新資料からみる戦時下の安房高等女学校

NPO法人安房文化遺産フォーラム  代表 愛沢 伸雄

印刷用PDF   ⇒ 房日寄稿連載①-⑤ 2024.2.6~10 

1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、館山湾沿いの町は約98%壊滅し、沖ノ島・高ノ島までの間が隆起して干潟となった。その海域を埋め立てて海軍航空基地が造られ、1930(昭和5)年6月、全国で5番目となる館山海軍航空隊(以下、館空)が開隊した。

その年には、千葉県立安房高等女学校(以下、安房高女)の耐震性を施した新校舎が竣工している。当時の技術を結集した、和洋折衷の建築様式の木造校舎であった。

後の旧県立安房南高等学校時代に解体せず保存され、1995年には県指定有形文化財となった。

2007年に「創立100年」を迎えたが、翌年に県立 安房高等学校と統合され閉校している。文化財である木造校舎には、地域の教育や歴史文化をさぐるうえで重要な学校資料が多数残されている。これらの資料にもとづき、2018年に「安房高等女学校にみる地域教育~大正期を中心に」を房日新聞に寄稿し、大正期の地域教育における役割を紹介した。

今回は、本土決戦体制下における安房高女の動きに関して、新たに資料を発見した。そこからわかる空襲時の学校の様子や、戦時下の看護教育などについて 報告していきたい。

*硫黄島攻防戦前の本土空襲と安房高女

アジア太平洋戦争の末期、敗戦が色濃くなってきた時期に、「一億総玉砕」「一億総特攻」というスローガンのもと本土決戦体制が敷かれていった。千葉県各市町村でも国民義勇隊が結成され、館山市民も最後の 最後まで戦争を遂行する体制に組み込まれていった。15歳から60歳までの男子と、17歳から40歳までの女子は国民義勇戦闘隊員とされ、会社工場や地域ごとに部隊が結成されていった。子どもから老人まで全国民が軍隊化され、国体護持の精神で本土決戦体制が敷かれていったのである。

戦争末期、安房高女の記録によると、1944(昭和19)年3月、卒業生184名が勤労女子挺身隊として船橋市にある日本建鉄船橋工場へ出動している。

9月に入ると、在校生が田圃にいる食用いなご採り、校庭や報国農場でのイモ掘り作業が忙しくなり、10月には連続20日間の勤労奉仕作業、農家への稲刈り作業が実施された。洲ノ埼海軍航空隊(以下、洲ノ空)への勤労奉仕作業もあった。

この年の7月、サイパン島陥落によって絶対国防圏が崩壊して、本土決戦体制が呼びかけられていく。本土空襲への備えとして、防空演習や防空壕の作り方の新聞記事が繰り返し掲載され、空襲時には待避せず隣組などとの組織的な初期消火に従事することが強調された。

11月24日、B29爆撃機(以下、B29)による東京への初空襲がはじまると、爆撃機の飛行ルートでもあった房総半島南端部には頻繁に警戒警報が出されるようになり、安房高女でも防空壕づくりが忙しくなってくる。校庭周辺に50基余りの防空壕が作られ、そのため校門へ向かう通路の桜並木が切り倒されたという。

米国戦略爆撃調査団報告書をみると、米第20航空軍は館山を総合目標部90-14と表示し、とくに館空と洲ノ空は目標規定64-2421-780とされ、空爆の対象になっている。1945(昭和20)年2月から、本格的な B29や艦載機などによる安房地域への空爆がはじまった。

安房高女の『教務日誌』や『学級日誌』に記載された警戒警報と空襲警報発令をみると、2月は警戒警報20回、空襲警報9回と発令が多い時期であった。そのなかで2月16日と17日は、安房高女生たちはもちろん安房の人々にとって、本土決戦が近づいてきたと実感させる日となった。

2月16日の『教務日誌』には、「一、授業ナシ 警戒警報発令ニヨリ実施 二、登校者二五六名(上リ汽車通学生七八名 下リ汽車通学生一四一名 バス通学生一六名 寄宿舎二一名 三、警戒警報発令 七一〇空襲警報数度発令(五回)仝解除 一六〇〇警戒警報ノ侭夜ニ入ル 四、生徒処置 一旦控所集合ノ上学校長訓示注意ノ上待避 発車時刻ヲ見合ワセテ帰宅セシム(職員引率監督ノ上)上リ汽車通引率 前田教諭 下リ汽車通 石川教諭(駅マデ送届)」と記載されている。

この16日、米海軍は大型空母11隻と軽空母5隻を中心に、戦艦8隻など多数の艦艇をともなった機動部隊によって、関東地方周辺の航空基地や航空機工場を艦載機で空襲する初めての作戦を実施した。

この「ジャンボリー」と呼ばれた作戦では、F6Fヘルキャット戦闘機など延べ1千機以上が本土に侵入して空爆をおこなった。午前7時5分、白浜監視哨は「敵小型機編隊、北進中」と報告したものの、海からの低空侵入であったため、白浜城山の陸軍レーダー基地や布良大山の海軍レーダー基地では探知できなかった。

米軍の大規模な空爆は、日本側の航空戦力に打撃を与え、2月19日からの硫黄島攻防戦を援護することにあった。B29の本土空襲を妨害していた硫黄島の日本軍航空基地を占領し、燃料不足や損傷したB29の不時着飛行場を確保することは、戦略上極めて重要であった。

2月の硫黄島攻防戦があって、3月の大規模な「東京大空襲」が可能となったのである。

*安房高女への機銃掃射

2月16、17両日の館山航空基地については、軍極秘『第二五二海軍航空隊(館山基地)戦時日誌』に本隊茂原基地からの派遣隊第三〇四飛行隊の戦闘概要で様子がわかる。

早朝5時、第1警戒配備で零戦21機が待機中、6時55分米空母艦載機8機による奇襲攻撃で零戦2機が炎上したものの、零戦15機が飛び立って上空で交戦となる。その後、波状的に米軍機延べ20数機が加わって館山基地が攻撃され、零戦10機が炎上し、5名が戦死している。

翌17日、米軍機20数機が波状的に基地攻撃を加えてきたが、使用可能な零戦10機が出撃し、上空で交戦している。双方とも数機撃墜されたとの報告があるので、地上からの対空砲火も激しかったと思われる。市民たちも戦闘機の空中戦や機銃掃射を目の当たりにしたであろう。

館山基地にはもう一つ、東日本海域の対潜水艦哨戒担当する第九〇三航空隊が常駐していた。軍極秘『第九〇三海軍航空隊戦闘詳報』には、2月14日発令の「S21作戦」による米軍潜水艦哨戒活動とともに、16、17日の「敵艦上機邀撃戦闘詳報」として基地の動きを報告している。

なかでも注目される記載が地上からの対空砲火の様子で、館山基地を囲んで設置されていた海軍の高角砲台や高射機関砲(城山・赤山・大網・北条・二子山・沖ノ島・高ノ島)から1万発以上の砲弾が放たれている。

1941(昭和16)年に対米英戦が開始されて以来、安房地域や館山市街において最初の大規模な対空砲撃で、館山市民や安房高女生たちは機銃掃射などの恐怖を肌身で感じたことであろう。

安房高女の資料には、翌17日の空襲に関して、稲垣校長が当日、直ちに千葉県内政部長宛へ送った「空襲ニ依ル学校被害状況報告ニ関スル件」という報告がある。内容をみると、空襲時刻は「13時55分」、被害状況は「第一校舎東階段壁破損」とし、さらに「機銃掃射ニ依ル一弾命中シ東方上空ヨリ西下方ニ向ヒテノ弾痕アリ其の他異状ナシ」と記載されている。

空襲警報は16日5回、17日1回が発令され、実際に安房高女の校舎が機銃掃射をされたこともあり、在校生には2日間における空襲被害調査をおこなった。1年生5件、2年生6件、3年生4件、4年生2件と総計17件の報告があり、その内容はガラス戸の破損や屋根・庇・天井裏への銃弾貫通などが主なものであり、在校生宅での死傷者はなかった。

軍極秘の『二月十六日敵機動部隊我が本土空襲状況』によると、来襲機数は関東各地に8波にわたって延べ1,400機あり、日本軍の戦果は陸軍が90機、海軍が55機撃墜、50機撃破の計195機としている。一方、損害は陸軍34機、海軍26機が未帰還とし、地上で炎上大破したものが71機あり、総計は131機と報告されている。

また、陸海軍の航空基地にある飛行機・格納庫・兵舎などの軍事施設や、船舶・鉄道・中島飛行機製作所などに被害があった。その他として、とくに「館山市街死傷6」との記載があり、民間人の被害者数かどうかは不明である。

軍関係の被害状況(2月17日敵艦載機ニ依ルモノ)は別表に、死者136名、傷者333名、施設全壊7、全焼25、半壊半焼13と記載されている。

それに対して米側の戦果報告はどうか。撃墜341機、地上での撃破190機とし総計531機であった。損害は60機が撃墜され、その他28機が損失した。総計88機と報告され、日本側の戦果報告と大きく食い違っている。双方とも成果を過大に報告したかもしれない。

館山基地の第九〇三航空隊は「S21作戦」をおこなったものの、未帰還7機、炎上10機、被弾18機の損害を受けて、作戦は中止に追い込まれている。

このように2日間にわたり、硫黄島攻防戦に向けての「ジャンボリー作戦」は、日本軍航空部隊にかなりの損害を与え、米軍側の成功裡に終わったという。

小笠原諸島の硫黄島は東京都硫黄島村であるが、2月19日、艦載機と艦艇の砲撃支援を受け、米海兵隊は上陸を開始する。日本軍硫黄島守備隊約2万名の激しい抵抗を受けながら、約1か月後の3月17日には全島をほぼ制圧した。当初の計画では5日間で攻略占領する予定であったが、最終的に1か月以上の日時を要した。

日本側は兵士の95%が戦死し、21日には大本営が「17日に玉砕」と発表している。米軍の死傷者も2万9千名近くにおよび、太平洋戦線のなかでの地上戦最激戦地の一つとなった。硫黄島攻防戦での玉砕は、本土決戦「一億総玉砕」の意味を知らせる出来事となった。

*安房高女と東京大空襲

2月下旬までのB29による東京への空襲は、昼間に編隊で8千mの高度を飛びながら、工場などを目標に照準器を使った通常爆弾の精密爆撃であり、まだ焼夷弾は投下していない。

硫黄島の攻防戦が続いている時期、3月4日米軍が飛行場を占領したことで、最初のB29が不時着し、6日には陸軍P51ムスタング戦闘機部隊が常駐することとなった。

そして、3月10日深夜0時頃、東京湾の入口にある横須賀防備隊洲崎監視所は、B29らしき飛行音を確認した。東京では0時8分に空襲がはじまったものの、空襲警報は0時15分と遅れ、市民への避難指示や日本軍による迎撃が間に合わなかった。
こうして、単独の空襲による犠牲者数では、世界史上最大となる「東京大空襲」になった。夜間の超低高度からの焼夷弾攻撃という、これまでにない戦術による初めての空襲となった。B29約300機によって約2千トンの焼夷弾が深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区など、木造家屋の密集する地域に投下する無差別の絨毯爆撃であった。

深夜にあって、北風や西風の強風のなか大火災となり、全焼家屋は約27万戸にのぼり、逃げ遅れた人びとは焼死や窒息死、川での水死など死者は9万人を超え、罹災者数も約100万人を超えた。
ところで、東京での人員疎開は1944(昭和19)年3月からはじまり、1年後には東京都の人口が大幅に減少しているが、3月10日の大空襲によって拍車がかかり、3月13日から4月4日まで約82万人が転出したといわれる。

安房高女の資料には、1945(昭和20)年5月25日付で学校長が千葉県内政部長宛に出した「疎開転入生其ノ他調査ニ関スル件」という文書があり、1944(昭和19)年4月1日から翌1945(昭和20)年5月20日までの、疎開転入学者状況が報告されている。転入者総数は、第1学年31名、第2学年51名、第3学年36名、第4学年17名であり、合計は138名であった。

そのなかでも戦災者数は、第1学年10名、第2学年16名、第3学年8名、第4学年5名の合計39名であった。戦災者の転入日記載がないので、『教務日誌』で確認したところ、転入者の氏名が未記入なところが散見された。

そこで転入願などの学校資料で再確認したところ、1943(昭和18)年1月から1945(昭和20)年3月までの未整理の転入願が見つかり受付日付順に整理した。転入願に「罹災証明書」が添付され、とくに3月10日の「東京大空襲」罹災生徒が、1学年に3名、2学年に8名、3学年に5名、4学年に1名、研究科に1名の合計18名が在学していた。

罹災証明を発行した区役所と在学高女(数字がないのは1名)をみると、本所区6名(都立忍岡高女2名・私立日本橋高女2名・都立深川高女・調布高女)、深川区6名(大妻技藝学校2名・深川女子商業学校・中村高女・成女高女・桜蔭高女)、浅草区2名(淑徳高女・錦秋高女)、向島区(都立葛飾高女)、日本橋区(都立第一高女)、京橋区(都立深川高女)、本郷区(都立第二高女)からの生徒たちを、安房高女は受け入れたのである。

前述の疎開転入学状況の戦災者数全体の半数近くが、「東京大空襲」による転学者である。そのなかに、後に人形操演者として活躍した劇団「貝の火」主宰の故伊東万里子さん(昭和26年卒業・第3回)がいた。戦後60年のとき、房日新聞の寄稿で次のように述べている。

「東京大空襲で母と3人の弟を亡くした私が、父の故郷・館山で暮らすようになったのは、日本が戦争に勝つと信じてやまなかった昭和20年4月のことでした。東京の女学校から旧制安房高等女学校に転校し、安房第二高等学校(後の安房南高校)を卒業するまでの6年間、私は館山で過ごしました。戦禍に傷ついた私の心を温かく励ましてくれたのは、館山の自然と諸先生や多くの友人でした」

生前の聞き取りでは、国民学校の学童疎開中に大空襲が起き、父の故郷館山に来たものの、すでに安房高女の入試と手続きは終わっていたという。罹災前に都立深川高等女学校の入学が決まっていたため、父親は急いで上京して焼け野原のなか、本所区役所で罹災証明や深川高女から転学関係書類の発行を受けて、安房高女への転学が許可されたのであった。

*安房高女は兵舎になった

2月の硫黄島攻防戦前、館山にある軍事施設への空爆は前述したように激しく、とくに館空や洲ノ空は被害が大きかった。本土決戦を前に軍事施設の防御策の一つが、施設の大規模な分散移転で早急に実施する必要があった。

なかでも洲ノ空は館空に隣接して、1943(昭和18)年6月に、海軍の兵器整備練習航空隊として開隊した。兵科は普通科と高等科に分かれ、さらに射爆兵器班・無線班・写真班・光学班・魚雷班・電探班・雷爆班など機器・機材分野ごとに分かれて、米軍に対抗する最新の航空兵器の開発や整備に関わる技術者を養成していた。

海軍は実戦経験者を指導教官にし、実戦部隊の優秀な整備兵や全国の理系学生生徒を集めた。多いときには1万名以上が学んでいたといわれる。

洲ノ空では2月16、17日の空爆を深刻に受け止めて、建物を解体して建材や施設設備などを人力で運搬し再建するとした。すぐに館山市近郊の山間部を踏査して大規模な将兵を分散して受け入れる場所を8か所(南条・古茂口・山本・那古・小原など)選定した。そして、3か月ほどの突貫工事によって疎開作業を終えたといわれる。

それまで安房高女の『教務日誌』などの資料には、洲ノ空が生徒の慰問や勤労奉仕先として出てくるが、2月16、17日を境に洲ノ空からの来校者が多くなっていることに注目したい。

まず、2月26日に洲ノ空の市内整備隊の来校とあるので、近隣の移設予定地に関わっている作業部隊かもしれない。3月7日には下士官が来校し、教室や鍵の貸与をはじめ手洗所の設置を決め、そして洲ノ空が校舎使用にあたり、教職員や生徒らに機密保持を徹底するよう強く要請したと思われる。

9日の朝礼では、校長から「校舎軍貸与軍機秘密保持ニ関スル件」の訓示があったと記載されている。教務関係資料には「洲空館(安)派遣通達第四號 昭和二十年三月九日」という文書とともに、安房高女校舎・校庭に部隊員200名を4班に分けて配置する略図があった。

この通達は、指揮官の川田大尉が館野村安布里派遣隊を教育訓練する試行的な日課として、校庭や教室を使用する教育訓練の時間配分(時間割)を示したものであり、翌10日から軍が校舎を使用することとなった。こうして、安房高女は兵舎になったのである。

本土決戦のもと国民を総動員するため、「国民勤労動員令」が公布されるとともに、3月には「決戦教育措置要綱」により「国民学校初等科を除き、学校に於ける授業は昭和20年4月1日より昭和21年3月31日に至る間、原則としてこれを停止する」とされた。

ただ安房高女では1、2学年が作業や授業を継続したが、「学徒動員実施要綱」に基づいて日本建鉄船橋工場疎開に協力することになり、4月に「皇国1824号工場」が開設された。

3年生160名は、学徒勤労挺身隊として学校工場に出動が命ぜられ、建鉄から出向してきた技師らの指導を受けることになる。終戦まで雨天体操場や教室などに設置された万力・グラインダー付き作業台で、必死になって飛行機部品を作ったのであった。

*安房高女の看護教育と本土決戦

『千葉県教育百年史 第二巻』には、戦争末期の看護教育に関わり安房高女のことが記載されている。参考にされた学校資料をみると、1944(昭和19)年3月11日、千葉県内政部長は各公立女子中学校長宛に「戦時下特に須要なる救急看護に関する実習訓練を強化し有事即応の実践力を錬成」を指示し、29日には「看護ニ関スル補習教育実施ノ件」を通達している。

これは本土決戦にむけて「看護ニ関スル教育訓練ヲ強化シ以テ有事即応ノ体制」のために、特定の女子中学校において看護に関する所定の教授や実地修練をおこない看護婦免許を取得させるというもので、要項には学校医や所在地の医師会員、病院などから協力を得て実施するものとしている。

この通達に沿って4月26日、安房高女の関根校長は、千葉県医師会の館山市安房郡支部に働きかけた。支部長の川名正義医師は「看護婦補修教育ニ関スル件 標記ノ関シ左記科目時間割ニテ看護ニ関スル補修教育講師ヲ推薦致候間午後ノ時間ヲ以テ適当御取計の程依頼候也」と通知した。

その内容には「解剖学(10時間)神作敏男・生理学紐帯及機械学(14)角田博・衛生学(6)登倉達雄・細菌消毒学(8)山田教宇・伝染病学精神科学(14)穂坂与明・内科学一般看護法(14)亀田𨳁・外科学救急処置(11)川名正義・産婦人科(12)田村利男・小児科学(8)安藤建治・眼科学(2)斉藤喜市・耳鼻科学(2)後藤憲三・調剤学(6)原田徳重・課外講話(適宜)和田正系・手術介輔(30)病医院実習」と、各科目の担当講師と授業時数を示している。

この通知を受けて、学校長は5月3日に教学課学校衛生技師宛の「看護教育実施状況報告ニ関スル件 標記ノ件別紙ノ通リ及報告候也」の文書のなかに、安房高女における「看護ニ関スル補習教育実施計画 昭和十九年度」を作成し、第3学年と第4学年での看護教育での科目名と担当医師名、総時間、期間、授業日などを報告したのである。

具体的に第4学年では、付属保育園において各組2名が交替勤務3日間48時間の保育実習以外に、「夏期鍛錬」という3日間の病院実習である。眼科は斉藤医院と加藤医院、耳鼻科は後藤医院と小松医院、産婦人科は田村医院、小児科が安藤医院と亀田医院、冨浦海浜学校の8か所を指定し、一人延べ18時間の実習が課せられ、総計66時間であった。

第3学年の看護実習は、館山病院の内科と外科でそれぞれ5名を1組とした6日間、また北条病院でも外科5名を1組とした6日間となっていた。つまり各科とも1日当たり3組の15名が6日間実施するために全生徒を30週の実習期間のなかに振り分け、一人延べ18日総計108時間の実習になると報告している。

こうして千葉県内政部長は、6月30日安房高女学校長宛に「看護婦規則第二条ニ依ル指定ノ件」を通達している。『千葉県教育百年史第二巻』によると、この文書は安房高女が千葉高女とともに看護婦免許を取得できる最初の女子中等学校に指定したものであり、その後県内の学校が順次指定されていったという。

前述した川名正義医師が戦時下の出来事を記録した貴重な手記がある。

そこには、房総半島南部の本土決戦に備えて、東部軍管部司令部から安房地方兵站病院長に命ぜられ、自身が東京の陸軍軍医学校で戦傷医学の講習を受けるだけでなく、医師会が中心となって歯科医師や薬剤師、看護師などを4つの救護班に組織して軍の指揮のもとで訓練に励んだと述べている。

また、戦場になった時には臨時野戦病院を数か所開設し、各衛生団体の会員はもちろん安房高女の生徒たちを軍の指揮下におき、兵站病院は安房高女校舎に開設する準備も完了していたとされる。同時に安房高女の生徒が毎日交代で10数名ずつ病院実習をおこなって、血を見ても驚かずに看護活動ができる訓練がなされていたというのである。

『創立六十周年記念誌』には、1941(昭和16)年から1946(昭和21)年までの卒業生たちの「戦時・座談会」の証言がある。そのなかで「…看護学の講習なども市内のお医者さんが見えていたし…卒業と同時に看護婦の免許をくれるということで、館山病院などで実習…」とある。

『創立百年史』にも、安房高女3年生(昭和21年3月卒業)で看護教育や実習を受けたという証言がある。「戦時中看護講習で病院の外科へ。近々出征兵士する方の手術を見学。医師の言葉『戦い行くのに麻酔をすると治りが悪い』と。苦しむ姿と血を見た学友は倒れる様に外へ」と述べている。

学校資料から看護教育の経緯をみると、1944(昭和19)年度の4年生が7月、3年生が8月に学徒勤労挺身隊として日本建鉄船橋工場に出動したため、年度計画に沿った実施は無理であった。

だが、『教務日誌』の5月11日には、穂坂講師による「看護ニ関スル補習教育開講」とあり、3年生のみ7月まで25回の講座が実施され、看護実習も4日間実施されたことがわかった。当時、実習先である館山病院は、院内の中庭に地下手術室を設け、医薬品や医療の重要物資は疎開させるなど、本土決戦に備えて万全の医療対策をとっていたとされる。

病院実習がどの程度のものかは不明だが、川名医師の手記には1945(昭和20)年2月の空襲の際、実習に来ていた安房高女生が出動し、市民の負傷者救護をしたと述べている。

また、院内の防空壕に空襲の負傷者を収容し、手術を施していたとされるので、安房高女生の実習は戦場での看護活動そのものであったであろう。

これらのことから、安房高女の生徒たちには、「ひめゆり学徒隊」と同様の看護活動が求められていたことがわかる。
「ひめゆり学徒隊」とは、沖縄県立第一高等女学校や沖縄師範学校女子部の生徒たちが、看護訓練を受け、南風原陸軍病院に動員された女子学徒隊である。その後、日本軍とともに行動し、221名中123名が犠牲になっている。

もし房総半島南部での本土決戦、つまり米軍の本土進攻計画「コロネット」作戦が現実のものとなっていたら、安房高女生たちも「ひめゆり学徒隊」のように悲劇的な状況になっていたと推察される。