安房にみる「戦後50年」〜東京湾要塞地帯における戦時下の安房
≪千葉県高等学校教育研究会歴史部会会誌『房総史学』(1996年)≫
【はじめに】
安房は戦前戦中において、東京湾要塞の房総側拠点として、軍事上の最重要地域であった。また戦争末期には本土決戦体制のもとで、米軍の上陸想定地点であったので、狭い地域に多数の部隊が配備され、岩場のあるところにさまざまな特攻基地が建設された。そのことは敗戦直後、米軍が武装解除を命じたとはいえ、日本軍を牽制するために、まず東京湾口の軍事拠点である館山に、占領軍を上陸させることになった。
昨年、私たちはさまざまな思いをもって「戦後50年」をむかえた。安房では、地域の人々と高校教師が中心となり「戦後50年・平和を考える集い」実行員会を結成し、地域から戦争の事実を掘りおこしながら、戦争のもつ意味をさぐる試みをしてきた。本稿では、調査研究で浮き彫りになった、東京湾要塞建設の経緯や要塞地帯の軍事施設、また防諜体制と住民の様子、さらに戦時下における安房地域の軍隊と本土決戦体制下の特攻基地などを概観したい。
【(1)東京湾要塞と安房】
① 東京湾要塞の建設
要塞とは、敵軍の侵入を防ぐため要害の地に築いた砦のことで、敵の攻撃に対し一定の地域の強化した軍事手段を要塞化といい、防御のための砲台などの施設が戦術的に配備された。近代の国境要塞は敵侵入を阻むだけでなく、侵略を容易にする目的でも建設された。とくに海岸(沿岸)要塞は海峡・湾口にもうけられ敵艦艇の行動を制限したり、侵入を阻止するととともに軍事拠点となった。しかし第一次世界大戦を境に、武器が高性能で強力なものに改良され、航空機・戦車・化学兵器・潜水艦の出現で、要塞の戦略的戦術的意味は大きく変わっていった。
日本では明治期に主要海峡や港湾の防衛のための、大規模な海岸要塞建設が開始された。そのスタートが東京湾岸にある観音崎と富津での砲台構築であった。要塞は日清戦争後では海防充実の一環として、日露戦争前後には、対外侵略の戦略として位置づけられた。一八九五(明三〇)年の要塞司令部条例によって、永久防御工事を施し守備している地域は「要塞」とされ、その周辺一帯も「要塞地帯」と呼ばれることとなった。
なかでも一八八〇(明一三)年に起工され、一九三二(昭七)年に完成した東京湾口にある「東京湾要塞」は、帝都と横須賀軍港を防御する第一級の要塞であった。まず富津岬と観音崎との間に三つの海堡を置き、三浦半島側では横須賀軍港地区をはじめ、走水・観音崎、久里浜、三崎の各地区に、房総半島では富津をはじめ、金谷や大房岬、館山洲崎の各地区に、東京湾口全域を射程に入れた多数の砲台が配備されたのである。
要塞建設で重要であったのは、コンクリート工法の導入や国産の火砲製造であった。一八七五年に官営工場でセメント製造がはじまり、その後民営の小野田セメントや浅野セメントが設立され、東京湾要塞の建設に初めてコンクリートを使用することになる。一八九〇年には、鉄筋コンクリート技術が外国から導入され、要塞建設に一段と拍車がかかった。
日清戦争の勃発により全国規模で要塞建設がすすみ、日露戦争ではウラジオストック艦隊が津軽海峡を通過し、東京湾外に現れたことで、帝都防衛の最前線として東京湾要塞が一段と重要視された。その間、一九〇一年には、官営の八幡製鉄一号炉の火入れがあり、従来輸入に頼っていた火砲の国産化がはじまった。
ところで要塞地帯法は、陸軍省海軍省告示という形で三度改正されている。一九四〇年には、対米英戦準備の緊迫した状況のもとで、海軍省によって要塞区域が拡張された。東京湾要塞地帯は主に陸軍東京湾守備兵団に属していたが、海域部が海軍横須賀鎮守府管轄なので、東京湾口や横須賀軍港の防御では、連携することで帝都防衛に関わっていた。
② ワシントン体制と東京湾要塞の強化
東京湾要塞の房総地区にあった洲崎第一砲台や大房岬砲台は、極めて困難な作業で、軍艦に搭載されていた砲塔、つまり艦載砲塔を陸上砲塔に改修したものであった。とくに洲崎第一砲台は一番最初に設置されたもので、当時、全国四大要塞砲台のひとつといわれた。このように艦載砲を要塞に配備するなどの軍事力強化は、第一次世界大戦後におけるワシントン体制下の軍事的戦略的対応からであった。
一九二一(大一〇)年一一月から翌年二月まで、ワシントンにおいて海軍軍備制限と極東・太平洋に関する国際会議が開催された。この会議で、第一次世界大戦後の極東における戦勝国間の相互関係と、アジア諸民族に対する支配体制がつくられ、ワシントン体制と呼ばれた。
第一次大戦のドイツ敗戦によって、極東での列強の勢力関係が変動し、ヴェルサイユ条約によって山東地方の旧ドイツ利権や、赤道以北の太平洋諸島の委任統治権などを獲得した日本が、急速に中国や太平洋に進出したので、アメリカ・イギリスは日本を牽制する機をうかがっていた。また各国とも戦後における軍備の近代化に財政が逼迫し、軍備拡張競争は大きな負担になっていた。
会議はアメリカの主導ですすめられ、軍備制限案では、建造・設計中の主力艦(戦艦と巡洋艦)の全部と現存の老齢艦の一部を廃棄して、主力艦の総トン数の比率をアメリカ五:イギリス五:日本三の割合が提案された。日本はこれに対して一〇:一〇:七の比率を主張したが、結局海軍の要求する対米七割の比率は実現しなかった。
ところで日本海軍では、「帝国国防方針」によりアメリカを仮想敵国として、アメリカ海軍と対抗する「国防上ノ第一線艦隊」を構想し、一九一一年以来、艦令八年未満の戦艦八隻と巡洋艦八隻とを主力とした、いわゆる「八八艦隊」計画に基づいて建艦していた。この軍備増強で軍事費全体が、政府歳出総額の半分近くになったので、財政上政府は海軍の軍縮を望んでいた。
条約調印によって、主力艦などの保有量が制限(米英各一五隻・日本九隻)されたので、未完成の艦艇建造は中止に追い込まれた。結局、「赤城」と「加賀」は航空母艦に改装され、また主力艦の「生駒」など六隻は解体され、「安芸」など四隻は撃沈することに決定した。この経緯のなかで、陸軍は海軍と交渉し、解体の主力艦の「摂津」「生駒」「鞍馬」などの大口径砲塔を海岸要塞に据え付けて、沿岸防備を強化し、海軍力の劣勢をおぎなうことにした。とくに第一線級の要塞である東京湾、津軽、対馬、壱岐、鎮海湾に配備されることになった。
この間東京湾要塞は、一九二三年の関東大震災により大きな被害をうけ、復旧とともに前述のような艦載砲塔配備による強化が図られることになる。こうして一九二八(昭三)年から四年間にわたる工事によって、巡洋艦「生駒」の主砲である四五口径三〇センチカノン二門入砲塔一基が洲崎第一砲台に、巡洋艦「鞍馬」か「伊吹」の副砲と思われる四五口径二〇センチカノン二門入砲塔二基が、大房岬に配備されたのであった。
国際的な軍縮のなかでの要塞の見直しと軍備の近代化、そこでおきた関東大震災による復旧に伴う東京湾要塞などの軍事力強化は、陸海軍合作になる太平洋をにらむ日本列島不沈空母化の第一歩になった。
【(2)東京湾要塞地帯と館山海軍航空隊】
ワシントン会議以来、世界は軍縮の方向にあったものの、制限された主力艦戦力を補助艦で補おうとした。日本海軍は条約制限外の兵力として、航空兵力の拡充を図ることになる。しかし各国とも軍縮による財政負担の軽減が課題とされていたので、二九年の世界大恐慌を頂点とする世界的経済不況のとき、国際会議を望む声が高まり、翌三〇年ロンドンにおいて、補助艦制限のための軍縮会議が開催された。再び対米七割が下回ったことで、海軍内部に軍縮反対の声が高まったが、不況さなかの建艦競争は、日本に不利との国際的な見地から条約は批准された。
ところで一九一六(大五)年、海軍からの航空兵力要求にそって、議会では航空隊設備費を承認し、飛行隊三隊の配備を決定した。三月には海軍航空隊令を発令し、「海軍航空隊はこれを横須賀軍港に置き、なお必要に応じ他の軍港、要港およびその他要地に置く。海軍航空隊はその所在の地名を冠す」と規定された。そして四月には、海軍最初の航空隊が横須賀に開隊され、水上機が配備された。以後一七飛行隊計画が議会で承認され、三一(昭六)年完成を目途に、横須賀、佐世保、霞ヶ関、大村、館山、呉と六航空隊が次々と開隊され、一一年かけて海軍航空隊の基礎が固められていった。
金融恐慌や世界大恐慌に突入した時期にもかかわらず国家財政上、軍事費の拡大が図られたことである。ロンドン軍縮条約が調印された年に、海軍は補助艦の不足を補うため、第一次軍備拡充計画をたて、とくに航空兵力の増強を柱にした。この年六月、横須賀鎮守府所属の帝都防衛の実戦航空部隊として、全国五番目に館山海軍航空隊(通称「館空」)が、東京湾要塞地帯の一角に開隊した。
館山湾岸の笠名海岸と沖の島、さらに鷹の島を結ぶ一帯の海底が関東大震災で隆起し、遠浅になったところを埋立てして、飛行場が建設された。波静かな湾内は水上機の発着に適し、また滑走路が海上にあり航空母艦の形状に似ていたので、艦上攻撃機(艦攻)などの訓練に適していた。航空隊では機種によって水上班と陸上班とに分け、とくに練習航空隊卒業直後の新搭乗員訓練(練成)を受け持った。一九三五年には、九六式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)部隊が配備された。
満州事変以降、航空兵力を拡張強化するため、次々に海軍の軍備補充計画が提起され、議会で承認されていった。三六(昭一一)年四月には、陸上攻撃機専用基地として木更津航空隊が開隊し、翌年七月には「館空」から「中攻」部隊が移駐している。一九三七年七月、蘆溝橋事件を契機とする日中戦争の勃発で、八月一五日には「館空」で訓練され、その後木更津航空隊所属になった「中攻」部隊が、いわゆる「渡洋爆撃」と呼ばれる作戦を開始し、中国空軍力をたたくため南京や上海周辺の航空基地に空爆をくわえた。以来中国の都市に対して無差別の戦略爆撃をおこない、日中戦争の拡大と泥沼化に拍車をかけることになる。
手元にある「軍極秘 昭和一四年六月館山海軍航空隊現状申告覚書」(防衛研究所図書館蔵)によると、当時基地には准士官以上一〇四名と下士官・兵一四三五名、そして特別教育中の搭乗員二三一名がいた。とくに教育訓練では「現下膨張シツツアル航空隊ノ要員養成ニ於テ其ノ基礎的教育ノ良否ガ懸ツテ将来我海軍航空部隊ノ素質ニ影響スル・・・殊ニ本隊ハ水上機ノ全部、艦上機ノ一部即チ海軍航空特別教育ノ大部ヲ擔當スル重責ニアル・・・」と述べ、「毎日平均艦上攻撃機三〇機水上偵察機三〇機計六〇機ヲ使用シツツアリ」と報告している。
館山航空基地には八九式艦攻二三機、九七式艦攻四〇機、九四式水偵三〇機、九五式水偵二二機など一二四機が配備されるとともに、当時海軍航空機の兵站基地として、漢口・南京・高雄などの中国戦線の基地に九七式艦攻を送り込む任務を負っていた。
このように東京湾要塞地帯内の二つの海軍航空隊は、太平洋地域とつながった重要拠点だけでなく、中国侵略の最前線でもあった。
【(3)要塞地帯の防諜体制と安房の住民】
一八九九年、軍事機密保持と防御営造物の保安のために、要塞地帯法と軍機保護法が公布され、防諜(スパイ防止)法規が整備された。とくに防御営造物から二五〇間(約四五五m)以内の要塞地帯第一区では、一般人の出入りが制限され、地帯内の憲兵隊や警察によって住民が厳しく監視された。また指定された区域での水陸の形状を測量、撮影、模写することや地表の高低の土木工事、築造物の増改築ことには要塞司令部の許可が必要となった。
日中戦争の勃発で一九三七(昭一二)年に軍機保護法を改正し、軍事上の秘密を軍事機密、軍事極秘、軍事秘密に分けた。三九年には、軍事秘密の保護の範囲をさらに拡大し、国防目的の軍用資源に関する事項を外国に漏洩防止するため、軍用資源秘密保護法を制定し、外国人たると日本人たるとを問わず防諜が強化された。
千葉県では、東京湾に面する地域一帯が要塞地帯法の指定地域となり、三七年、安房郡館山北条町に「民間防諜の基幹となり取締官憲を援助し要地防衛の実績発揚を目的」とした安房要地青年協会が、続いて君津郡一七ヵ町村青年団を中心に君津要地青年協会が組織されている。また全千葉県写真連盟は、写真撮影によるスパイ防止のため、カメラ登録制を実施し、カメラを携行する場合には登録証の携帯を義務づけた。さらに要塞地帯の地図は一般に公表せず、重要地点を空白にした。戦時中は、東京湾側の列車の窓に鎧戸を下ろし、乗客であっても厳しい監視のもとに置いた。
当時、千葉県警察官僚は「本県ハ軍郷トモ申スベキ非常ニ軍関係ノ部隊並ニ学校ノ所在地デアリ、一面又地理的ニ帝都ニ接触シ、国防上要地ヲ占メテ居リマスノデ、防諜問題ニ付テハ非常ニ力ヲ入レテ居ル・・・防諜報国団ヲ各警察署単位ニ方々ニ作リマシテサウシテ、サウ云フ方面ノ防諜上特ニ注意セテ戴キタイ方面ノ人ニ会員ニナツテ戴キ、或ハ講演会ヲ開キ或ハ座談会ヲ開クト云フヤウナ方法デ、防諜ニ付テハ相当力ヲ尽シテ居ル・・・」と議会で発言している。
ところで防諜体制が強化されたので、どんな些細な話にも厳格に適用し、密告によって特別高等警察や憲兵隊が摘発している。たとえば、木更津海軍航空隊勤務する看護兵の息子から聞いた航空隊の出勤状況などを他人に話したことで、その父親は裁判所に呼ばれ処分されたという。また「特高月報」によると、安房郡豊田村での時艱克服聖業完遂村民総動員大会で、五九歳の男性が「われわれは今子供を二人も戦争にやってあるが、もう戦争も大概に止めてもらいたいものだ」と発言し、厭戦的で反戦的であると厳戒処分を受けている。
そして戦争末期では、東部憲兵隊文書「流言飛語流布状況ニ関スル件」によると千葉県の場合、本土決戦では「沖縄戦局ニ期待及至関心ヲ有シ大部悲観的憶測」し、空襲では「依然被害誇大吹聴、敵宣伝ビラニ因ル憶測」が多いと報告している。戦局の動向に敏感であったのか、千葉県での検挙者が多い。つまり次は房総での決戦との認識が広がり、厳しい監視下にあっても住民は、厭戦的な意識になっていたのではないか。
【(4)戦時下の要塞地帯と安房の軍隊】
① 本土決戦にむけて-特攻機「桜花」を切り札に-
サイパン陥落後、大本営は本土沿岸築城実施要綱で、本土防衛のための沿岸砲台や陣地構築を示したので、東京湾要塞では、敵上陸阻止のための主抵抗地帯の骨幹構築や主要な砲台施設の構築を開始した。
館山「かにた婦人の村」敷地内にある地下壕には、今も「作戦室」「戦闘指揮所」とのコンクリート製の額がある。この一二八高地抵抗拠点は、一二月に完成し、本土決戦にむけての本格的な準備に入っていた。
翌年一月一九日に本土作戦が上奏され、国内の軍事的方策として帝国陸軍作戦計画大綱が示され、これに準拠した東京湾守備兵団作戦方針大綱では、「水際における撃滅戦を第一義とし・・・水際陣地および永久要塞を基幹として主抵抗拠点を整備強化・・・偽陣地を構築して敵を眩惑・・・敵の上陸が予想される館山湾・平砂浦・千倉湾に特に邀撃態勢を強化する」とした。三月に入り房総半島南部での作戦命令が出され、四月一日に東京湾要塞戦闘司令部を館山那古に設置するとともに、鋸山には複郭陣地を構築し、最後の抵抗拠点としての戦闘司令所を予定した。ところで要塞の参謀長の作戦「甲二二六号」命令のなかには、「房総地区における偽陣地の構築は・・・防諜上格別の配慮を払い勤労に従事する住民等に対しては真陣地として作業」させると指示し、安房地域では偽陣地を白浜北側・七浦・健田村・一一二高地付近・和田北側・大塚山・宝性寺西北側高地・内浦湾西北側高地・江見東側高地・太海付近などに住民、学生などを動員した。
司令部は現地自活体制のために、物資収集班や製炭班、食糧生産などの規則を定めたり、漁業会への援漁隊や安房郡市町村への援農隊を派遣した。また武器生産の面でも臨時造兵隊を開設し、陣地構築の道具や築城資材、迫撃砲や迫撃弾薬(一〇万発)などの簡易兵器、本土決戦用として特別の刺突爆雷(五千個)や手榴弾(一〇万発)の生産をすすめた。
なかでも五月、房総南部の主抵抗拠点として位置づけられた三芳には、海軍が本土決戦の切り札として、全力をあげて開発した特攻機「桜花」四三乙型の五式噴進射出装置の基地構築が命令された。これは従来型「桜花」を陸上タパルト発射用に改良したもので、ターボジェットエンジン推進によって全金属製機体に八〇〇キロ爆弾を搭載し、沿岸に近づく艦船を直接攻撃するタイプであった。特攻機射出のため開発されたのが、火薬ロケット噴射の台車が高速で移動するカタパルトであった。
この秘密特攻基地は、上滝田・下滝田・吉沢・平群四カ所に分散した形態をとり、六基のカタパルトを建設する計画であった。一基のカタパルトには五〜一〇機の「桜花」で、全体で五〇〜六〇機が基地に配備される予定であったという。特に上滝田や下滝田基地建設は超特急工事と指示され、八月末までの完成が命令された。基地建設は貧弱な作業用具による昼夜の突貫工事で、教育部隊の練習生や予科練の少年たち、あるいは地域の民間人が勤労動員されたとの記録がある。三芳村下滝田の建設では、朝鮮人労働者がいたとの証言もある。八月に入り基地は完成間近の状態になったが、「桜花」が量産に入る前に敗戦になった。
② 本土決戦下の安房と「白浜艦砲射撃」
六月に入り、東京湾守備兵団は東京湾兵団と改称され、さらに第三五四師団と独立混成第一一四旅団が投入され、帝都防衛の最前線として兵力が増強された。
七月一日の東京湾兵団第三次沿岸築城要綱により、「敵の本土侵攻に際しては、水際陣地において撃滅し得るごとく、戦力指向の重点を水際近くに推進し、陣地骨幹施設の概成を八月末、第三次兵備の部隊については九月末」と命じた。七月一五日の本格的な本土決戦の戦闘地境や作戦任務では、「・・・遂に本土の一角に艦砲射撃を加ふ本土決戦」のため「・・・配備の重点を館山周辺地区に保持し・・・敵の南房総上陸企図を水際に撃摧・・・敵の東京湾口突破企図を阻止」すると定め作戦任務を指示した。
そして七月一八日夜、白浜が米軍の艦砲射撃を受けた。当時この出来事について、日本軍当局は住民に「潜水艦からの砲撃」と発表している。
米国戦略爆撃調査団「対日戦すなわち太平洋戦争に関する最終報告書」によると、一八日二三時五二分から五分間にわたって、第三八機動部隊第三五・四任務群の巡洋艦四隻と駆逐艦九隻が、一六キロ海上から夜間レーダー照準によって、白浜城山レーダー基地にむけて六インチHC砲弾二四〇発を打ち込んだ。しかし白浜レーダー基地には命中せず、付近の島崎村に三七発が着弾し、六名が死亡し一七名が負傷したという。
ところで六月二一日米軍の沖縄全島確保宣言後、ハルゼー大将が率いる一〇五隻の米海軍太平洋艦隊は、七月一日に本土侵攻事前作戦にでた。その任務は日本軍に残存する艦艇や航空兵力を壊滅し、戦争継続に関わる軍事施設・基地を破壊することであった。本土侵攻作戦をスムースにするために、米機動部隊が一四日朝からまず釜石の製鉄所に、本土初の戦艦による艦砲射撃をし、一五日に室蘭、一七日夜には鹿島灘から日立、水戸に艦砲射撃を実施した。
この一六日からは、ポツダム会談で対日作戦の話し合いがおこなわれており、アメリカは原爆実験の成功を背景に戦後の対ソ連への対応を模索しながら、対日作戦でも第三艦隊がソ連参戦前に日本本土の制海制空権を完全に確保しょうとしていた。その経緯のなかで、一八日の白浜レーダー基地への艦砲射撃には、どんな意味が考えられるか。本土侵攻作戦上、東京湾口南方一六キロ海上地点に接近し、海軍の水上水中特攻作戦を警戒しながら、白浜・千倉・布良などのレーダー基地や高射砲などの射撃用レーダーを探索したと思われる。米軍は高性能なレーダー技術をもち、電波逆探知など高度な電波戦術で本土侵攻に備えた。
ポツダム会談期間中も、B29による無差別爆撃は熾烈を極め、早期無条件降伏のために第三艦隊の任務が、遂行された。本州東岸沿いに夜間航行制圧と沿岸艦砲射撃掃討に対しても、日本軍は攻撃らしい攻撃をしてはいない。のちハルゼーは室蘭砲撃の回想のなかで「司令部の大部分の者は、日本にはもう飛行機がなくなってしまったのだろうと判断していた。当時、私は日本は一〇月には降伏するものと考えていた」と述べている。
では、なぜ日本軍当局は住民に「潜水艦よりの砲撃」と虚偽の説明をしたのか。米軍の本土上陸が近いことが知られると、安房の住民たちが浮き足立つと軍当局は見ていたのではないか。七月に入り、安房でも艦載機による空襲や機銃掃射が激しくなり、本土決戦近しと部隊の動きも頻繁となる。しかしどうも、住民には軍当局の思ったような本土決戦への「一億総特攻」意識が浸透していなかったのではないか。浮き足立つ住民の気分などを察知し、「潜水艦からの砲撃」と発表することで、人心の動揺をおさえようとした姿が感じられるのである。
ところで本土決戦体制下では、海軍を中心に各種の特攻兵器の基地が構築された。米軍の上陸が予想される九十九里海岸に近く、艦砲射撃に耐える岩場が多い外房の勝浦や安房小湊などは、水上特攻艇「震洋」基地が多数建設された。もう一方の上陸予想地点である相模湾沿岸をのぞむ伊豆半島東側や伊豆諸島、東京湾口地帯なども、「震洋」だけでなく、特殊潜航艇を改良した水中特攻艇「海竜」や「蛟竜」、そして魚雷を改良した「回天」の特攻部隊を配置した。記録からみると、第一特攻戦隊のうちで、房総南部を中心に第一八突撃隊(嵐部隊)の第五九震洋部隊(真鍋隊)や第一一海竜隊、第一二蛟竜隊などの基地が配置された。
こうして七月二二日には、沖縄作戦終了に伴い、戦闘準備完了することとし、第一二方面軍情報で「敵の本土侵攻作戦準備概ね完了し、その攻撃兵力は既に海上に在り。沖縄の敵兵は、七月二〇日移動せること略々確実」と判断された。東京湾兵団は各部隊に対し「七月二四日零時までに戦闘準備を完了し、有事即応の態勢を整える」ことを命じたまま、敗戦をむかえたのであった。
《参考》本土決戦下の安房地域の陸海軍戦力
*陸軍関係 東京湾要塞司令部・直属部隊 一五〇〇五名
第三五四師団 一一九〇三名
第一四七師団四二七連隊 三八五〇名
独立混成第九六旅団 六二四七名
独立混成第一一四旅団 六九二九名
第一二方面軍関係 六六九名
暁部隊(水上特攻マルレ艇) ?名
合計 四四六〇三名
*海軍関係 横須賀砲術学校館山分校 一三九五名
館山警備隊 ?名
(呉鎮一〇一特別陸戦隊・山岡部隊三五〇名)
第ニ海軍航空廠館山補給工場 ?名
洲ノ埼航空隊 一一〇〇〇名
館山航空隊 二八〇四名
(九〇三航空隊) ?名
魚雷艇隼部隊 ?名
水陸両用戦車隊 ?名
横須賀防備隊 ?名
第一特攻戦隊第一八突撃隊・第五九震洋部隊
第一一海竜隊・第一二蛟竜隊 一七〇〇名
計 一七二四九名
総計七万人近くの陸海軍兵力と推定されるが、詳細は不明である
《主要参考文献》
戦史叢書「本土決戦準備(一)」 朝雲新聞社
「東京湾要塞歴史」 毛塚五郎著
岩波講座「世界歴史」現代2 岩波書店
「日本築城史」 浄法寺朝美著 原書房
「海軍航空隊年誌」永石正孝著 出版協同社
「千葉県警察史」第2巻
防衛研究所図書館所蔵資料参照
米国戦略爆撃調査団「報告書」第37巻