NPO法人安房文化遺産フォーラムの実践~「館山まるごと博物館」活動

『子どもとつくる平和の教室』収録

【コラム】NPO法人安房文化遺産フォーラムの実践~「館山まるごと博物館」活動~

河辺 智美

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1.エコミュージアム

逆さ地図を見ると、房総南部の安房地域は、弧を描いた日本列島の頂点に位置している。古くから海上交通の要衝として世界とつながり、軍事拠点としての戦争遺跡群や中世城跡群が多く残っている。いつもと違う視点で見直すと、〝平和・交流・共生〟の地域像が見えてくる。

地域教材を活かした授業づくりから、市民の生涯学習まちづくりに発展し、NPO法人安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラム)が誕生した。学校教育や社会教育を支援するスタディツアーガイドをおこない、地域のコーディネーター役となって多様な連携を図り、市民が主役となるような「館山まるごと博物館」のエコミュージアム活動を実践している。

エコミュージアムとは、地域全体を博物館と見立てて、学習・研究・展示・保全などの市民活動を通じて、魅力的な自然遺産や文化遺産を再発見し、活性化を図るまちづくり手法である。1970年代のフランスで提唱され、世界中で取り組まれているが、日本では先進事例の山形県朝日町や香川県直島などと並び、NPOフォーラムの「館山まるごと博物館」が国内外から注目されている。

2.戦争遺跡と平和学習

館山市内には47ヶ所の戦跡が確認されており、その評価は全国的にも貴重なものが多いという(別表)。長年の保存運動が実り、2004年に館山海軍航空隊赤山地下壕跡が平和学習拠点として整備・公開され、翌年に市指定史跡となった。戦争末期の建設という説もあるが、赤山のそばで生まれ育った元館山市教育長の高橋博夫氏は「日米開戦前から掘り始めていた」と明言している。全国に先駆け、専門部隊によりモデル的に作られたものと推察される。

東京湾口部の館山は、幕末から砲台が建設され、アジア太平洋戦争に至るまで戦略的拠点とされた。館山海軍航空隊・館山海軍砲術学校・洲ノ埼海軍航空隊が開かれ、航空技術の開発や訓練地としても重要な役割を担い、加害の一翼を担っていった。戦争末期には本土決戦に備えて約7万人の兵士が投入され、陸海空の特攻基地や陣地など軍備強化が進められた。食糧増産のため農民には花作り禁止令が出され、花畑や種苗は焼却が命じられたが、心ある一部の農民は命がけで種子を守った実話がある。

終戦直後の館山には米占領軍が上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれている。これは戦後処理の試金石としてのモデル占領だったのではないかと推察される。

3.「平和の文化」

NPOフォーラムでは、「平和の文化」を活動の理念としている。「平和の文化」とはユネスコが提唱した概念で、あらゆる生命を傷つけたり奪ったりしない、そのために争いや対立を暴力によらず、対話によって解決していくという考え方や行動様式、価値観と定義されている。国連は、2000年を「平和の文化国際年」とし、翌年から「世界の子どもたちのための平和の文化と非暴力の国際10年」と設定した。

ユネスコやユニセフを通じて「平和の文化」を世界中に広めようとした矢先、アメリカ同時多発テロ事件が起き、「平和の文化」は風前の灯となってしまった。これを懸念した元ユネスコ平和の文化局長Dアダムスは、「平和の文化」を社会に実現するには、ピースツーリズムをはじめとする平和産業の創出が急務だと訴求した。

「館山まるごと博物館」のピースツーリズムは、戦争遺跡ばかりではない。1624年建立の「四面石塔」には、朝鮮ハングル・印度梵字・中国篆字・和風漢字で「南無阿弥陀仏」と刻まれており、秀吉の朝鮮侵略の戦後処理として、拉致被害者の戦没供養と平和祈願をこめたものと推察されている。

関東大震災で館山はほぼ壊滅したが、官民一体になって安房郡震災復興会を組織して支え合い、不安と失望に満ちた人びとに安心を与えている。被害状況や復興のあゆみを記録した『安房震災誌』によると、安房郡長は東京の朝鮮人騒ぎの噂を打ち消し、「朝鮮人を怖れるのは房州人の恥」「恐怖しているだろう朝鮮人を十分に保護すべし」と掲示し、郡内では事件が起きなかったという。

戦時下の安房水産学校(現館山総合高校)では、金属供出令が出たとき、教員らが初代校長の銅像を石膏で型を残したおかげで、戦後に再建している。元は長崎平和記念像の製作者・北村西望の作品であり、蘇った銅像は館山の平和記念像といえるだろう。

「館山まるごと博物館」では、加害と被害の両面や「平和の文化」を多面的に学ぶことができる。

4.漁村のまちづくり

青木繁が、布良(めら)という漁村の小谷家に滞在し、重要文化財の「海の幸」を描いたのは1904年である。かつてはマグロはえ縄漁で栄えていたが、近年は水産業の衰退に伴い少子高齢化が進み、小学校が統廃合となった。小谷家住宅(館山市指定有形文化財)を保存し活性化を図るために、NPOフォーラムはコミュニティ委員会と協働で「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」を設立し、漁村のまちづくりに取り組んできた。

一方、全国の著名な美術家もNPO法人青木繁「海の幸」会(大村智理事長)を組織して巡回チャリティ展を開催し、自治体はふるさと納税で「小谷家住宅の保存活用事業」を選択できる寄付制度を整えた。10年にわたる官民一体の連携により約5,000万円の基金を創出し、小谷家住宅は修復を経て、青木繁「海の幸」記念館となった。

この経緯において地元住民とともに漁村や小谷家の歴史を調査し、様々なことが明らかになってきた。当主の小谷喜録は、村議や要職を歴任し、帝国水難救済会布良救難所の看守長でもあった。明治の国策として進められていた遠洋漁業は敵情視察を兼ね、水難救済は沿岸警備を担っていた。青木の滞在は日露戦争時であり、海軍望楼や水雷艇停泊地でもある軍事拠点の布良で、若い画家が自由に絵画制作できたのは、小谷家の理解と支援が大きかったと思われる。

富崎村には神田吉右衛門という人物が村長となり、アワビ漁を村営化し、共有財産で道路や漁港の整備、病院や学校の建設などをまかない、全国の模範的村政が実践されていた時期があった。当時、内村鑑三は水産伝習所(現東京海洋大学)の教員として実習引率で布良を訪れた際、神田村長に出会ったことで、人生の転機になったと自著に記している。

こうした先人の姿を知ることは、市民の誇りを蘇らせ、まちづくり活動への原動力につながっている。

5.安房高等女学校木造校舎を愛する会

女子教育として県内2番目の歴史を誇った安房南高校は、創立100年目に安房高校との統合により閉校となった。1930年建築の旧第一校舎は、左右対称に大きく羽を広げた白鳥のような外観に、各所に美しい装飾が施された和洋折衷の県指定有形文化財である。

10年間使用されていないことを懸念したNPOフォーラムの呼びかけにより、市民有志による草刈や掃除と話し合いが重ねられ、2017年秋、安房高等女学校木造校舎を愛する会が発足した。「館山まるごと博物館」のまちづくり拠点として永続的な有効活用ができるよう、会員を募って意見交換しながら催事等の企画を検討している。

エコミュージアム活動で最も重要なことは、住民が自ら地域課題をよく理解し、暮らしやすい地域の将来像を描くことだといわれる。「館山まるごと博物館」では今あるものを活かしながら、持続可能な地域社会を創造するヒントを見出していきたい。