震災後の文化財救出プロジェクトと栄村復興のあゆみ

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白水 智(中央学院大学准教授・地域史料保存有志の会代表)

『ヘリテージまちづくりのあゆみ』収録

1.災害によって失われる地域の文化を救う

2011年3月12日。東日本大震災の翌日、長野県北部の人口約2,200人の栄村は、震度6を超える大きな地震に3度襲われた。日本中が東北に注目し、原発事故の推移を案ずる中で、この「忘れられた大震災」は発生した。幸い直接的な人的被害はなかったものの、総世帯数931戸のうち、一部損壊を含む家屋被害は694棟、土蔵や倉庫・ガレージなどの非居住建築物は1,047棟が被災し、道路や橋梁などのライフラインも大きな損害を受けた。

私が十数年前から調査研究に入っていた栄村に向かったのは、折しも倒壊した建物の解体が始まろうという震災のひと月半後の時期であった。建物を撤去するということは、中に眠っている民具や古文書を処分するということである。文化財廃棄の懸念を感じ、大きな文化の喪失を食い止めたいという思いで、解体予定の建物所有者を訪ねて文化財の救出を訴え、賛同者とともに「地域史料保全有志の会(以下、「有志の会」と略」)を結成した。

栄村は美しい景観が認められて「にほんの里100選」(朝日新聞社・森林文化協会主催)に選定されている。これは単に自然が美しいだけでなく、人里としての美しさ、人の営みの跡が継承されているということも意味し、その要素を表わすのが古民家であり、土蔵である。豪雪地帯のため、冬を迎える前に傾いた建物の処分が急務となり、6月以降罹災証明が発行され、公費の適用に伴い次々と建物の解体が進んでいった。

「有志の会」で救出できた文化財は、必ずしも多くはない。緊急作業の中で、多くの什器類を放置せざる得ない場面もあった。たとえば多くの旧家で、10~20人揃いの単位で漆器セットが発見された。輪島塗や会津塗と思われる漆器の存在は、それを揃えた時代の流通ルートや、買うための富の源泉など、当時の産業や文化を知る手がかりとなる。それ自体が貴重な文化財であるものの、現代ではあまり使用する機会がないために廃棄の対象となり、それは農具なども同じ運命にあった。文化財保存の大切さを理解してもらうために、村民にレスキュー活動の“協働”を提案した。

村の復興には文化財が必要である。ライフラインの復旧や住居の確保、生活基盤の再建が優先されて、文化の復興は後回しとなりがちであるが、それを放棄することは地域の記憶を捨てることになる。昔から使ってきた道具、昔のことを記した書類・本、美術品や建築物、風景、人間の持つ技術、人間関係のかたち、生業・暮らし方の記憶。それらを総称した文化財は「地域のアルバム」といえる。それらを救出し整理する活動を通して、村の歩みを学ぶことは、「その地域をその地域らしくさせているもの」を確認する作業にほかならない。村に住む人びとが、「地域のアルバム」という財産を共有することは、これからも村を守っていくために必要な活動だと考えられた。

震災の起きた年は、「民具大移動プロジェクト」として、多くの村民の協力を得て仮保管場所の環境整備を実施した。民家や土蔵が解体される前に文化財を運び出す作業に明け暮れた。翌2012年からは、本格的な整理活動を開始した。この作業は今も続いており、さらに5~10年という時間が必要と思われる。

 

2.文化が村を復興する

実際に救出した古文書を整理する中で、江戸時代の大地震で起きたと口述で伝えられてきた大規模な山体崩落の資料が新たに見つかった。今回の大震災が、かつての大地震の記録を発見するきっかけになったという不思議な巡り合わせに興奮を覚えた。まさに「村の記憶」が記された、第一級の資料となる文書は2万点以上にのぼった。

小滝地区という十数戸の小さな集落でも、江戸時代のことを記した古文書が今暮らしている人々に勇気と活力を与えた。そこは元来、水の便の悪い地域であったが、米作りのために先人たちが苦労して用水路を開いたという記録を偶然震災前年に講読会で読んでいた。今回の地震で村の生命線ともいえる田が壊滅し、一度は米作りを断念した若者がその記録を思い出し、「地震が起きただけで、先祖が苦労して築いてきた田んぼを手放してはなるものか。もう一度復活させよう」と立ち上がったのである。また、あるエノキ栽培農家の主人は、それまでの人生をかけてきた栽培施設が被害を受け再開が困難になると、ひとり江戸時代の古道復興の作業を始めた。それは自分自身のこれまでとこれから、生まれ育った地域と自分との関係を見つめ直すための行動であったという。

古文書との出会いによって、村民たちの意識が変化した。先人が残した民具や古文書に触れたことで、人びとは文化の厚みに目覚め、生まれ育った土地に誇りと自信を取り戻した。その過程に、文化財は大きな役割を果たした。

一連の活動を通して、私は「これまでがあって、これからがある」という意識を強くした。そこに住む人々が、地域の文化と接することで「地域らしさ」を確認し、地域性・文化性を継承し、過去と未来をつなぐ“今”の役割を実感した。

まちづくりにおいて、「これが足りない」「これではだめだ」などと、その土地のポテンシャルを否定することからスタートしがちだが、それとは逆に、これまでを肯定することから始めるべきではないかと私は考えている。様々な資料をもとに地域を見直す、過去を振り返る、地域の歩みを理解し、その土地のオリジナルの文化を継承し育むことが、新たな地域の魅力を創造するのではないだろうか。

2012年、私たちはレスキュー活動を通して確認した文化財の保存・活用に関する考えを「栄村の文化および文化財にかかわる震災復興計画について(提言)」にまとめ、村に提出した。文化財の保管場所とコミュニティスペースを併せ持つ施設として、廃校をリニューアルすることが議会で承認され、栄村は動き始めた。こうして「地域のアルバム」は、さらに新しいページを加えていくことになった。現在、保全した文化財の活かし方について、栄村らしい方策を検討している。震災後の3年間を振り返ると、災害を通して村に思いがけない化学変化が起きたと実感している。「文化財」の発掘、保管、活用する活動は、危機のときに限ったことではない。地域の文化に「気づくこと」「つながりをつくること」は、今日から始めることができる。

 

3.館山のヘリテージまちづくり

中央学院大学は館山にセミナーハウスを有し、法学部の「現代社会と法コース」では新入オリエンテーションに「館山まるごと博物館」のフィールドワークを行なっている。忘れられた文化財の調査と保存運動を続けてきたNPO法人安房文化遺産フォーラムの実践は、栄村の文化財レスキュー活動に通じるものがある。少子高齢化や過疎化の地域活性化も、災害復旧のまちづくりも、文化を失っては再興につながらない。

とりわけ、青木繁が滞在し『海の幸』を描いた小谷家住宅の保存運動を進める中から、明治期以降の資料を発見し、新しい地域像が見え始めているという。館山では「ヘリテージまちづくり講座」が開催され、私は栄村での経験を踏まえ、漁村から発見された資料類の整理・保管の手法を講義した。住民が主体的に活動に参画し、自分たちの先人たちが築いてきた漁村文化の歴史を学ぶことは、誇りにつながる。重要文化財『海の幸』誕生に寄与した景観、漁村の歴史文化などなど、様々な切り口や複合的な視点で、住民自らが「地域のアルバム」をさらに魅力あるものに磨き上げていくことを期待してやまない。