米軍資料にみる安房への空襲≪房日新聞「安房にみる『戦後50年』」より (1995年)≫
米軍資料にみる安房への空襲
房日新聞1995年8月「安房にみる『戦後50年』」
「千葉県警察史」(第2巻)によると、安房地域の警察署管内別の空襲被害状況(1945年10月現在)は、館山署管内死者69名、傷者122名、全半焼壊127戸(千倉署27名、傷者42名・鴨川署21名、傷者46名)と報告されている。
千葉県内の空襲被害の死者数1746名の内訳をみると、千葉943名・銚子299名・市川90名の次に、館山69名となっている。都道府県別で民間人の死亡者数を「太平洋戦争における我国の被害総合報告書」(経済安定本部 1949年)では、少ない県で島根19名・山形24名・石川35名・滋賀45名・長野53名・奈良68名となっている。つまり館山の死者69名は、少なくない数である。
1944(昭和19)年7月、サイパン島陥落による絶対国防圏の崩壊は、本土空襲のはじまりを意味した。新聞には、防空演習や防空壕の作り方の記事が繰り返し載せられ、空襲時には待避せず、隣組などの組織的な初期消火に従事することが強調された。
千葉県内への空襲が現実になると、「退避は防禦攻勢の姿勢、次の瞬間猛然と焼夷弾に敵愾心の体当たりをせよ」と体当たりの初期消火活動が強調された。
現在わかる全国の空襲の概況や米軍関係資料と、当時の安房中・安房高女の教務日誌での空襲・警戒警報発令記録と対比しながら、おもな安房における空襲・戦災状況を紹介する。
1944(昭和19)年11月1日、サイパンよりB29偵察専用機一機が東京に初飛来し、24日には米第73航空団のB29が88機、中島飛行機武蔵製作所を目標に東京空襲が開始された。
安房でB29空襲に関わる初被害は、鋸南町史に記載されている12月3日午前10時頃の「空中戦闘中の流弾」による、小保田より市井原までの家屋20棟全焼であると思われる。
米軍資料によると、この日第73航空団B29が86機「作戦任務10号(コード名サン・アントニオNo.3)」命令で出撃し、中島飛行機武蔵製作所を主目標に空爆している。作戦任務概要では「・・・敵機の迎撃は微弱ないし中程度-攻撃回数75。この交戦で敵機6機撃墜、10機不確実撃墜、5機撃破・・・」とあるので、この空中戦闘に関わる被害かと思われる。
安房では、1945年2月から本格的なB29の空襲がはじまった。米国戦略爆撃調査団報告書によると米第20航空軍は、館山を総合目標部90-14-と表示し、館山航空基地は目標規定64-2421-780、洲ノ埼海軍航空隊(「豊戸」飛行場と記載)は目標規定64-2421-780とそれぞれ表示し、空爆の対象としている。
まず2月9日午後2時半すぎ、空襲警報もなく高度8000mよりB29が2機「館空」「洲ノ空」に500ポンド高性能爆弾を6トン、焼夷弾4トンを投下した。
本土決戦が叫ばれるなか、安房の人々がその実感をはじめてもったのが、2月16日午前7時頃から房総半島中心に侵入した、米第58機動部隊艦載機延べ1000機(F6F「ヘルキャット」戦闘機・F4U「コルセア」戦闘機・SB2C「ヘルダイヴァー」急降下爆撃機など)による空襲であろう。
午前7時5分、白浜監視哨が「敵小型機編隊、北進中」と報告したが、侵入高度約400mでは白浜城山レーダー基地の電波警戒機乙では捕捉できなかった。
2月19日からの「硫黄島作戦」側面援護のために、関東各地の軍事基地を襲撃した。7時15分、厚木の「第302空」と茂原基地・館山基地を拠点とした零戦240機を配備の「第252空」が出撃した。とともに館山航空基地は米軍機の機銃掃射と空爆の急襲をうけた。翌17日も関東各地の軍事施設は激しい艦載機攻撃をうけた。
3月6日、米軍に占領された硫黄島に米陸軍戦闘機集団P51「ムスタング」が進出した。3月10日は「東京大空襲」であるが、この日には館山も空襲をうけた。米国戦略爆撃調査団報告書「第20航空軍-日本本土爆撃詳報」のよると
「洲ノ空」飛行場(総合目標部90-14-・・・目標規定64-2421-781)にむけて、第500航空群のB29一機が日本時間3月10日0時58分に約2000mより、焼夷弾サイズ18(名称E28-500ポンドI.C.= M69・6ポンドI.B.直径約8cm・長さ約50cmの小型ナパーム焼夷弾を集束)を65発(11t)を投下したのである。
5月8日、ムスタングP51・65機が千葉、茨城を急襲した。11時50分頃、鋸南町市部瀬(勝山駅-岩井駅間)において館山行下り第111列車が、P51二機により機銃掃射をうけ、乗客13名が死亡、46名が負傷し、列車も破壊された。
また西崎村沖合いでも漁船が攻撃をうけ3名が負傷している。
ところで5月11日、B29による沖縄作戦支援が終わり、4個航空団(B29が700機)は硫黄島からP51を護衛にしての昼間大空爆に移った。
そのひとつが、5月19日10時51分から11時58分まで、B29・309機によって第一目標を立川陸軍航空工廠・立川飛行機会社工場・浜松市に設定した「作戦任務178号」が実施された。米軍資料報告では、レーダー爆撃照準で272機が任務を遂行したが、14機が臨機目標に投弾したとある。臨機目標とは、機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾するよう命ぜられていた。この日、天候不良のため臨機目標に変更した14機が、神奈川・千葉・山梨・静岡の各地に投弾した。
米国戦略爆撃調査団報告書「第20航空軍日本本土爆撃詳報」によると、予め館山に設定した各種目標(軍需工場など)のひとつが、「目標規定64-2421-010」で、これが館山八幡の「池貝鉄工所」と思われる。
臨機目標に変更した第314航空団の一機の優先順位3番目の目標であった。攻撃時刻155(日本時間10時55分)、爆弾投下高度2万4千フィート(7320m)、高性能爆弾(AN-M64・500ポンドG.P.= 250kg爆弾)27発(7トン)と報告された。
この19日正午前、天候は雨であった館山那古の川崎は朝から空襲警報はでていた。しかし爆弾の嵐が突然やってきた。死者27名(2才から80才まで)、負傷者10名、家屋全壊 9戸全半壊18戸と記録されている。
川崎町内会発行の「川崎での空襲記録」のなかで加藤誠さんは次のように証言している。
「・・・私は当時、安房農高生で、その日も登校、午前中から空襲警報のため、うらの松林に避難していました。正午まえ、館山方面に爆発音がしたので、どこかやられたなと思っているうち、連絡があったのか、先生から家に帰るよう指示され、早退して帰ってきました。・・・
那古船形駅に着いたのは結局夕方で、雨の中を急ぎ家の近くまで来ると、視界が開けてパッと明るくなった感じにはビックリしました。それというのも、各々の家の垣根としてぎっしり植っていたマキの木は、それこそ根元からさけて倒され、家屋の多くは焼失するか、爆風で倒壊されていたからです。・・・
私の家では、母が即死、祖母と当時かぞえで22歳の姉が、一旦船形の西行寺に収容されましたが、その夜戸板にのせられて遺体でかえってきました。父は前に述べたように負傷し、病院にほぼ半年ほど入院し、終戦後に家にもどってきました。
相当ものすごい爆風だったのか、近所の11歳の子供が身に付けていた着物の端が50mは離れている八雲神社の境内の杉の木の先端にひっかかっているのが、その後発見されましたが、その子供はとうとう最後まで行方不明のままでした。
・・・もちろんその日も空襲警報はでていたんですが、朝早くから警報がでて、ずっと避難していた人が、何事もないということで安心したのか、昼食の仕度をするため庭や畑にでてきたところを直撃されたようです。ちょうど建前で仕事の大工さんも即死しています・・・。
一家の働き手を一挙に3人なくし、父も、退院後仕事ができる状況じゃなかったので、残った家族8人をやしなうために、私は学校をやめて、農家の仕事を一手に引き受けてやってきました。友だちがみな学校にいっているので、なんで自分だけが・・・というような気持ちも強かったのでしょう。その頃が一番つらかったですね。」
この日のことを毎日新聞は「南方基地のB29が約90機、19日午前関東及び東海両地区に来襲・・・密雲のため目的を達せず帝都及び神奈川、山梨、静岡各地区に盲爆を加えて南方に遁走した・・・敵はほとんど何等なすところなく三々五々南方に退去した。従ってわが方の被害は極めて軽微で殊に重要施設にはほとんど被害はなかった。
千葉発 19日午前11時頃房総南部に侵入した敵大型機一機は館山市付近に小型爆弾数発を投下して南方に脱去」と報じている。
しかし安房郡下でも最も大きな戦災となったが、爆撃による後遺症は残り、被災者は救援もなく、自力で立ち上がるしかなかった。また田や畑には爆弾の破片が散らばり、足を踏み入れることもできなかったという。川崎地区の人々は、「5月19日」を忘れることはできない。
7月に入り、沖縄作戦の終結により、空母15隻・戦艦9隻など105隻を擁する米第38機動部隊は「本土侵攻事前作戦」の任務に移行していく。特に1200機以上の艦載機での地上攻撃が激化する。
安房地域においても、14日の和田国民学校正門前や17日の丸山大井地区での機銃掃射があり、和田町真浦では主婦1名が死亡し、18日には和田町花園、鋸南市井原でそれぞれ機銃掃射で1名負傷と記録されている。この経緯のなかで、18日深夜11時52分からの第38機動部隊の第35・4任務群による「白浜城山レーダー基地」に対する艦砲射撃があった。
8月に入っても多数の艦載機や硫黄島よりのP51によって激しい地上攻撃が繰り返された。そのなかで、館山市民の記憶に残っているのが、8月5日の館山航空基地に対するB29の空爆である。米軍資料によれば「作戦任務313号」は、主目標を前橋市に対する第313航空団B29・102機による空爆である。このとき4機が臨機目標に変更したと報告されている。
この攻撃で使用する爆弾は、M19・500ポンド焼夷集束弾(目標上空5.000フィートで解束するようセット)やT4E4・500ポンド破片集束弾(投下3.000フィートで解束するようセット)、さらにM64・500ポンド通常爆弾(近接信管弾頭・無延期弾底付き)であった。
米国戦略爆撃調査団報告書(第20航空軍日本本土爆撃詳報)によると、館山海軍航空基地(総合目標部90-14-371 目標規定64-2421-700)への攻撃は、第313航空団B29の2機であった。 報告では、攻撃時刻1348、(日本時間22時48分)
爆弾投下高度8500フィート(2593m)とある。
そして投下した爆弾は、焼夷弾(名称E46-500ポンドI.C.)75発(15トン)であった。E46一発には小型ナパーム焼夷弾AN-M69・6ポンドI.B.を48発集束してある。M69は6角断面の鉄板製の缶の中にナパームを詰めたもので、E46から弾き出されると麻布製のリボンの尾を引きながら落下する。これは対日戦専用に開発されたもので、日本の木造家屋に適するように落下速度を遅くし貫徹力を弱くすることで焼夷攻撃の効果を高めたものであった)
そして破砕性爆弾も4発(1トン)投下している。この爆弾はT4E4・500ポンドF.C.と呼ばれ、ボール爆弾などのように、破片をまき散らし、器材や人員を破壊殺傷す目的の弾種で飛行場攻撃などに使用していた。