Blog 館山まるごと博物館

【エコレポ013】日韓友情の証(1)-大巌院のハングル「四面石塔」-
連載コラム「館山まるごと博物館」013 (2022.5.24)
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(EICネット「エコナビ」一般財団法人環境イノベーション情報機構)

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013「日韓友情の証(1)-大巌院のハングル「四面石塔」-
012「東京養育院安房分院と館山病院の転地療養 -渋沢栄一ゆかりの館山の人びと-
011「館山の空を飛んだ落下傘兵・秋山巌
010「青木繁『海の幸』誕生の漁村・布良」
009「明治期に渡米した房総アワビ漁師の古文書調査」
008「百年前の東京湾台風とパンデミック」
007「女学校の魅力的な木造校舎を未来に」 -旧安房南高校の文化財建築-
006「令和元年房総半島台風の災禍」
005「ピースツーリズム(2)-本土決戦と「平和の文化」-」
004「海とアートの学校まるごと美術館」
003「『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏」
002「ピースツーリズム(1)-巨大な戦争遺跡・赤山地下壕-」
001「24年にわたるウガンダと安房の友情の絆」

【エコレポ】館山まるごと博物館 009=明治期に南房総から渡米したアワビ漁師の古文書調査
連載コラム「館山まるごと博物館」009(2020.3.23)
明治期に南房総から渡米したアワビ漁師の古文書調査

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・はじめに
・台風災害から古文書レスキュー
・古文書調査の再開
・古文書から見えるネットワーク

 

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001「24年にわたるウガンダと安房の友情の絆」
002「ピースツーリズム(1)-巨大な戦争遺跡・赤山地下壕-」
003「『南総里見八犬伝』と房総の戦国大名里見氏」
004「海とアートの学校まるごと美術館」
005「ピースツーリズム(2)-本土決戦と「平和の文化」-」
006「令和元年房総半島台風の災禍」
007「女学校の魅力的な木造校舎を未来に」 -旧安房南高校の文化財建築-
008「百年前の東京湾台風とパンデミック」
009「明治期に渡米した房総アワビ漁師の古文書調査」

 

明治期に南房総から渡米したアワビ漁師の古文書調査

‥⇒ 房総アワビ移民研究所
はじめに

安房出身の小谷源之助・仲治郎兄弟をリーダーとするアワビ漁師(海士)らは、1897(明治30)年から米国カリフォルニアへ渡りました。寒流のモントレー湾域でヘルメット型の器械式潜水具を導入してアワビ漁に成功しました。実業家のA.M.アレンと共同で缶詰会社を興してアワビ事業も展開し、市民権を得ていました。彼らのゲストハウスには、政治家の尾崎行雄や画家の竹久夢二らも滞在し、皇族も立ち寄っています。彼らは単なる漁師移民にとどまらず、日米親善の架け橋として大きな役割を担ったと考えられます。その象徴として、日米の国旗とモントレーUSAと染められた万祝(まいわい)という漁師の着物が今も残っています。

長尾村根本(南房総市白浜町)の海産物問屋「金澤屋」に生まれ、長男の源之助(1867-1930)は慶応義塾幼稚舎を卒業した後、商法や簿記を学び、次男の仲治郎(1872-1943)は水産伝習所(現東京海洋大学)を卒業しています。明治初中期に安房から上京して高等教育を受けていることや、パイオニア移民として成功していることは注目に値します。

弟の仲治郎は、1906(明治39)年に帰国して七浦村千田(南房総市千倉町)に暮らしました。千田漁業組合長や安房水産会長、七浦尋常小学校の学務委員などの要職を歴任しながら、近隣集落より潜水士を養成してアメリカの兄のもとへ送り込んでいます。多様な知識と人脈をもち、水産界のみならず、様々な産業や教育・文化にいたるまで、安房地域の発展に幅広く貢献していました。

兄の源之助はアメリカに留まり、終生モントレーに暮らしました。日米開戦後、日系人たちは強制収容所に移送され、アワビ移民の歴史も幕を閉じています。戦後50年を経て、彼らの功績は米国で認められ、かつて住んでいた土地は「コダニ・ビレッジ」と公式に命名されました。戦後60年には、米国の歴史学者や二世三世を含む市民ら約40名が来日し、館山でアワビ漁師らを顕彰するイベントを開催して以来、日米交流や情報交換を続けています。

近年、仲治郎の旧宅を解体することとなり、遺族の許可を得て屋内を調査したところ、襖8枚の下張りから大量の古文書が見つかりました。旧宅は1914(大正3)年に建てられており、見つかった古文書は、実家の海産物問屋「金澤屋」に関わる勘定書類や契約書類、家族友人らと交わした書簡など多岐にわたり、ほとんどが明治期の資料でした。当時不要となった紙類を襖の下地に再利用したと考えられ、古文書は千切られた断片(断簡文書)になっていますが、貴重な歴史資料の発見となりました。

これまで、水産学者による先行研究や、アメリカ側からの資料で語られてきましたが、地域史からの新たな歴史研究の道が開かれました。

台風災害から古文書レスキュー

NPO法人安房文化遺産フォーラムでは、房総アワビ移民研究所と協働で、2019年春より本格的な調査研究に取り組み始めました。大量の古文書を紙質や筆跡別に分類し、封筒に仕分けして目録を作成する作業を進めていた矢先、9月9日に強大な台風15号の直撃を受けました。

資料を保管していたNPO第二事務所の古民家建物は屋根が飛び、全壊してしまいました。被災3日目から、散乱し水損した資料を拾い集めました。1枚ずつ分類していた封筒は中身が散失して空になったものもありました。屋根の残っていたスペースに座卓を積み上げて応急棚を作り、降り続く豪雨を一時的に凌ぎましだ。天気の晴れ間をぬって、回収資料を近くの廃校舎へ搬送し、水損の軽微なものは広げて乾かすように並べました。

水損の酷いものはカビの心配もあるので、「千葉歴史・自然資料救済ネットワーク(通称:千葉資料救済ネット)」に連絡をとって相談し、助言をいただきました。2015年の茨城県常総市のような河川氾濫とは異なり、泥まみれというほど酷くはないので、大学の研究室に委託するのではなく、試みることにしました。そこで、水損状況の酷い資料はビニール袋にまとめて入れ、しばらく家庭用冷蔵庫で冷凍保管としました。

その後は、台風被災によるNPO第一事務所の引越や被災者支援活動で多忙となったこともあり、古文書レスキューと調査活動は一時中断となりました。半年を経て2020年3月に、冷凍保管資料の再生作業をおこないました。新型コロナウィルス感染症が国内でも広がりつつある時期で、第1回目の緊急事態宣言前ではありましたが、水損資料の解凍に伴うカビの飛散にも十分留意して作業をおこないました。

まず、前日から自然解凍しておいた水損資料をビニール袋から出し、ヘラを用いて丁寧に剥がした後、新聞紙に挟んで布団圧縮袋に入れて掃除機で吸水し、これを数回繰り返して乾燥させ、原状回復に成功しました

古文書調査の再開

2020年度になり、レスキューした古文書調査はゼロからの再スタートとなりました。研究チームは、市立博物館の古文書講座で学習したメンバーが中心となって、再び紙質や筆跡別に分類・封筒に仕分け・くずし字の判読・データ入力・目録作成と作業を進めました。さらに博物館の学芸員の協力を得て判読の添削を行い、精度を高めています。

台風被災で回収できずに散失したものもあり、さらに別保管していた襖絵4枚からも下張りを新たに取り出し、古文書はあわせて数百枚にのぼります。その中から、書簡を中心に目録作成まで完了したのはおよそ200余枚です。1枚1枚の内容を完璧に解読することは不可能ですが、地名や人名などを精査しながら研究を深めています。

古文書から見えるネットワーク

古文書類は、金澤屋の勘定書や貸付に関わるもの、家族や友人らと交わした書簡、水産物仲買人や乾鮑生産者、清国貿易関係者等との商取引に関するものなど多岐にわたります。金澤屋の店主であった小谷清三郎(1845-1910)は、海産物問屋の事業家というだけでなく、1907(明治40)年まで長尾村の議員を務めていました。前述のとおり、明治初中期から子弟に高等教育を与えていることは特筆すべきことです。慶応幼稚舎に就学中の源之助と父清三郎との書簡などはたいへん興味深いものです。

清三郎や渡米前の源之助らは、新潟の佐渡や秋田の能代などに出向いて就漁あるいは乾鮑などの加工技術を指導していたことなどがわかりました。清三郎・たよ夫妻は、留守中の自宅と出張先で頻繁に書簡を交わし、商売の状況や子どもの教育についてなど細かに報告・相談をしています。

根本に隣接する布良にも支店があり、布良郵便局から為替送金したことなども記されています。青木繁『海の幸』誕生の地として知られる布良は、マグロ延縄船発祥の漁村として栄えており、近代水産業の発展において重要な役割を担っていました。また、館山出身で銀座資生堂創業者の福原有信やその縁者などとも親しい関係にあったことも見えてきました。仲治郎の水産伝習所同窓生や水産会、農商務省関係者等とのネットワークなども、明治期の殖産興業を考えるうえで貴重な資料として、研究に期待が寄せられています。

210310~31*版画家・秋山巌 生誕100年展
【館山まちかどミニ美術館】

版画家・秋山巌 生誕100年展

~ 館山の空を飛んだ落下傘兵 ~

太平洋ギャラリーでの展覧会に先がけて、秋山巌先生が海軍落下傘部隊に青春を賭けた館山でも、NPO安房文化遺産フォーラムのウィンドウギャラリーで展示紹介をしています。(千葉県館山市北条1721-1)

会期:2021年3月10日(水)~3月31日(水)

 

【秋山巌(あきやまいわお)】

1921-2014(93歳没)。版画家。戦時中は海軍落下傘部隊として館山海軍航空隊で訓練し出撃。戦後は太平洋美術学校で坂本繫二郎に師事。棟方志功の門下生となり、フクロウなどのモチーフや種田山頭火などの俳句を題材に独自の世界を表現。作品は大英博物館など海外にも多く所蔵され高い評価を得ている。

⇒ 秋山巌先生について関連記事

 

 

★ 生誕100年 秋山巌 展 ★

~作品と写真で辿る軌跡~

会期:2021年3月20日(土)~3月26日(金)

会場:​ギャラリー太平洋​

(東京都荒川区西日暮里3-7-29)

主催:秋山巌の小さな美術館

協力:太平洋美術会版画部

祝:太平洋美術会版画部創設50周年

210314*栄村文化財保全活動報告会プラス

震災から10年の文化財保全運動~おいしさと楽しさがみんなを支えた~

‥⇒ 参加方法(ZOOMリンク) ‥⇒ 印刷用PDF

【日時】2021年3月14日(日)13:00~15:45

【会場】長野県下水内郡栄村「かたくりホール」

【主催】地域史料保全有志の会

【共催】栄村公民館

【後援】栄村教育委員会

【基調講演】

「村民と歩んだ10年の活動~活動の栄村らしさとは?」

・白水智(同会代表・中央学院大学教授)

 

【参考資料】

▽「ヘリテージまちづくりのあゆみ」より
▽「地域史学」より
旧安房南高校木造校舎の動画紹介(YouTube)

チーバくんが紹介するYouTubeが公開になりました!

2年連続中止になりましたが、動画でお楽しみください ♪

https://www.youtube.com/watch?v=_8Bzamad3y4

制作=千葉県教育委員会・NPO法人安房文化遺産フォーラム

ナレーション=安房高校演劇部

【参考】安房高等女学校木造校舎を愛する会

https://awa-ecom.jp/aisurukai/

第11回 小さいとこサミット Online

コロナ禍で小さいとこは何ができなくなったのか、何ができるようになったのか。

【日時】2021年2月28日(日)13:00~17:00

【主催】小規模ミュージアムネットワーク

【事例報告】 ⇒ ☆動画YouTubeはコチラ

「館山まるごと博物館」のエコミュージアムまちづくり
 池田恵美子 (NPO法人安房文化遺産フォーラム)
【高峰秀子の証言】1945年8月15日の館山

高峰秀子著『渡世日記』(上) より

⇒ 全文はPDFで
http://bunka-isan.awa.jp/News/item/001/364/ul0815155224.pdf

 

【神風特別攻撃隊】のくだり

昭和20年8月15日の敗戦を、私は千葉県の館山で迎えた。8月のはじめから、「アメリカようそろ」という映画のロケーション撮影で館山の旅館に泊まっていたのである。

(中略)

「アメリカようそろ」の撮影に入ったのは7月末であった。

「この空襲のさなかに、館山へ行くなんて無茶だ」

「アメリカは航空基地を爆発するに決まっている」

「日本の空は神風特攻隊が守ってくれるではないか」

ロケ隊は出発した。

(中略)

汽車の窓から見る千葉の海は青く美しかった。宿に落ち着き、遅い夕飯を終えるころ、日が暮れた、と、いきなり空襲警報のサイレンがうなり出した。ビックリしたなァ、もう、である。館山最初の空襲であった。館山だけは大丈夫、とタカをくくっていた撮影隊は不意をつかれてバッタのように飛び上がり、各自の部屋から転がり出た。

(中略)

しかし、約束が違うからといって東京へ引き返すわけにはゆかない。撮影はスケジュール通りに翌朝から開始された。

ロケ現場の海岸は見渡す限りの砂浜で、掘っ立て小屋ひとつなく、空襲を受けても逃げ込む場所がない。砂浜のあちこちに「たこ壺」と呼ばれる一人用の防空壕が点々と掘られた。

(中略)

「来たーッ!」

テキは、水平線のかなたから真夏の太陽に銀翼をきらめかせながら近づいてきた。晴れ渡った青空に星のかたまりを見るようである。ゴーというB29の爆音に、キューンというような鋭い音がまじっている。それはおびただしい数の艦載機であった。

(中略)

遠くに、ズシーン!とB29が落とす爆弾の音が響き、艦載機が鋭い金属音を立てて、人家スレスレまで急降下をくり返す、そのたびにバリバリバリッと機関銃の音がして、あたり一面はモウモウたる硝煙に包まれ、火薬の匂いが鼻を刺す。

(中略)

館山は間違いなく「戦場」だった。

(中略)

8月15日。私たち俳優は、東宝からの応援の踊り子や楽団を迎えて、館山航空隊、洲崎航空隊の隊員たちを慰問した。

(中略)

天皇陛下のラジオ放送があったのは、「洲の空」の慰問が終わった直後の正午12時だった。

(中略)

私たちは半信半疑のままトラックに乗った。宿の玄さきへ一歩入ったとたんに、私の眼にとびこんだのは、玄関のホールにベッタリと座り込んだ何十人かのロケ隊の姿であった。私たちを迎えた、そのノロノロとした力のない眼差しを見たとき、私はようやく「敗戦」を納得したのである。何をどう考えていいのか、嬉しいのか、悲しいのか、口惜しいのか、さっぱり分からない。ただ「戦争が‥‥終わった。‥‥戦争が‥‥終わったのだ」と、まだ実感の湧かない言葉を心の中でくりかえすばかりだった。

(後略)

⇒ 全文はPDFで
http://bunka-isan.awa.jp/News/item/001/364/ul0815155224.pdf