地域教材「四面石塔」を活かした現代社会の授業実践
地域教材「四面石塔」を活かした現代社会の授業実践
執筆:愛沢伸雄
・・*『千葉県歴史教育者協議会会誌』第33号2001年収録
・・*『足もとの地域から世界を見る〜授業づくりから地域づくりへ』収録
【1】地域教材「四面石塔」の調べ学習と小論文作成
高校入学後の「現代社会」では、身をもって社会科学習の楽しさを体験ながら、学ぶことの面白さを知ってもらうことをねらいにしている。ここで紹介する授業実践は、生徒たちが身近にある地域教材を通じて、自ら課題テーマを設定して、19時間の調べ学習の後に、まとめとして小論文を作成するという内容である。
まず授業では、地域を調べていく学習のなかで、自ら学習課題を探り出して追求することで、地域認識を変える機会にしたいと思っている。そのためには地域から国際交流のあり方を探るとともに、国際交流にふさわしい地域認識を育てることが重要である。そこで生徒たちが興味・関心をもつ歴史的な教材を提示して、学習課題を見つけ主体的な調べ学習をすすめるなかで、学習の達成感が感じられる地域教材をさぐった。
従来から私自身が調査研究している館山市にある大巌院「四面石塔」を地域教材にして、この地に生きる人びとの交流の姿や、平和への思いを知ることを目標にしたい。まず教材内容に興味・関心をもたせるには、「四面石塔」建立の意図を推理させ、その時代背景や石塔そのものと仏教に関すること、あるいは地域と日本、そして韓国・朝鮮、東アジア世界のそれぞれの歴史と重ね合わせて、調べ学習活動を重層的に展開しながら、最後にはまとめ学習としての小論文作成に繋げていく授業内容に組み立てた。
この石塔には、ほとんど史料が見あたらず、まったく謎だらけではあるが、歴史の謎を解く楽しさや歴史的なことを推理する面白さがあるので、生徒の学習テーマが明確であれば、調べ学習が十分に成り立ち、それなりの小論文が作成できると考えていた。また、学習テーマを決めるにあたって、生徒なりの大胆な推理ではあっても、「四面石塔」が製作された時代背景や、そこに関わる人物の歴史、あるいはハングルの歴史を検討することで、「善隣友好と平和」を願う石塔の意図が浮き彫りにされるはずである。
さらに、雄誉霊巌上人というひとりの僧侶を通じて、激動する時代の動きのもとで、地域から日本、韓国・朝鮮、東アジア世界との交流の姿や、「善隣友好と平和」の行動を読み取ることが可能と考えた。
≪授業展開≫
● 1時間目
真の国際化とは何かを考える。
プリント資料『2002年ワールドカップと日韓交流』を読む。
● 2時間目
地域にある「日韓交流」を伝える文化遺産を紹介する。
プリント資料『四面石塔』を読んで、どんな意図をもった石塔であるかを各自に推定させる。
プリント作業「私は四面石塔をこう推定する」の提出。
● 3時間目
クラスみんなの意見。「謎の四面石塔をこう見た」報告と発表し、意見交換。
● 4時間目
図書室調べ学習(a)テーマ設定。プリント作業「四面石塔の謎-テーマを決める」。
● 5時間目
参考資料プリント配布と共通課題学習
● 6時間目
① 年表作成プリント作業「四面石塔建立の時代の年表を作る」提出。
② 仏教関係プリント作業「仏教や時代の歴史事項を調べる」 提出。
● 7時間目
HR教室-「テーマ設定」の予備調査-提出プリントと学習のチェック
● 8〜9時間目
図書室調査学習(b)「テーマ設定」と調査項目の検討・書籍資料確認。
● 10時間目
愛沢自作VTRの視聴『ハングル四面石塔の謎』(15分)。
● 11〜14時間目
図書室調べ学習(c)調査研究:愛沢作成雄誉上人年表。「調査研究ファイル」の配布。
● 15時間目
HR教室—「調査研究ファイル」のチェック。参考資料:愛沢論文配布。
● 16〜18時間目
小論文作成。作成上の注意、専用原稿2枚(2,400字)配布。
● 19時間目
小論文と「調査研究ファイル」一式の提出(期末考査時間)。
【2】生徒S・Aが作成した小論文『なぜ四面に違う文字なのか』
● はじめに
私は千葉県館山市の浄土宗大巌院にある千葉県指定有形文化財「四面石塔」を知り、いろいろな疑問が浮かんできた。そのなかで、私はそれぞれの面の文字の国と日本との関係や交流を知りたいと思い調べた。まず、それぞれの文字について知り、日本と関係の深い国について知ろうと思った。次に石塔に刻まれている「南無阿弥陀仏」についてどういう意味で、なぜその文字なのかということを調べることにした。
● 文字について
まず、それぞれの文字について知ることで、日本との間に何かあるのかということを調べた。北面の文字については「悉曇(しったん)」という。悉曇とはサンスクリット語のSiddhamの音訳であり、サンスクリットの文字を悉曇と称している。一般的にはサンスクリット文字、専門的には悉曇として使い分けられている。悉曇学というのは、中国と日本においてサンスクリット文字においてなされた文字や音声の学問という。日本語とサンスクリットとの間には、古来中国を通じて、非常に深い関係がある「南無阿弥陀仏」といった題目も本来はサンスクリットに由来している。
次に西面の文字については、漢字になる前の文字で「篆字」という。日本で使われる漢字は中国から由来してきたものである。南面の文字も日本で使われている漢字である。
そして東面の文字は朝鮮の文字で「ハングル」という。このハングルは李氏朝鮮の第4代国王世宗が1446年に公布した「訓民正音」という文字で書かれている。それは現在使用されているハングルの基となった古い文字で、短期間で消滅したため朝鮮でも近年までよくわからなかったものという。このようにそれぞれの文字から中国や朝鮮と日本が何か関係があったということがわかった。
●「南無阿弥陀仏」について
四面に刻まれている文字を解読したところ、どれも「南無阿弥陀仏」という文字ということがわかった。それはお寺などで多く耳にする言葉であったので、もっとよく知ろうと調べた。「南無阿弥陀仏」という文字は「阿弥陀仏」に帰依するという意味で、中国唐代の高僧善導の解釈によれば、「南無」とは帰依を意味するサンスクリット語であり、仏に帰依して救いを求めようとする民衆の願いを実現するために働く阿弥陀仏の行動を示しているという。「南無阿弥陀仏」によって、民衆の願いと仏の行動が一つになって、平和な極楽浄土で仏になることができると説いた。つまり、生命の危機や死の際に「南無阿弥陀仏」と唱えると皆が仏になり、極楽浄土で幸せになるという。
こういうことから日本や朝鮮などが阿弥陀仏の力で皆が友好で幸せになることを願い、「南無阿弥陀仏」と刻んだのではないかと、私は推定した。
● 日本と朝鮮との交流-「朝鮮通信使」をみる
調べたなかで日本と朝鮮とはいろいろな交流があったとわかったが、さらに調べていくと、豊臣秀吉の「朝鮮侵略」が大きな意味をもっていると知った。1592年から96年の秀吉の「朝鮮侵略」は朝鮮の人々の心に日本人に対する憎しみを残した。しかし、江戸時代に入ると対馬藩や幕府の対応のなかで友好関係は回復する。これは朝鮮通信使の来日というかたちで実現したのであった。
この朝鮮通信使というのは、朝鮮国王が日本国王(将軍)に国書を渡すために派遣した使節である。はじまりは1404年に足利義満が朝鮮と対等な外交関係を結び、双方で国書を交換したときである。しかし、両国使節の友好的な往来は、1592年からの朝鮮侵略(文禄の役)と1597年の朝鮮再侵略(慶長の役)という一方的な侵略戦争で崩れてしまった。
江戸幕府は、こうした侵略戦争の後に友好関係を修復していくために、江戸時代を通じて朝鮮通信使を招くようになった。通信使は1607年から1624年までの国交回復・戦後処理のための使節が3回と、1636年から1811年までの将軍代替わりのときの使節が9回の合計12回である。最初の3回は日本からの使節に対する答礼の使節で、回答兼刷還使という。これは答礼を兼ねて、秀吉の「朝鮮侵略」のときに日本へ連行された多くの朝鮮人捕虜の返送を目的にしていた。捕虜には陶工や学者などが含まれていたが、彼らが江戸時代初期の技術・学問の発展に果たした役割は大変大きなものであった。この答礼のための使節が派遣される背景には、長年朝鮮と日本の間で交易を通じて文化交流を続けていた対馬藩の役割が重要であった。
また、記録によると通信使が途中で立ち寄るところでは、日本の知識人の訪問があとをたたなかったという。当時の日本において儒学の先進国である朝鮮から学びたいという意識が高かったのだろう。このことから通信使を通じて江戸時代には朝鮮の文化が伝えられ、友好的な関係があったことを忘れてはならない。
● おわりに
この石塔について調べていくうちに、たくさんの疑問が浮かんできて、何かワクワクしたような気持ちになった。今までこういうまったくわからない、資料も少ないものについて、こんなに詳しく調べたことがなかったのでかなり手こずった。
私のテーマであるこの石塔に刻まれている4つの文字は、それぞれサンスクリット(悉曇)・篆字・漢字・ハングルであることがわかったが、このなかでもハングルの文字が日本との関係が一番強いと感じ、とくにハングルや朝鮮との交流について調べてみた。その結果、16世紀末の秀吉の「朝鮮侵略」が関係しているように思えた。しかし、そのことが関係あるかどうかについては、資料もなくよくわからなかったが、調べたなかでは重要な関わりがある出来事と思った。そして、「南無阿弥陀仏」という文字は、仏に帰依して救いを求めようとする民衆の願いと仏の行動が一つになって、平和な極楽浄土で仏になることである。それが「南無阿弥陀仏」を唱えることの意味とわかった。この言葉がもし秀吉の「朝鮮侵略」と関係すれば、石塔は日本と朝鮮との友好と平和の思いを表したものかもしれないとまとめたい。四面石塔を通じて日本と朝鮮の出来事を学んできたが、テーマを決めて調べるなかで、とくに両国には友好と交流の深いつながりがあったことを知った。
(千葉県立長狭高校1年在学時発表)
【3】S・Aの感想と生徒たちの地域認識
S・Aはこの小論文を書き終えたとき「この石塔について、たくさんの疑問があったが、資料があまりないということで、テーマをしぼるのも大変だった。さらにテーマがみつかっても資料探しに時間がつぶれてしまった。でも段々と資料をみつけていくうちに、私の心はワクワクするような感じになった。何もわからないことに対して疑問をいだき、それを調べていくうちにいろいろなことを得るという方法は、とてもすばらしい「学び方」だと思った。それで私のテーマ「なぜ四面に違う文字なのか」ということを調べるなかで、朝鮮との深い結びつきを知り、そこに日韓の友好や交流の関係が四面石塔にも関わるということがわかった。テーマについて調べ、段々と内容が朝鮮との関係にしぼり込まれ、最後には友好関係など今までくわしく知らなかったことを、四面石塔を通じて学ぶことができたのがよかった。」と感想を述べている。
日韓の歴史や交流を課題テーマにした生徒たちのなかには「…謎がでてくる石塔である。これをきっかけに、もっとたくさんの人々にその存在を知ってもらい日韓の交流を広げていけないか」「僕たちが今回やったような学習が必ず必要になる」といい、「四面石塔がこれからの日本と韓国・朝鮮との関係をもっと良くするためのきっかけの一つとなる」と、数時間の調べ学習で深めた歴史的な認識から、生徒なりの日韓交流の提言がなされている。
この学習を通じて生徒たちは南房総・安房地域について、どんな地域認識をもっただろうか。「ただの田舎の町としか思わず何も知らないまま、何も感じないまま暮らしてきた」だけでなく、「地域について知らないし、知ろうという気持ちももっていなかった」ことを正直に語っている生徒がいた。また「地域のことを何も知らないということを思い知らされ、安房にはとても立派な歴史があること」を、調べ学習を通じて学んだという。それは身近にあった文化遺産を通じて、足もとの地域を再認識する機会となったが、知っているようで知らなかった自己の地域理解の姿を学んだことになる。
実は地域を見つめ直す謙虚な姿勢のなかにこそ、地域認識を深めていく核心があって、実践的な「授業づくり」や「地域づくり」に繋がっているのである。
【参考論文】愛沢伸雄著
・江戸時代ハングル「四面石塔」のなぞ〜安房から見た日本と韓国(朝鮮)の交流
・16・17世紀の安房からみた日本と朝鮮〜朝鮮侵略から善隣友好へ
・近世安房にみる朝鮮〜朝鮮通信使と万石騒動
・地域教材で日韓交流を学ぶ〜生徒と学ぶ「四面石塔」の謎