戦跡からみる戦時下の館山

≪豊津会例会 報告(1999年)≫

(1)館山市戦争遺跡調査概要

●館山海軍航空隊(略称 「館空」)関係

本部庁舎・正門跡・塀(海上自衛隊)、水上班第二飛行機格納庫前「第二滑走台」跡・50トンクレーン設置跡・航空隊用浄水場(現在もそのまま使用中)、沖ノ島防空壕跡(3ヶ所)、鷹ノ島防空壕跡(7ヶ所・海軍軍需部油槽跡)、笠名弾薬庫跡・「赤山」地下要塞跡(山頂監視所跡・燃料タンク跡・司令部跡・医務室跡・発電所跡)・宮城戦闘機用掩体壕跡、香大型機用掩体壕跡、城山送信所防空壕跡、上野原送信所跡

○「館空」関連施設〜海軍防空砲台跡・館山城山砲台跡(高角砲陣地跡・火薬庫跡・機銃座土塁跡・海軍用地標柱2本)・大賀双子山第一砲台跡、館野大網第二砲台跡(高角砲陣地跡・発電所跡)・香寺山(探照灯)跡、(神戸布沼砲台)、(北条砲台)、(八幡砲台)、(船形砲台)、(笠名砲台)・魚雷艇隼部隊基地・航空隊レーダー(探信儀)基地(通称電探山・現航空隊使用)・横須賀防備衛所跡(洲崎灯台付近・水中聴音機磁気探知機設置)

●第二海軍航空廠関係

館山補給工場跡(現米倉庫)、付属発電所跡、魚雷庫跡(大黒屋倉庫使用)、塀跡・部品保管用防空壕跡(約10ヶ所・現国土地理院館山観測所)

●横須賀海軍軍需部館山支庫関係

-塀、正門跡、燃料倉庫跡(2棟・現丸高石油施設内)

●洲ノ埼海軍航空隊(略称 「洲ノ空」)関係

兵舎跡、本部庁舎跡(一部煉瓦跡)、兵舎横待避用防空壕跡、防火用水跡
武道館跡(空爆で池に)、天神山防空壕跡・整備訓練用射撃場跡(弾痕跡・標的壕5基・機材用防空壕2ヶ所)・「128高地」抵抗拠点(「戦闘指揮所」「作戦室」)防空壕跡(かにた婦人の村内)

●東京湾要塞関係

東京湾要塞房総地区本部跡、洲崎第一砲台跡(加賀名)、洲崎第二砲台跡(坂田)・洲崎弾薬支庫跡、大山(坊ノ山)観測所跡、洲崎観測所跡、東京湾要塞第一区地帯標柱

●館山海軍砲術学校(略称 「館砲」)関係

パラシュート降下訓練用大型プール跡、大型発電所防空壕跡、烹炊場ボイラー室跡・平砂浦訓練場跡・ガス講堂横防空壕跡・射撃訓練場跡、配水場跡、東砲台跡(高角砲陣地跡)、西砲台跡、南砲台跡

●布良・大山海軍電探基地跡

機材防空壕跡(3ヶ所)・基地トンネル跡
本土決戦 海軍特攻基地跡(第1特攻戦隊第18突撃隊)

●第59真鍋隊 波佐間「震洋」基地跡

滑り(港にコンクリート桟橋跡)、「震洋」格納庫跡・洲崎(栄ノ浦)「震洋」基地跡

(2)戦時下館山の軍事施設と防空体制

1942(昭和17)年の「ドゥーリトル初空襲」以来、本土防空体制の強化が叫ばれ、房総半島・伊豆半島諸島などを中心に陸軍は、レーダー警戒網を整備していった。その基地は銚子(要地用警戒機4基・高度測定付加受信機2基)、勝浦(移動用警戒機)、千倉(機種不明)、白浜(要地用警戒機地上固定タチ2号4基・移動用警戒車両積載タキ1号・高射砲用高度測定付加受信機)、下田(要地用警戒機2基)、八丈島(要地用警戒機4基)などであった。

海軍では、東京湾要塞地帯内にある「館空」や「洲ノ空」防御のために、館山各地に9ヶ所の防空砲台を構築し、高角砲(高射砲)22門・探照灯7基・測距儀2基・電探13号2基などで防御体制を敷いている。その内訳は館山城山砲台(高角砲8門、探照灯1基、測距儀2基)・大賀二子山第一砲台(高角砲4門)・館野大網第二砲台(高角砲4門、機関砲4基、探照灯2基)・八幡砲台(高角砲4門、高射器1基)・船形砲台(高角砲2門)・香寺山砲台(探照灯2基)・神戸布沼砲台(探照灯2基)・北条砲台(配備不明)・笠名砲台(配備不明)であった。

これらの海軍施設以外では、「館空」関係で笠名弾薬庫・城山送信所・上野原送信所・飛行機掩体壕(40カ所)・「赤山」地下要塞(司令部、兵器庫、病院、燃料タンクなど)が設置され、「館空」に隣接する第二海軍航空廠館山補給工場では、宮城地区防空壕(10カ所以上)・魚雷庫(3カ所)を設置していた。

また館山海軍砲術学校関係では、東砲台(高角砲6門、測距儀1基、聴音器1基)、西砲台、南砲台が設置された。そして布良・大山レーダー(探信儀)基地は、3機種の対空見張用レーダー各1基と対艦見張用レーダー1基を配備し、太平洋地域をにらんでいた。

 

(3)東京湾要塞とワシントン体制

日本では、明治期に主要海峡や港湾の防衛のための大規模な海岸要塞建設が開始され、東京湾岸にある観音崎と富津での砲台構築は、そのスタートになった。要塞は日清戦争後では海防充実の一環として、日露戦争前後には対外侵略の戦略として積極的に位置付けられた。そのなかでも1880(明13)年に起工され、1932(昭7)年に完成した永久構築の要塞が東京湾要塞であった。

日清戦争の勃発により全国規模で要塞建設がすすみ、日露戦争ではウラジオストック艦隊が津軽海峡を通過し、東京湾外に現れたことで、首都防衛の前線として東京湾要塞が一段と重要視された。1895(明30)年の要塞司令部条例によって、永久防御工事を施し守備している地域は要塞とされ、その周辺一帯も要塞地帯と呼ばれることとなった。

1899年、軍事機密保持と防御営造物の保安のために、要塞地帯法と軍機保護法が公布され、指定された区域での水陸の形状を測量、撮影、模写することや地表の高低の土木工事、築造物の増改築ことには、要塞司令部の許可が必要となった。防御営造物から250間(約455m)以内の要塞地帯第一区では、一般人の出入りが禁止され、地帯内の憲兵隊や特高警察によって住民が厳しく監視された。また要塞地帯の地図は一般には公表されず、重要地域は空白にしていた。さらに戦時中には、東京湾側の列車の窓は鎧戸が下ろされ、乗客であっても厳しい監視のもとに置いた。

東京湾要塞房総地区にあった洲崎第一砲台や大房岬砲台は、軍艦に搭載されていた砲塔を陸上砲塔に転用したものであった。これは第一次世界大戦後のワシントン体制下の戦略的対応として、艦載砲を要塞砲に改造して配備し東京湾要塞を強化した。海軍では、アメリカを仮想敵国にする帝国国防方針により、1911年以来艦令8年未満の戦艦8隻と巡洋艦8隻とを主力とする、いわゆる「八八艦隊」計画で建艦していた。このような軍備増強のために軍事費全体が、政府歳出総額の半分を占めるまでになっていたので、財政上政府は海軍の軍縮を望んでいた。ワシントン軍縮条約調印によって主力艦などの保有量が制限(米英各15隻・日本9隻)されたことで、未完成の艦艇建造は中止に追い込まれた。「赤城」と「加賀」は航空母艦に改装され、また主力艦の「生駒」など6隻は解体され、「安芸」など4隻は撃沈することに決定した。この経緯のなかで、陸軍は海軍と交渉し、解体の主力艦の「摂津」「生駒」「鞍馬」などの大口径砲塔を海岸要塞に据え付けて沿岸防備を強化するとともに、第一線級の要塞である東京湾、津軽、対馬、壱岐、鎮海湾に艦載砲を配備して海軍力の劣勢を補うこととした。この間、東京湾要塞では1923年関東大震災により大きな被害をうけたが、要塞の復旧とともに艦載砲塔を配備することで防備の強化が図られた。

こうして1928(昭3)年から4年間にわたる工事によって、巡洋艦「生駒」の主砲である45口径30センチカノン2門入砲塔1基が洲崎第一砲台に、巡洋艦「鞍馬」か「伊吹」の副砲と思われる45口径20センチカノン2門入砲塔2基が、大房岬に配備されたのであった。その際砲台を隠すために、植樹などで偽装工事をし航空機に対する防御を施している。国際的な軍縮のなかでの要塞の見直しと軍備の近代化、そこでおきた関東大震災による復旧に伴う東京湾要塞の整備は、陸海軍の連携による日本列島の不沈空母化の第一歩を示していた。

(4)東京湾要塞地帯に館山海軍航空隊開隊

1921年のワシントン会議以来、世界的には軍縮の方向にあったが、戦艦の制限で失った戦力を補助艦の拡張によって補おうとする傾向が生じた。また海軍では条約制限外の兵力として、航空兵力の拡充を図ることになる。とくに27(昭2)年の補助艦制限のためのジュネーブ軍縮会議の決裂は、建艦競争に拍車をかけた。しかし各国とも軍縮による財政負担の軽減が課題とされていたので、29年の世界大恐慌を頂点とする世界的経済不況のとき、国際会議を望む声が高まっていた。

1930年ロンドンで補助艦制限のための軍縮会議が開催され、再び海軍は対米7割を強硬に主張することになる。しかし、またもやわずかであるが、7割の比率が下回ったことで、海軍内部では意見対立が鮮明になり、軍縮反対の声が高まった。だが経済不況さなかの建艦競争は、日本に不利との国際的な見地から、海軍の反対を抑えて条約は批准された。

ところで航空兵力の拡充のため、1916(大5)年議会では航空隊設備費を承認し、飛行隊3隊の配備が決定した。3月には海軍航空隊令を発令し、「海軍航空隊はこれを横須賀軍港に置き、なお必要に応じ他の軍港、要港およびその他要地に置く。海軍航空隊はその所在の地名を冠す」と規定された。そして4月には、海軍最初の航空隊が横須賀に開隊され、水上機が配備された。19年には飛行隊を5隊、さらに翌年9隊が増隊し、通算17飛行隊計画は議会で承認され、31(昭6)年完成を目途に進められた。こうして横須賀、佐世保、霞ヶ浦、大村、館山、呉と6航空隊が次々と開隊され、17飛行隊配備計画から11年かけて、海軍航空隊の基礎が固められていったのである。この時期、金融恐慌や世界大恐慌に突入した時期にもかかわらず軍事費の拡大が図られ、とくにロンドン海軍軍縮条約が調印された1930年には補助艦の不足を補うため、第一次軍備拡充計画を立てて航空兵力の増強を柱にしていった。

1930年6月1日、横須賀鎮守府所属の帝都防衛の実戦航空部隊として、全国5番目になる館山海軍航空隊が東京湾要塞地帯の一角に開隊した。この飛行場は関東大震災で館山湾岸の笠名海岸と沖の島、さらに鷹の島を結ぶ一帯の海底が隆起し、遠浅になったところを埋立て建設したものであった。波静かな湾内は水上機の発着に適し、また滑走路が海上にあり航空母艦の形状に似ていたので、艦上攻撃機などの訓練に適していた。航空隊では機種によって水上班と陸上班とに分け、とくに練習航空隊卒業直後の新搭乗員訓練(練成)を受け持った。

1930年代に入り、飛行艇による海上哨戒や索敵任務だけでは限界があるとして、陸上を基地とした長距離の行動が可能な偵察機の試作がはじまった。当時航空本部技術部長は山本五十六少将であった。三菱の新開発発動機を搭載した複葉双発艦上攻撃機を陸上機に変更して、32(昭和7)年10月「九三式陸上攻撃機」として、第1号機が各務ヶ原飛行場で初飛行がおこなわれた。そして、第2号機から7号機まで「館空」に空輸され本格的な実験が開始されるとともに、実験飛行が繰り返され機体・発動機の改良が重ねられ、34年日本で最初に引込脚方式を採用した双発中翼単葉機の実験に成功して、35年2月22日には、「九六式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)」として、得猪治郎少佐指揮の6機部隊が「館空」に配備され、本格的な実用訓練に入った。翌年9月には館山・サイパン間の2.220kmを途中数時間の悪天候を克服して無着陸飛行に成功し「中攻」の信頼性を高めた。その年の4月には「中攻」専用基地として木更津航空隊が開隊したので、翌年7月に「館空」から「中攻」部隊が移駐された。今、基地内の格納庫そばに「中攻隊発祥の地」の石碑がある。

満州事変以降、航空兵力を拡張強化するため、次々に海軍の軍備補充計画が提起され、議会で承認されていった。37年7月、蘆溝橋事件を契機とする日中戦争の勃発で、8月15日には「館空」で訓練され、その後木更津航空隊所属になった「中攻」部隊が、いわゆる「渡洋爆撃」と呼ばれる作戦を開始し、中国空軍力をたたくため南京や上海周辺の航空基地に空爆をくわえた。以来中国の都市に対して無差別の戦略爆撃がはじまり、日中戦争の拡大と泥沼化に拍車をかけることになった。

手元にあるの「軍極秘 昭和14年6月館山海軍航空隊現状申告覚書」(防衛研究所図書館蔵)によると、当時基地には准士官以上104名と下士官・兵1435名、そして特別教育中の搭乗員231名がいた。とくに教育訓練では「現下膨張シツツアル航空隊ノ要員養成ニ於テ其ノ基礎的教育ノ良否ガ懸ツテ将来我海軍航空部隊ノ素質ニ影響スル・・・殊ニ本隊ハ水上機ノ全部、艦上機ノ一部即チ海軍航空特別教育ノ大部ヲ擔當スル重責ニアル・・・」と述べ、「毎日平均艦上攻撃機三〇機水上偵察機三〇機計六〇機ヲ使用シツツアリ」と報告している。館山航空基地には八九式艦攻23機、九七式艦攻40機、九四式水偵30機、九五式水偵22機など124機が配備されるとともに、当時海軍航空機の兵站基地として、漢口・南京・高雄などの中国戦線の基地に九七式艦攻を送り込む任務を負った。

1941年の開戦直前では、セレベス島メナドのランゴアン飛行場とチモール島クーバン飛行場への攻撃を展開した海軍落下傘部隊(横須賀第1特別陸戦隊・横須賀第3特別陸戦隊)が、館山海軍砲術学校で指揮官養成訓練し、「館空」の飛行機を使用し降下訓練をおこなっている。41年9月20日付で2個部隊1500名の部隊編成が発令され、三ヶ月で急遽落下傘兵を養成することが命ぜられた。館山基地が降下訓練地になり、10月には降下に失敗しての死亡事故も発生するが、猛訓練が続けられた。11月16日には30数機の九六陸攻を使い数百名の落下傘兵が霞ヶ浦で降下することに成功し、開戦直前に館山基地から台湾に進出している。42年1月10日メナドに奇襲占領作戦が発令され多大の犠牲があったが、翌日飛行場を制圧している。

開戦後この基地ではいくつかの航空隊の編成・訓練基地として使用された。なかでも大村謙次中尉が指揮するB29出撃基地への挺身攻撃隊である「第二五二航空隊」(「二五二空」と略)戦闘三一七飛行隊の零戦12機は、館山基地で実況を想定した猛訓練をおこない、44(昭和19)年11月26日に、後に「神風特別攻撃隊第一御盾隊」と呼ばれる特攻隊として、館山基地から硫黄島に飛び、サイパンへ出撃した。

この12月には、対潜水艦哨戒・船団護衛航空隊である「第九〇三航空隊」(「九〇三空」と略)が開隊され、九七艦攻・水偵・大艇などの基地となった。この時点で部隊としての「館空」は「九〇三空」に統合されて、一度解散している。

1945(昭和20)年春の時点では「九〇三空」のほかに、「二五二空」(司令部は茂原基地)の零戦も配備されており、2月16、17日の米艦載機との空中戦で戦死者もでている。5月15日に「九〇三空」の司令部が大湊に移転したことで、再び「館山海軍航空隊」が開隊され、九七艦攻・水偵をもって対潜哨戒を敗戦まで実施している。

 

●≪航空隊の変遷(概要)と主要配備航空機≫

1930(昭和5)年に館山航空基地が建設されて、初代の「館山航空隊」(略号タ)がおかれて以来、二代目の「館空」、「九〇一空」派遣隊(「陸攻」「飛艇」43年12月)、「九〇三空」(「陸攻」「艦攻」「水偵」44年12月)などが配備され東京湾および関東近海の防衛の中心基地として使用された。そのほか、「二五二空」(「艦戦」42年9月・44年2月再建)・「二八一空」(「艦戦」43年3月)・「三〇一空」(「艦戦」44年5月)・「三四一空」(「艦戦(爆)」44年1月)・「五三一空」(「艦爆」43年7月)などでがこの基地で錬成をおこなっている。

主要配備航空機は、零戦・紫電・九六式陸攻・九四式水偵・零式水偵・九七式大型飛行艇・二式大型飛行艇・二式輸送飛行艇晴空などであった。終戦時に米軍へ提出した書類(1945年9月1日付)には、零戦15機・紫電1機・九九艦爆2機・九七艦攻5機・天山1機・九〇練機2機・零観機・二式水戦1機・九四水偵2機・零水4機の合計41機が基地におかれていた。

(5)要塞地帯の防諜(スパイ防止)体制

1899(明32)年、軍機保護法と要塞地帯法が公布され、防諜(スパイ防止)法規が整備された。日中戦争の勃発で37年には軍機保護法が改正され、軍事上の秘密を軍事機密、軍事極秘、軍事秘密に分け、種類や範囲は陸海軍各大臣の命令で定めることができるとされたほか、探知収集、漏洩行為に対する刑罰規定が改正された。さらに39年には、軍機保護法による軍事秘密の保護の範囲をさらに拡大し、国防目的の軍用資源に関する事項を外国に漏洩防止するため、軍用資源秘密保護法を制定した。こうして法律で外国人たると日本人たるとを問わずスパイ対策が強化されるなか、とくに日中戦争の勃発とともに各地に防諜関係の団体を結成した。千葉県では、東京湾に面する地域一帯が要塞地帯法の指定地域となり、住民が住民を監視する防諜体制を敷いていった。37年には安房郡館山北条町に安房要地青年協会が、君津郡17ヵ町村青年団を中心に君津要地青年協会が結成されていった。

千葉県では写真撮影によるスパイ活動防止のため、全千葉県写真連盟によってカメラ登録制が実施された。登録者には千葉県警察部、千葉県各憲兵分隊、全千葉県写真連盟の三者連名による登録証が交付され、カメラを携行する場合には登録証の携帯が義務づけられた。また、国民に防諜意識を普及する全国「防諜週間」では、千葉県は期間中に講演会、映画会の開催をはじめ、防諜作文の募集、ポスター、パンフレットの配布等が積極的に取り組まれた。さらに、その徹底を図り実践を強化する目的で、42年7月13日から一週間「戦時国民防諜強化運動」が全国一斉に実施され、運動期間中において千葉・館山・木更津の各警察署では、スパイが同署管内に潜入したとの想定の下に演習がおこなわれた。44年、戦局の緊迫化に伴い要塞地帯にある内房海岸への学童疎開要請も、要塞司令部は防諜上不許可にし、2月には千葉県内の防諜強化のため東京湾岸を管轄する千葉・館山・湊・木更津など11警察署に、翌年1月には残りの18警察署において、警察署を単位とする地区防諜協議会を設置している。

東京大空襲をはじめ、本土に対する空襲が激化するにともない、「マリアナ時報」等の降伏宣伝ビラが米軍機によって散布された。内務省は「敵ノ文書図画等ノ届出ニ関スル件」を公布し、宣伝ビラ等を発見または拾得した者は届出することを義務づけるなど、住民に対する防諜体制の徹底を図った。しかし、6月の東部憲兵隊文書「流言飛語流布状況ニ関スル件」によると、本土決戦に関わり「沖縄戦局ニ期待及至関心ヲ有シ大部悲観的憶測」や、空襲への「依然被害誇大吹聴、敵宣伝ビラニ因ル憶測」が多いと報告されている。

(6)本土決戦体制下の安房

1943(昭18)年9月30日の御前会議では、絶対国防圏を設定し、中部太平洋では、トラック・マリアナ諸島を主陣地とした。翌年6月15日、米軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸し、日本軍守備隊が玉砕するとともに、マリアナ沖海戦で連合艦隊が大敗北したので、制空制海権を失い絶対国防圏は崩壊した。

大本営は7月20日、「本土沿岸築城実施要綱」で本土防衛の沿岸砲台や陣地構築を示したので、東京湾要塞は、敵の上陸阻止を主眼とした主抵抗地帯の骨幹や主要火力施設の構築を命じた。かにた婦人の村敷地内には、「館空」や「洲ノ空」を一望できる地下壕があり、今も「作戦室」「戦闘指揮所」と明示されたコンクリート製の額がある。地下壕はこの時期に構築されもので、本土決戦抵抗拠点「128」高地にあり、12月に完成し東京湾要塞は本土決戦の本格的な準備に入っていった。

そして1945年1月19日に本土作戦が上奏され、国内の軍事的方策として「帝国陸軍作戦計画大綱」が示された。内容は「敵の本土侵攻にあたっては、努めて洋上ないしは水際における撃滅を図ることとするが・・・特に地形等を利用して堅固な陣地を構築するはもとより、より縦深的な陣地を構築・・・」とした。これに準拠した「東京湾守備兵団作戦方針大綱」は、「水際における撃滅戦を第一義とし・・・水際陣地および永久要塞を基幹として主抵抗拠点を整備強化・・・偽陣地を構築して敵を眩惑・・・敵の上陸が予想される館山湾・平砂浦・千倉湾に特に邀撃態勢を強化する」とした。

本土決戦が叫ばれるなか、安房の人々があらためてその実感をもったのが、2月16日午前7時頃から房総半島中心に侵入した、米第58機動部隊艦載機延べ1000機(F6Fヘルキャット戦闘機・F4Uコルセア戦闘機・SB2Cヘルダイヴァー急降下爆撃機など)による硫黄島攻略の側面支援の空襲であった。午前7時5分、白浜監視哨が「敵小型機編隊、北進中」と報告したが、侵入高度約400mでは白浜城山レーダー基地の電波警戒機乙では捕捉できなかった。7時15分、厚木の「三〇二空」と茂原基地・館山基地を拠点とした零戦240機を配備の「二五二空」が出撃した。館山航空基地では、米軍機の機銃掃射と空爆の急襲をうけた。翌17日も関東各地の軍事施設は、激しい艦載機の攻撃をうけた。

 

●《調査研究ー1945年2月16・17日の館山空襲》

資料・防衛研究所図書館所蔵

軍極秘 自昭和二十年二月一日 至昭和二十年二月二十八日

第二五二海軍航空隊(館山基地)戦時日誌

第三航空艦隊第二五二海軍航空隊戦闘第三〇四・三一六飛行隊

(抜粋)

 

作戦経過概要

記事

曇天 朝六時(気温一度)

〇四三〇 即時待機零戦二十一機

〇五〇〇 第一警戒配備

〇六五五 「F6F」「F4U」

八機奇襲飛行場

銃撃 対空射撃 戦果ナシ

被害 零戦二機炎上

〇七〇五 零戦十五機発進

房総半島南部上空哨戒

〇七三〇 「F6F」十五機飛行場銃撃

対空射撃 戦果ナシ

被害 零式練戦一機炎上

〇七五〇 「F6F」八機飛行場銃撃

対空射撃 戦果ナシ

被害ナシ

〇八五〇 「F6F」四機飛行場銃撃

一〇五〇 「F6F」十四機飛行場銃撃

戦果被害ナシ

一一一〇迄ニ零戦八機降着戦果ナシ

一一一二 零戦三機発進

一一二五 零戦八機発進

木更津上空哨戒

一二三〇 「F6F」四機飛行場銃撃

対空射撃 戦果ナシ

被害 零戦一機炎上

一三二〇 木更津上空哨戒機八機

「F6F」約十機ト交戦戦果ナシ

一七四五 零戦六機帰投

茂原基地

木更津基地 不時着機各一機

一八〇〇 待機解ク

 

二月十六日

戦果

帰還機ニハナシ

被害

戦死 五

未帰還 五

戦傷 一

零戦 十機

練戦 一機

快晴

〇四三〇 即時待機零戦十機

〇五〇〇 第一警戒配備

〇六一五 零戦十機発進

(内二機発動機不調ノ為帰投)

基地西方相模灘上空哨戒

〇六五〇 相模灘上空哨戒中ノ零戦八機

高度七〇〇〇ニテ来襲セル

「F6F」一二機中ノ六機ト交戦

「F6F」四機ヲ撃墜セリ

(内一機不確実)

〇七五〇 零戦四機帰着

〇七五二 「F6F」四機飛行場銃撃

〇八五三 「F6F」十機飛行場銃撃

一二四七 「F6F」十二機飛行場銃撃

一三三〇 零戦二機帰着

一四〇〇 零戦五機発進

木更津・館山間

高度八〇〇〇上空哨戒

一六二〇 全機帰投敵ヲ見ズ

一八〇〇 待機解ク

 

二月一七日

戦果

「F6F」

四機撃墜

被害

零戦一機

被弾墜落

一機被弾

空中火災

搭乗員落下傘

降下軽傷

明日使用可能機

六機

 

3月6日、米軍に占領された硫黄島に米陸軍戦闘機集団P51ムスタングが進出したことで、安房地域は米軍の最前線に位置することになり、東京湾要塞地帯の軍事施設は直接攻撃対象となっていった。

3月8日に房総半島南部での作戦命令があり、4月1日に東京湾要塞戦闘司令部を館山那古に設置するとともに、鋸山には複郭陣地を構築し、最後の抵抗拠点としての戦闘司令所を予定した。陣地構築と戦闘配置は、「師団戦闘訓練要綱」に従い、沿岸配備兵団と決戦兵団による持久戦と水際戦を併用した作戦に準拠した。また要塞の参謀長の作戦「甲226号」命令では「築城実施・・・蛸壷その他の掩護処置を準備」し、「・・・森林なき地域の陣地は全面的に耕作物を・・・遮断偽装を兼ね食糧増産」する。また「房総地区における偽陣地の構築は・・・防諜上格別の配慮を払い勤労に従事する住民等に対しては真陣地として作業」させると指示した。こうして安房地区では偽陣地を白浜北側・七浦・健田村・112高地付近・和田北側・大塚山・宝性寺西北側高地・内浦湾西北側高地・江見東側高地・太海付近などに住民、学生などを動員し構築した。

4月8日第1総軍、第2総軍、航空総軍の戦闘序列が発令された。兵団では「概ね一会戦分、自動車燃料・・・沿岸配備兵団兵力に応ずる約1カ月分,糧秣については、兵団予備として、約3万人10日を控除して各部隊に作戦用糧秣」を交付することを決めた。兵団は自給自活を確立するために、物資収集班や製炭班、食糧生産などの規則を定めたり、漁業会への援漁隊や安房郡市町村への援農隊を派遣した。武器生産の面でも金谷に臨時造兵隊を開設し、陣地構築の道具や築城資材、また迫撃砲や迫撃弾薬(10万発)と重擲弾筒や重擲弾薬(5万発)の簡易兵器、さらには本土決戦用として特別の刺突爆雷(5千個)や手榴弾(10万発)などの生産をすすめた。また有(無)線の断絶に備えて視号通信による準備や訓練を実施し、特設見張所や電波警戒機の設置、列車砲の編成、さらにはロケット特攻機「桜花」43乙型噴進射出装置を備えた基地施設を三芳村下滝田などに構築することを命じている。

この頃、千葉県市町村では国民義勇隊がつぎつぎと結成され、5月31日には館山市でも結成された。6月8日の御前会議で戦争の完遂が決定し、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が示された。「国内に於ては挙国一致皇土決戦に即応し得る如く・・・国民義勇隊の組織を中軸とし・・・」と述べられ、老幼者や病弱者、妊産婦を除く全国民が皇国護持の精神で、会社工場の職域や一定地域ごとに結成を命じた。22日には国民義勇兵役法が施行され、本土が戦場のときは、国民義勇隊のなかの15歳から60歳までの男子と、17歳から40歳までの女子が、国民義勇戦闘隊となることが定められた。こうして「一億総特攻」をスローガンに国民の軍隊化が図られていった。

6月19日、東京湾守備兵団は東京湾兵団と改称し、23日には戦闘序列を変更し兵団には、第354師団と独立混成第114旅団が投入され、帝都防衛最前線として兵力が増強された。配備の重点は「館山周辺地区に保持し、積極果敢なる攻撃動作を相まちて、敵の南房上陸企図を水際に撃摧すると共に、三浦半島守備兵団と相協力し敵の東京湾突破企図を阻止」するとし、第354師団の主力は平砂浦、千倉および那古町付近一帯に置き、一部を加知山および富浦町付近に配置した。また三浦半島には独立混成第114師団を配置し、8月1日以降の陸上作戦に関しては、横須賀鎮守府司令長官の指揮下とした。

7月1日の「東京湾兵団第三次沿岸築城要綱」により、「最近の戦訓、戦闘方式の変遷に対応し、陣地全般の構築を再検討すると共に、敵の本土侵攻に際しては、水際陣地において撃滅し得るごとく、戦力指向の重点を水際近くに推進し、陣地骨幹施設の概成を8月末、第3次兵備の部隊については9月末」と命じた。7月15日の本格的な本土決戦の戦闘地境や作戦任務では、「・・・遂に本土の一角に艦砲射撃を加ふ本土決戦・・・目睫の間に迫る」「・・・配備の重点を館山周辺地区に保持し・・・敵の南房総上陸企図を水際に撃摧するとともに・・・敵の東京湾口突破企図を阻止す」ると定め、各隊に対し詳細なる作戦任務を指示している。

22日に沖縄作戦が終了したことで、第12方面軍は「敵の本土侵攻作戦準備概ね完了し、その攻撃兵力は既に海上に在り。沖縄の敵兵は、7月20日移動せること略々確実」と判断した。兵団は各隊に対し「7月24日零時までに戦闘準備を完了し、有事即応の態勢を整える」ことを命じたのであった。

(8)安房の特攻基地

本土決戦体制下で海軍を中心に各種の特攻兵器の基地が構築された。房総半島南部、三浦半島南部、伊豆半島諸島では、本土決戦に備え海軍特別攻撃部隊が配置された。米軍の上陸が予想される九十九里海岸に近く、艦砲射撃に耐える岩場が多い外房の勝浦や安房小湊などは、水上特攻艇「震洋」(上陸用船舶の撃沈を目的に爆薬300キロ積載・全長5メートル・重量約1トン・トヨタ4トントラックガソリンエンジン改造搭載の軽構造木造高速艇)基地が多数建設された。

もう一方の上陸予想地点である相模湾沿岸をのぞむ伊豆半島東側や伊豆諸島、東京湾口地帯なども「震洋」だけでなく、特殊潜航艇を改良した水中特攻艇「海竜」(特殊水中有翼潜航艇・排水量19トン乗員2名)や「蛟竜」(甲標的特殊潜航艇丁型・排水量60トン乗員5名)、そして魚雷を改良した「回天」(九三式61センチ酸素魚雷改良)の特攻部隊を配置し本土決戦に備えた。記録からみると、第1特攻戦隊(楠部隊)のうちで、房総南部を中心に第18突撃隊(嵐部隊)の第59震洋部隊(真鍋隊)や第11海竜隊、第12蛟竜隊などの基地が配置されている。

房総南部の主抵抗拠点として位置づけられていた三芳村には、海軍が本土決戦の切り札として全力をあげて開発したロケット特攻機「桜花」43乙型と5式噴進射出装置(射出用カタパルト)の基地構築が命令された。この秘密特攻基地は上滝田・下滝田・吉沢・平群4カ所に分散した形態をとり、12基のカタパルトを建設する計画であった。1基のカタパルトには5〜10機の「桜花」で、全体で50〜60機が基地に配備される予定であったという。特に上滝田や下滝田基地建設は超特急工事と指示され、8月末までの完成が命令されていた。

ロケット特攻機「桜花」は、45年3月以来実戦に使用されていた海軍の特攻機である。当初の11型や22型は航空機によって敵艦隊近くまで運ばれ、ロケット噴射で高速で滑空しながら体当たりするタイプであった。しかし本土決戦のなかで、沿岸に近づく艦船を直接攻撃する陸上カタパルト発射用に改良した43乙型が試作された。全金属製機体に800キロ爆弾を搭載し、推進にはターボジェットエンジンを使っており、射出には火薬ロケット噴射の台車がレール上を高速で移動するカタパルトが開発された。カタパルト基地建設は貧弱な作業用具による昼夜の突貫工事で、教育部隊の練習生や予科練の少年たち、あるいは地域の民間人が勤労動員されたとの記録がある。三芳村下滝田の建設では、朝鮮人労働者がいたとの証言もある。8月に入り、カタパルト基地は完成間近の状態になったが、「桜花」43乙型実用機が量産に入る前に敗戦になった。

もし房総半島を中心とする本土決戦に突入すれば、三芳は真っ先に米軍の大規模な艦砲射撃を受けたと想定される。戦後上陸した米占領軍は、すぐに安房の特攻基地の調査をおこなっている。

終戦直後にまとめられたものと思われる「桜花」資料が手元にある。この「発着兵器 基地兵器 航空兵器 加速用火薬ロケット 桜花射出機(5式噴進射出装置)」(防衛研究所図書館蔵)から若干引用すると、「戦局上特定艦以外の建艦中止と飛行機搭乗員の教育中止の止むなき状況となり愈々本土決戦を決意する時期」になったので、「桜花43乙型は単葉タービンロケット推進の脚なし単座特攻機で頭部は800瓩の爆弾になって居り、120浬程度の航続距離を有する人間爆弾の一種」で、「敵艦船本土近傍に来襲せば射出機により射出し、敵艦を求めてこれに突入し撃沈せんとするものであった。謂わば人間砲弾を発射する要塞砲に相当するもの」として、桜花43乙型射出基地が建設されることになった。

そのため「急遽大量の製造を要する関係上、普通の飛行機に比し極めて高き射出速度を要求・・・従来形式の射出機にては其の解決は不可能であった・・・火薬式ロケットを射出原動力」とする秘匿名マル特射出機という5式噴進射出機10型を開発した。「本射出装置は2條の溝型軌條をコンクリート基礎上に装備し、その前部に特型射出機と同様の抑止装置と、始発点に改造離脱装置を装備せる以外には何物もなく、滑走車は4点支持とし、前部支柱は起倒式、後部支柱は固定式にして、車体上面に並列に2本の4FR140火薬ロケットを装備せるものでロケットが点火作動せば滑走車は自動的に離脱する方式」であった。この装置の第1号機は「昭和20年7月上旬に完成し、三浦半島武山海軍基地の高台に装備し、射出訓練機による射出実験を実施し極めて良好なる成績を得た」しかし「此の時期迄には既に桜花43型の実用実験機が出来る予定であったが、遅れて未だに実現しなかった」と述べている。

また「実用基地は伊豆半島8基、房総南部6基、房総東部6基、筑波附近6基、大井附近6基、志摩半島6基、紀州田辺附近10基、三浦半島2基、計50基と予定・・・5月初めよりこれ等の基地調査を開始した。最初海岸附近を調査したのであるが、調査の中途より方針が変更せられ、基地設置地点は概ね海岸より10浬附近の奥地に変更となり・・・7月末概ね決定せられた。候補基地は次の通りであった。

伊豆半島 竹ノ沢・第二笹良台・第一髪ノ沢・第二髪ノ沢・十国峠・池ノ平

房総南部 上滝田・下滝田・吉沢・平群

房総東部 黒原・行川・大多喜女学校・大多喜中学校

筑波附近 閉居山大師・五輪堂・村上・戸ノ内

大井附近 影島・城壇・山田(鳴海)附近

鳥羽附近 稲村・大坊・団栗

 

上記候補地の内、8月末使用可能を目途として工事に着手した基地は、伊豆半島に於いては十国峠及竹ノ沢、房総南部に於いては上滝田及下滝田、同東部に於いては黒原・行川、筑波に於いては五輪堂及閉居山の8基地であった。而して全基地の完成は10月末と予定せられたが何れの実用基地も完成するに至らなかった」と報告している。

 

《参考》本土決戦下の安房地区の陸海軍戦力

*陸軍関係

東京湾要塞司令部・直属部隊 15005名

第354師団 11903名

第147師団427連隊 3850名

独立混成第96旅団 6247名

独立混成第114旅団 6929名

第12方面軍関係 669名

暁部隊(水上特攻マルレ艇) ?名

合計 44603名

 

*海軍関係

横須賀砲術学校館山分校 1395名

館山警備隊 ?名

(呉鎮101特別陸戦隊・山岡部隊350名)

第2海軍航空廠館山補給工場 ?名

洲ノ埼航空隊 11000名

館山航空隊 2804名

(九〇三航空隊) ?名

魚雷艇隼部隊 ?名

水陸両用戦車隊 ?名

横須賀防備隊 ?名

第1特攻戦隊第18突撃隊 1700名

本部基地(岩井袋)第59真鍋部隊

(館山波佐間・洲崎・鋸南・岩井袋・勝山)

第11海竜隊・第12蛟竜隊

合計 17249名

と陸海軍の総兵力は7万人ちかい数字ではあるが、基本資料がなく不明なことが多い。

 

《主要参考文献》
戦史叢書「本土決戦準備(1)」(朝雲新聞社)
「東京湾要塞歴史」毛塚五郎
岩波講座「世界歴史」現代2(岩波書店)
「日本築城史」 浄法寺朝美著(原書房)
「海軍航空隊年誌」永石正孝著(出版協同社)
「千葉県警察史」第2巻
防衛研究所図書館所蔵資料参照
米国戦略爆撃調査団「報告書」