お知らせ

無言館と梅野記念絵画館ツアーのお知らせ

■春の信州、館山ゆかりの美術館を訪ねる旅

〜無言館と梅野記念絵画館ツアー2日間〜

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戦没画学生慰霊美術館「無言館」には、志なかばで戦場に散った画学生たちが遺した絵画や彫刻などが展示されており、なかには館山海軍砲術学校に所属した若者の遺作品もあります。昨年夏、館山市の南総文化ホールで開かれた無言館主・窪島誠一郎氏の講演会では、心を動かされた来場者より「ぜひ無言館を訪れたい」という声が多数寄せられました。

また、明治の画家・青木繁が滞在した館山市布良の小谷家住宅は、昨年秋に館山市指定文化財となりました。青木繁は親友・梅野満雄に宛てた絵手紙で、布良・相浜・平砂浦… などこの地の素晴らしさを絶賛し、『海の幸』の大作に取り組んでいることを報告しており、その絵手紙は「梅野記念絵画館」に収蔵されています。

今春、館山にゆかりの深い信州の美術館を訪ねる旅を企画しました。

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旅行日 平成22年3月7日(日)〜8日(月) 定員40名

旅行代金 おひとり様25,000円 (2名1室の洋部屋利用)

※1人部屋のご希望は3,500円増しで承ります。美術館入館料を含みます。

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日程 コース 食事

【3/7(日)】

館山発7:00=東京湾アクアライン・海ほたる(休憩)=高坂SA(休憩)=佐久市内(昼食)=梅野記念絵画館(見学)

=信州松代ロイヤルホテル16:00頃着

・食事=朝 × 昼 ○夜 ○

【3/8(月)】

ホテル8:30=無言館・信濃デッサン館(見学)=上田市内(昼食)=上里SA・三芳PA・市原SA(休憩)=館山着18:30頃

・食事=朝 ○ 昼 ○ 夜 ×

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※ツアーの報告はBlog安房国再発見をご参照ください。

【房日】091226*読者コーナー:山口栄彦

(房日新聞:読者のコーナー2009.12.26付)

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館山市の布良・相浜地区の住民は、3年ほど前かに青木繁「海の幸」ゆかりの小谷家と記念碑の保存運動を始め、保存会を結成した。

去る11月18日、房日新聞は1面トップで、地域住民、NPO、それに行政の努力で、小谷家が館山市の文化財に指定されたと報じた。

私は学生時代に青木繁と彼の名作「海の幸」を知り、友人知人や行政に小谷家の保存を訴えた。それだけに新聞の記事を読み、うれしくなって叫びたい心境になった。

ところで、私は保存会の運営委員会に出席するたびに1つの疑問を持った。それは「海の幸」の登場人物の末裔の布良、相浜の漁民がどうして運営委員になってくれないのかと。そこで、布良で1本釣りをしているK丸の船主(76)にその理由を尋ねてみた。

魚を獲って暮らす漁師は、農家の人が田畑で時間をかけて米、野菜をつくるのとは違う。海は日や時間で潮が変わるし、風はいつも同じ方向から吹かない、そんな気象の中で漁師は漁をするのだ。魚が獲れ出した時、会議だからといって漁は休めない。

海について多少知っているつもりだったが、彼の説得力ある答えに疑問は晴れた。と同時に、かつての漁村集落での運動の難しさも知った。

館山市 山口栄彦

【東京】091126*小谷家住宅、文化財に

【東京新聞】2009.11.26付

『海の幸』誕生の家を指定 館山市有形文化財

洋画家・青木繁の滞在先『小谷家住宅』

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館山市布良にある洋画家・青木繁ゆかりの小谷家住宅=小谷栄さん(85)所有=が、市の有形文化財に指定された。市の文化財は六十六件目。

小谷家住宅は、明治画壇の鬼才とうたわれた青木が、一九〇四年に友人らと約二カ月間滞在し、代表作「海の幸」を描いたことで知られる。マグロはえ縄漁で活気づいた漁村を描いたこの絵は、西洋画として日本で最初の重要文化財となった。

小谷家住宅は寄せ棟造りで床面積は九十三平方メートル。小谷さんが「青木が滞在した当時のままの姿で、建物を後世に残したい」と同市教委に申請した。漁業で栄えた布良に残る明治中期の漁家として貴重な存在で、「海の幸」誕生の家として歴史的な価値もあることなどから、今回の指定となった。

同市は今年に入り、「海の幸」の舞台となった布良の浜を望む小高い丘に海の幸記念碑を設置しており、小谷家住宅とともに観光のPRをしていく予定。 (福原康哲)

【読売】091120*小谷家、市文化財へ

【読売新聞】2009.11.20付

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名画「海の幸」舞台

小谷家が館山市文化財に

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明治の洋画家、青木繁(1882〜1911年)が明治37年(1904年)に滞在し、名作「海の幸」を制作した家として知られる館山市布良の小谷家が、市指定の有形文化財に指定された。

小谷家は寄せ棟造り桟瓦葺きで、広さは93平方メートル。漁業で栄えた明治中期の漁家として貴重であり、造りは分棟型民家の系統を引いている。屋根を桟瓦葺き、一部を大壁造りとした防火づくりにし、近代的間取りを取り入れているのが特徴。

小谷家は昨年7月、諮問を受けた市bん家財審議会が今年9月、市の有形文化財に指定するよう答申し、10月27日付で指定された。

建物所有者の小谷栄さん(85)は「地元の人たちやNPOの方たちが何度も足を運んでくれて、相談を重ねながら指定にこぎつけ、感謝している。昔ながらの建物の姿をできるだけ残していきたい」と話している。

また「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」の愛沢伸雄事務局長は「5年がかりでやっと文化財に指定された。地域の誇りとして次世代の子どもたちに夢と希望を与えるような保存と活用を、行政と連携しながら考えていきたい」と語る。

市は今年7月、海の幸の記念碑(1962年建立)のそばに絵画の解説モニュメントを設置した。記念碑は作品の舞台となった阿由戸の浜を望む小高い丘に立っている。今後は小谷家住宅を富崎地区の歴史・文化や観光資源と合わせてPRしていく考えだ。

【房日】091118*小谷家、市有形文化財に指定

館山市教委は、明治画壇の鬼才と謳われた青木繁が滞在して代表作「海の幸」制作にかかわった家として知られる同市布良の小谷家住宅を市の有形文化財に指定した。16日、石井達郎教育長が小谷家を訪れ、所有者で小谷家当主の小谷栄さん(85)に指定書が交付された。

小谷家住宅は、明治22年の大火後に建てられたと考えられ、漁業で栄えた布良に残る明治中期の上層漁家として貴重な存在。桁行6間、梁間が約5間の寄棟造り桟瓦葺で床面積は約93平方㍍。分棟型民家の系統をひき、一部を大壁造りの防火造りとし、伝統的な間取りを脱して近代的間取りの傾向を示している点が特徴的。明治37年夏には、青木繁が画友や恋人の福田たねと写生旅行に訪れ、当時、網元だった小谷家に2か月ほど滞在。青木はこの間、布良の海を題材に多くの作品を描いているが、帰京後に完成させたのが国重要文化財にも指定されている海の幸で、同家は「海の幸誕生の家」として歴史的な価値もある。

こうした経緯から地元でも存続への声が高まり、「青木が滞在した当時のままの姿で、建物を後世に残していきたい」と小谷さんからの申請を受け、文化財審議会の答申を経て、市教委が文化財指定を決定した。

「みなさんと相談を重ねながら指定にこぎつけることができ、たいへん感謝している」と指定書の交付を受けた小谷さん。また、地元有志やNPO、芸術家などで構成する保存する会事務局長の愛沢伸雄さんは「地元や全国の方々の思いが文化財指定につながったと思います。会としても、小谷さんの思いを大切にしながら、地域の誇りとして次世代の子どもたちに夢と希望を与えるような保存と活用を考えていきたい」と話している。

 

房日新聞2009.11.18付

小谷家住宅が館山市指定文化財になりました!

2009年11月16日、石井達郎館山市教育長が小谷家を訪問し、

館山市有慶文化財指定書を小谷栄氏に交付いたしました。

青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会の運営委員も同席し、

念願の文化財指定を喜び合いました。

当会の目的に向かい、大きな一歩です。

これがスタートラインとして、維持保存のために尚一層

ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

嶋田正稔さん*「ふるさとのことなど」

東京駅から、特急「さざなみ」に乗り館山駅で下車、白浜行きのバスに乗り替え30分位で房総半島の最南端、夕日が美しい布良海岸に着く。少し歩いて岬の先端を回ると朝日も眺められる。

目の前に太平洋が広がり、南に大島、南西には伊豆半島、三浦半島が一望できる。特に、冬の晴れた日には、紺碧の海に雪で白く覆われた富士が鮮やかに浮かぶ。その海を望む高台の一角に古びた記念碑が建っている。その碑には『「青木繁 海の幸 ゆかりの地」没後五十年 昭和三十六年十二月 旧友 辻永 記』という文字が刻まれている。

明治洋画壇の鬼才と言われた青木繁が、東京美術学校を卒業したその年の明治37七年夏、恋人福田たね、友人坂本繁二郎らとこの地を訪れている。この時、青木繁22歳、恋人を伴い制作に励んだこの夏の日々は、29年の短い生涯のなかで 最も幸せで充実していた時期であったようだ。

この時この地で生まれた作品が名画《海の幸》である。

現在、その作品は布良の海を描いた数点の絵と共に、彼の郷里である久留米の石橋美術館に展示されている。

実はこれらの作品が制作された場所が私のふるさと、布良である。今は過疎化が進み、私の通った小学校も生徒は全校で10数人となっている。夏の一時期を除けば、訪れる人もない寂れた漁村であるが 明治・大正の頃はマグロ延縄漁の基地として 「伊豆じゃ稲取 房州じゃ布良よ」と唄にも歌われる程栄え、この地を訪れる画家・文人も多かったようである。

現在、館山市富崎地区といわれるこの地の人口は、明治22年で3,300人と記録されているが、最近は恐らく1,000人に満たないであろう。

戦後の昭和20年代当時、小・中学生であった私も四季折々に海を描いている画家をよく見かけた。亡き父が絵が好きだったこともあり、物不足であった戦後の一時期、わが家に逗留する画家も多かった。その一人に吉岡憲がいた。

父がよく将来が楽しみな画家だといっていたのを憶えている。

後年、「絵の中の散歩」須之内徹(新潮文庫)を読んでいて、吉岡憲についての10数頁にわたる紹介記事をみつけ、その記事で初めて、将来を期待されながら自ら若い命を絶ったことを知り、大変悲しかった。

小学生の私は、この画家が大好きだった。ある時などは、夏休みの宿題の絵にちょっと筆を入れてくれ、その作品が教室に特別展示されるなどして大変喜んだこともある。

今、吉岡憲の作品で手許に残っているのは、父と坊主頭の少年を描いた2枚のデッサンだけである。坊主頭の少年は12歳の私であり、この絵をみると腕白坊主だった当時のことが懐かしくよみがえってくる。

父は、青木繁の記念碑建立に熱心に取り組んでいた。

その発案者でもあったようである。ご遺族の福田たね・蘭堂母子をはじめ、青木繁と親交のあった熊谷守一はじめ著名な画家等を訪ね支援をお願いしていた。ブリジストン美術館の石橋氏を訪ねた後、多額の寄付を頂いたといって大変喜んでいたのが記憶に残っている。

若いころから絵画、特に日本画が好きな父であった。

岡倉天心を崇敬しており、秋になると院展鑑賞のため毎年上京していた。

祖父が心をかけていた苦学生が立身し、後に日本美術院の後援者となったことから、日本画家達との交流がはじまったようである。特に安田靫彦画伯を神様のように尊敬し、「先生のおそばにいるだけで心が洗われる」と言って、大磯の安田邸訪問の折には小・中学生の私を必ず同道した。お庭には先生の愛した梅の木がたくさんあった。

数年前、父の遺品を整理していて、和紙に包まれ麻の糸で巻かれた安田先生の書簡集が見つかった。

先生は良寛を敬慕し、専門家の間では、その字は良寛和尚を想わせる美しい字だといわれている。

昨年、現役引退を機にこの書簡の整理を始めようと思い立ったが、その美しい抽象絵画のような文面を読むことが出来ず、

そのままになっていた。

つい最近のことであるが、甥が一冊の本「良寛生誕二五〇年 川端生誕一一〇年 大和し美し 川端康成と安田靫彦」求龍堂(2008)を届けてくれた。その本のなかに「安田靫彦と良寛 安田靫彦画伯の書簡938通」という論述があり、先生の書簡が解説付きできれいに整理されていた。これで漸く書簡の解読者に巡り合うことが叶った。これで安田先生と父との若き日の交流を知ることが出来ると思い嬉しい気分になっている。

「没後30年安田靫彦展」が、2月初旬から3月中旬まで、茨城県近代美術館で開催され、生涯にわたる百数十点の作品が展示されていた。

際立った気品、繊細な線、鮮やかな色彩、日本画の素晴らしさを改めて教えて頂いた思いであった。

私が若い頃から続けてきたことの一つに、海外出張の折には美術館を訪ねるということがある。

その最初が、昭和51年冬のアメリカ出張のときである。

大寒波のなかのケネディ空港は、生まれて初めて踏んだ海外の地であった。凍えるような寒さで大雪が降っていた。

その週末、一人「ニューヨーク近代美術館(MOMA)」を訪ねた。

ここで初めてピカソの「ゲルニカ」に出会った。階段を上ったところの部屋の入口の壁に その絵は無造作にかかっていた。今は祖国スペインに帰り、「ソフィア王妃美術館」で防弾ガラスに守られ展示されている。

「ソフィア王妃美術館」にはピカソをはじめ、ダリ、ミロ、タピエス等、20世紀のスペイン生まれの巨匠達の作品が多数陳列されており、現代絵画の美術館としては世界有数である。

スペインに興味を覚えるようになったのは堀田善衛の著書からである。学生の頃、堀田善衛という作家を知り、すっかりフアンなってしまい 以後新作がでると必ず購入していた。

取り分けスペインに関する著作が面白く、いつのまにか「イスパノフィロ(スペイン大好き人間)」になってしまった。

ただ大作「ゴヤ」(新潮社)は久しく書棚に飾られたままであった。やっと読み終えたのは5年前、それを機にスペインへの旅にでた。

マドリードでは「プラド美術館」「ソフィア王妃美術館」等を訪ね、スペインの巨匠たちの作品を目の当たりにすることができた。その翌日に(2004年3月11日)「ソフィア王妃美術館」のすぐそばの「アトーチャ駅」等、3つの駅で「スペイン列車爆破テロ事件」が起こり、200人以上が死亡、全ての国民が三日間の喪に服した。勿論、全ての美術館が閉館となった。この悲劇が私のスペインの旅を尚一層忘れ難いものとしている。

昨年7月、45年にわたる仕事人生を終えた。その記念旅行として、ボストン、ニューヨークの美術館巡りをした。10月下旬でボストンは秋たけなわ、ニューヨークは金融混乱の真っただ中にあった。

ボストンに着くと、先ずボストン美術館を訪ねた。

優れた眼で蒐集され、大切に保存されている貴重な日本美術のコレクションをこの目で確かめておきたいと思ったからである。

館内に寺社建築が再現され、薄明かりのなかで立ち並ぶ仏像の姿は、京都や奈良の古寺で見るのとはまた違った趣を醸しだしていた。そのあと訪ねたイザベラ・ガードナー美術館では、中庭一杯に咲いていた菊の花が非常に素敵であった。

岡倉天心はその晩年ボストンと日本を行き来している。

ボストン美術館の日本美術のコレクションは、天心の眼を通して集められた至宝のものだといわれている。親しい友人、ガードナー夫人邸の庭一杯の菊も、「天心」という美を愛した一人の日本人が後世に残したかけがえのない贈りものであろう。

日本画をこよなく愛した父の感化、少年の頃大好きだった一人の洋画家との心の交流、海外の美術館で観た名画の数々、私にとってはこれら全てがかけがえのない「わが心のふるさと」である。

昨年九月 「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」設立記念の集いが、わが母校富崎小学校体育館でとり行なわれた。記念碑の設計者、生田勉(当時東京大学教授)のご息女、青木繁の研究者、地元の人たち等多数出席し、この日ばかりは体育館は人で一杯であった。

青木繁の郷里久留米からも石橋美術館の代表者がみえていた。式典は、全校でたった一七人の小学校の子供たちの「安房節」の演奏で始まり、関係者の挨拶のあと、地域の皆さんによる

「安房節」や「布良音頭」等、民謡の歌や踊りが披露され大変にぎやかで楽しいものであった。

記念碑が建立されたのが昭和36年の池田内閣時代、高度成長が始まった頃である。この村からも多くの中学・高校生が都会に職を求めて村を離れていった。自然の美しさが破壊され、地方の過疎化が進みはじめたのもこの頃である。

『失われた二十年』(注)を経て漸く経済・効率至上主義の反省と見直しがはじまり、地方の大切さが漸く認識され始めている。

こうしたなかで、訪れる人もなく埋もれていた碑が、地元の人々の努力で、40有余年の歳月を経て、漸く輝きはじめてきたように思われる。

「保存会」設立趣意文に「地域の子どもたちに夢と誇りを」という言葉があった。17名の子供たちが、夢と誇りをもって、これからの人生を強く逞しく歩んで行くことを祈ってやまない。

小学校卒業以来、すでに五十八年の歳月が流れている。

平成21年3月27日

(注)『失われた二〇年』朝日新聞「変転経済」取材班編(岩波)

(慶応義塾大学経済学部 加藤ゼミ昭和38年卒同期生 古稀記念論集「くつろぎ」掲載)