まちづくりプロジェクト①青木繁《海の幸》の”あ”
明治の洋画家・青木繁(1882〜1911)の代表作《海の幸》は、明治37 (1904)年夏、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともに訪れた房総半島最南端の小さな漁村・布良(めら)(現千葉県館山市富崎地区)で描かれ、昭和42 (1967)年には、近代洋画で我が国最初の重要文化財に指定されています。我が国洋画界の黎明期を飾る作品として、多くの後進に影響を与えており、《海の幸》から6年後の明治43 (1910)年には同じ布良で中村彝(つね)が《海辺の村(白壁の家)》を描いています。
当時マグロ延縄漁で栄えていた布良の地では、漁師たちが危険を冒して黒潮に乗り出し、多くの命を落としています。その魂が南の水平線上で赤く輝くといわれる星(カノプス)は、今でも広い地域で「布良星」と呼ばれています。そして、この地域がもっている、まぶしく輝く陽光、大海原の島々、たくましい海の男たちのエネルギー、神話のふるさとという背景のもとに誕生した《海の幸》は、生命の讃歌といっても過言ではありません。
ときが流れ、青木繁の没後50年目を記念し、昭和37(1962)年4月、大海原を見わたす布良の地に、青木繁《海の幸》記念碑が建立されました。当時の田村利男館山市長をはじめ、坂本繁二郎、辻永、富永惣一、中沢弘光、熊谷守一、金沢秀之助、石川寅治、山下新太郎、河北倫明、中村研一、鈴木千久馬らが発起人として名を連ねています。碑の建立趣意書や計画書には「ここに画伯を敬慕しその作品を熱愛する者たちあい寄り、ゆかりの地布良海岸に記念の碑を建立して、永く追慕いたしたい」「碑は一つの芸術作品とも考えられます」「私共はこの碑を美術振興の一つの道標といたしたい」と記されており、生田勉東大教授によって設計されました。除幕式には遺族として福田たね・蘭童が参列しています。
しかし、こうして建立された記念碑も、1998(平成10)年になると隣接した館山ユースホステルの廃業に伴い、同じ国有地にあったため建物とともに解体される状況となりました。これに対して、青木繁が逗留した小谷家当主をはじめ、当地区連合区長会長、各区長、コミュニティ委員会などの連名により、碑の保存について要望書が提出され、館山市が国に地代を払うことで撤去を免れ現在にいたっています。
水産業の衰退に伴い少子高齢化のすすんだ富崎地区では、“青木繁《海の幸》100年”を機に地域活性化を目ざした取り組みが始まり、小谷家当主・小谷栄氏は「青木繁が滞在したままの姿で、家を後世に残していきたい」と決意を表明しました。これを受けて平成20(2008)年9月、館山市富崎地区コミュニティ委員会とNPO法人安房文化遺産フォーラムの呼びかけにより、全国の美術関係者が発起人として名を連ね、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」が発足しました。平成21(2009)年10月、小谷家住宅は館山市指定文化財となりましたが、緊急を要する補修個所もあり、その経費は所有者負担と条例で規定されています。小谷家住宅をはじめとする青木繁ゆかりの文化遺産は館山市民の財産というだけでなく、日本国民の共有財産といえます。ぜひ、地域を越えて芸術文化を愛する多くの皆さまのご協力を賜りたく、ご支援のほどよろしくお願い申し上げます。