稲村城跡に案内した。その中で印象に残るのは館野小学校の児童の皆さんである。同校の校歌に「かの城山のしろあとの草木なびかす風の音」という一節がある。
大正7年につくられたというこの歌の城山とは稲村城のことだという。児童の皆さんは小生の説明をよく理解され、「あっ、ここに仕掛けがある」と、戦国時代の施設の跡を見つけながら、山道をはずむような足取りで登っていた。あの日からもう何年もたつ。
快活な少年、少女だった方たちはもう成人され、さまざまな所で活躍されていることと思う。多忙な日々の中でも、かつてガイドと登った稲村の城跡を思い出してくれたらうれしい。
(「里見氏稲村城跡を保存する会」元事務局長)