世界史からみる館山の役割

~館山海軍航空隊と赤山地下壕から考える

   愛沢伸雄 (NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)

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1.19世紀後半から20世紀初頭の世界と館山

1912 (大正元)年11 月、海軍は軍港の追浜に航空機格納庫と海岸滑走台を建設し、海軍最初の飛行場(追浜飛行場)とした。そして、将校4名と機関士2名を「飛行機ノ練習及製造監督ニ従事セシメ且水上飛行機ヲ購入」する目的で米国とフランスに派遣し、カーチス式水上機(アメリカ製)とモーリス・ファルマン式水上機(フランス製)をそれぞれ2機購入した。このうちファルマンは11月 5日追浜飛行場において初飛行を実施し、一週間後には東京湾での観艦式に参加させた。海軍が新兵器となった航空機導入を内外に示すことになった。なお、海軍横須賀鎮守府の管轄内にある館山湾は、海軍の艦船だけでなく、水上機にとって重要港湾であった。

2.第1次世界大戦後のワシントン軍縮体制と日本海軍

各国の軍備拡張に伴い海軍力(特に戦艦)が拡大し、軍事費の増加は国家予算を圧迫していった。日本の「八八艦隊計画」をとっても軍艦建造も国家予算の1/3を占め、その後の維持だけでも莫大な負担が想定された。
1921(大正10)年11月12日~翌年2月6日、アジア太平洋の諸問題や海軍軍縮問題を討議する国際会議(ワシントン会議)にて、「海軍軍備制限に関する条約」(米英日間の主力艦総トン数の保有比率を5:5:3とする)や「中国に関する九国条約」(中国の主権、独立および領土的・行政的保全の尊重、門戸開放や機会均等を規定)、「太平洋方面に於ける島嶼たる属地及島嶼たる領地に関する四国条約」(四国条約)などの条約が締結され、第1次世界大戦後、アジア太平洋地域において国際協調体制(ワシントン体制)が構築された。
海軍は軍縮案を受け入れ、従来の八八艦隊計画と八八八艦隊計画を放棄した。戦艦2隻(長門・陸奥)を除く廃艦により国家財政は破綻から救われた。当時、アメリカ国内で日系移民を排斥する「排日」世論の高まりがあるなかで、関係改善を図りたい日本政府にとって、軍拡競争で日米関係の悪化をまぬがれた条約締結は、極めて重要なことであった。
また、条約によって廃艦予定になった巡洋戦艦「赤城」と戦艦「加賀」が改装され、それぞれ空母「赤城」「加賀」としての竣工が決定した。対米6割とされた戦力を活用するため、条約による制限を受けない航空機と航空母艦に切り替えていったことは海軍にとって重要な出来事になった。

3.日本海軍の「帝国海軍作戦計画」とアメリカ海軍の「オレンジ計画」

・日本海軍:「帝国海軍作戦計画」 ~
アメリカ艦隊との決戦を任務。海軍は年次防衛計画をたてて備えてきた。明治以来、1939(昭和14)年度の計画のように「敵艦隊ノ主力東洋方面ニ来航セバ之ヲ撃滅スル」と、その任務を「漸減邀撃」(ぜんげん ようげき)、つまりアメリカ艦隊が「東洋方面」に出撃してくるのを待ち、しかる後これを迎え撃つという伝統を踏襲している。

・日本海軍の「漸減邀撃(ぜんげん ようげき)作戦」
第1次世界大戦後の1923(大正12)年に改定された帝国国防方針では、仮想敵国の第一にアメリカが挙げられ、総力戦を戦うための物資の供給地(後方支援基地)として中国を確保し、つまり諸外国に比べて異例の大きさと航続力を持つ潜水艦や、太平洋の島嶼基地に展開した長大な航続力が特徴の陸上攻撃機によって、優勢なアメリカ艦隊が太平洋を西進してくる間に徐々にその戦力を低下せしめ、日本近海に至って戦力的に互角となってから主力艦隊同士での「艦隊決戦」に持ち込んで、最後には大和型戦艦など兵器の質的優位により勝利するという「漸減邀撃作戦」が対米戦の方針であった。
日本が求めた海軍比率70 %(米10:英10:日7)は、太平洋を横断するアメリカ艦隊を「漸減邀撃」で削るために必要な戦力であり、この比率が「決戦海域」における日本艦隊の優越性をもたらすものと日本側は考えていた。アメリカは日本が攻撃のために70 %を主張しているととらえ60 %の比率は譲らなかった。日本海軍は日本海海戦さながらの「艦隊決戦」に執着していたことがわかる。
ワシントン軍縮条約締結後、敵艦を索敵して「漸減」しながら、そして決戦にもっていくという三段構えの作戦のなかで、決戦のために主力艦を温存しながらアメリカの艦隊を漸減するために艦船をどう配置していくかにあった。

・アメリカ海軍:「オレンジ計画」
戦間期の1920年代から1930年代において、将来起こり得る日本との戦争を想定した計画。日露戦争が終結すると中国問題が重要問題となり、緊張が高まっていくなかで日本を仮想敵国とした戦争計画策がはじまっていく。
基本的に一国対一国の戦争を想定したオレンジ計画は、初期の頃より「日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」という外交関係や集団安全保障を想定した日米戦争のシナリオであった。

4.航空隊設置と航空母艦の運用

航空機の軍事利用は第1次世界大戦から始まった。日本は陸海軍の航空戦力は質・量ともに大きく立ち遅れ航空後進国であったものの、第1次世界大戦では連合国として、1914(大正3)年に青島のドイツ軍要塞攻略のために 1個飛行隊(4機)を編成して、水上機母艦若宮に搭載されたファルマン水上機が、敵情偵察や弾着確認、機雷発見の任務だけでなく、機関銃や爆弾による攻撃にも参加して大きな功績を残した。

(1)6航空隊設置計画と館山海軍航空隊の開隊

そのようななか、1916(大正5)年度予算では航空隊3個飛行隊(12 機)の整備を目的とした航空隊設備予算が認められ、1920(大正9)年度まで3個飛行隊からなる横須賀航空隊の開隊となった。欧州での戦闘激化で参戦国から航空機輸入が止まり、外国に依存しない研究・開発の取り組みがはじまり、1917(大正6)年に横須賀工廠造兵部飛行機工場において国産航空機が誕生した。
そして、翌1918 (大正7) 年には「航空隊令」が出され、航空隊設備予算をさらに 2ケ年間延長し、1919(大正8)年度までに横須賀航空隊の増勢と佐世保航空隊の新設となり、合計5個飛行隊(20 機)の増強となった。だが、大戦での航空戦力の役割が非常に高まり、1920(大正 9)年までにさらに9個飛行隊が追加され合計17個飛行隊(68 機)となった。
この6個航空隊整備計画の完了では、横須賀や佐世保は設置されたものの、霞ケ浦と大村は1922(大正11)年に延び、館山は1930(昭和5)年、呉は1931(昭和6)年の開隊となり、大幅にずれ込んでいった。その理由は、1923(大正12)年に勃発した関東大震災の影響と思われるが、ただ館山航空隊の基地造成が1928(昭和3)年からになっているのは、基地計画に関して何らかの意図があったのではないかと推察している。(完成後に基地が「陸の空母」と呼ばれたという)
ところで大戦が終結した1919(大正8)年、海軍省軍務局は帝国議会での答弁を目的に「航空ニ関スル議会説明」資料を作成し、今後取り組むべき課題について「第一、使用飛行機ノ型式決定」、「第ニ、関係人員の養成」、「第三、航空部隊ノ増勢」、「第四、海軍航空制度ノ改善」、「第五、飛行機製造所及飛行機試験所ノ設置」を急務の課題としてあげ、技術面では「技術官ヲ彼ノ地ニ派遣」、「外国人技術者ノ招聘」、「製造権ノ買収」等を検討していつとしている。そして、海軍の軍事戦略と航空機の関係を「飛行機ノ海戦上、偵察及敵艦船攻撃用兵器トシテ有力ナルモノ…如何ニ編成シ如何ニ活用スベキカハ、尚制海権ト制空権トノ相互作用並ビニ飛行機ノ発達ニ伴ウ之ガ威力ト共ニ研究ヲ怠ルベカラズ問題」と述べ、航空機の役割が飛躍的に高まったとはいえ、海軍の軍事戦略に組み込んでいくには課題が多いとしている。

(2)航空母艦の就航とパイロット養成

1921(大正10)年の霞ヶ浦飛行場完成に伴って設置された「臨時海軍航空術講習部」において、英国海軍のセンピル大佐を団長とする英国人教官から操縦術、航空術、整備術等に関して、第1次世界大戦での実戦経験を生かした指導を受けた。1923(大正12)年には三菱内燃機製造会社が国産初の艦上戦闘機である「10式艦上戦闘機」を開発し、フロート(浮き)での離着水している水上機とは違い、車輪を用いていたので航空母艦や滑走路への離着艦(陸)が可能となった。
そして、その年末に最初から航空母艦を目指して建造された「鳳翔」の艦上において「10式艦上戦闘機」の離着艦公式試験が成功して、海上戦闘における航空機の運用が可能と確認された。技術導入期における海軍の航空軍備は、ごく少数の水上機の直接輸入から始まったが、第1次世界大戦を境に航空技術においても海外の航空機製造権買収や技術者の海外派遣、そして外国人技術者の招聘などによって国内での技術を整備したことで「10式艦上戦闘機」開発にも成功した。
軍事戦略の面においては国内各地に水上機基地を設置し、航空母艦「鳳翔」を活用した艦上戦闘機の運用試験が進められるなかで、遅れていた「館山海軍航空隊」の役割を高める基地づくりについて検討をしていたのではないかと推察する。
パイロット養成では、1916(大正5)年横須賀航空隊が開隊し、第1期航空術学生(少尉・中尉を対象とする将校クラス)が入隊し、教育が開始された。大正期の1期ごとの定員数は、航空術学生が10名・飛行術練習生が20名程度の少数による教育・訓練実施。昭和に入ると定員数も徐々に増加しはじめ、1928(昭和3)年には飛行学生20名・飛行術練習生30名であった。
海軍では、1930(昭和5)年から全国の14才から17才までの少年の中から優秀な人材を集め、より若い時期から基礎訓練を行って熟練の搭乗員を多く育てるための飛行予科訓練生制度がはじまった。当初、横須賀航空隊の中に設置されたが、定員増加のため1939(昭和14)年に霞ヶ浦航空隊に移転、その後定員数は、1期200~300名であった。教育期間は、約3年でその中から選抜され、操縦練習生となり1年間の訓練を受け実戦部隊行となる。終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約1割が操縦練習生となり戦地へ赴いた。その中で特攻も含め、約8割の戦死者を出している。

5.山本五十六の航空戦略とその実践

山本五十六は海軍航空戦力を発展させ、航空機の将来性を早くから見抜き、その航空戦力の育成について努力した人物といわれる。山本が航空機に強い関心を示したのは、1919(大正8)年ハーバード大学などのアメリカ留学時代に航空戦略の流れを把握するとともに、1921(大正10)年に就任した海軍大学では教官の立場から飛行機の将来性や航空軍備に語ったという。そして1923(大正12)年に霞ヶ浦航空隊の教頭兼副長になるが、山本自身が強く希望した職だといい、初めて海軍航空の分野に直接関わった。その後、駐在武官として再びアメリカに渡り、3年間滞在して、アメリカの航空機の発展に注目しつつ、航空第一主義の立場になっていったと思われる。
山本五十六は、もともと砲術科出身であり「艦隊派」といわれるが、「条約派」に移行したのは、  ロンドン軍縮条約によって艦船が制約されると、制約外であった航空戦力に目が向けられ、海軍航空の建設と整備に全力をあげるようになったと思われる。山本は「戦争起こらば先ず航空機によって 敵艦隊に痛烈なる一撃を加え、然る後に全軍決戦に出ずべし」という意見を述べたという証言もある。  山本は第二次ロンドン会議予備交渉から帰国すると航空本部長に就任するが、航空第一主義の立場を鮮明にしている。
山本の伝記を見ると、海軍航空の実戦部隊の指揮官としてパイロット養成のために、訓練の質にこだわったという。霞ヶ浦航空隊教頭兼副長時代をはじめ、その後の空母「赤城」の艦長時代などに厳しい訓練を命じたといわれる。航空母艦の離着艦訓練では、勘に頼るような操縦を戒めて、誰にでもできるような操縦技量技能を高めるために繰り返し指導し、パイロットを養成した。なかでも山本の影響のもと、館山海軍航空隊(「館空」)は航空母艦(空母)でのパイロット養成の錬成部隊とされ、厳しい訓練(「月月火水木金金」という休みのない訓練)が課されたという証言を得ている。訓練面においてリーダーシップを発揮し、10余年を費やして「館空」で質の高いパイロットを多数育成したことは極めて重要なことである。その後のハワイ真珠湾攻撃にむけ、山本の航空戦略が着々と実践されていたといえるのではないだろうか。
山本五十六は駐在武官時にリンドバークの大西洋無着陸飛行に注目し、洋上の長距離や夜間で飛行に不可欠な技量のために「計器飛行」「夜間飛行」研究を命じ、すぐにパイロット養成に実践されていたことは航空戦力を確かなものにしていった。
また、山本が航空機の開発において国産機の開発を強く推進し、海軍航空機の技術水準向上に大きな貢献を果たしている。とくに1933(昭和8)年まで海軍航空本部技術部長として、「海軍航空機試作3カ年計画」を策定するとともに、1932(昭和7)年に設立した海軍航空廠を核に国内の主要航空機製造会社と共同して各種航空機を開発するなど、国産の海軍航空機の開発に取り組んだ。その際にとった民間企業の競争力を活用する「競争試作制度」をおこないながら、企業間の技術の共有と平準化をすすめ世界的な水準となる航空機を開発・生産していった。
生産基盤が脆弱であった時期に、例えば、1920 年代に三菱がドイツのユンカースなどの技術提携を得て獲得した金属機製造技術は、九六式艦上戦闘機・九六式陸上攻撃機・九七式重爆撃機など、30 年代半ば以降の国産航空機に生かされ、三菱が成功した国産航空機はいずれもアメリカからの技術で誕生した国産空冷エンジンを装備している。ドイツのみならずイギリス・フランス・アメリカなど航空技術の多角的な送り手がいたことによって、後発後進国日本の生産基盤にあった技術選択ができたとはいえ、航空機の設計開始から実用化までに3~4年を要するので、導入した新技術による航空機はすでに旧式化するという弱点をかかえていた。
ところで、航空関係の首脳陣にいた際に海軍航空基地建設において決定的な役割を果たしたという記録は今のところ発見されていないが、1927(昭和2)年の海軍航空本部設立の翌年にアメリカから帰国し空母「赤城」艦長になった際に、同年にはじまる「館空」の基地造成に対して山本から何らかのアドバイスがあったのではないだろうか。(例えば、ハワイ・オアフ島真珠湾の中にあるフォード島とそこの航空基地<南北1㎞・東西2㎞>と似たような形状を求め、疑似訓練の場にするなど。)

6.日中戦争の最前線・館山海軍航空隊~中型陸上攻撃機の開発と実戦

(1)長距離爆撃機の開発

太平洋戦争開戦前に海軍が想定していた作戦構想は、たった一度の主力艦同士の艦隊決戦によって戦争全体の勝敗を決するという「漸減邀撃」作戦だった。しかし現実の戦争では、海軍が想定したような艦隊決戦は起こらず、太平洋の島々をめぐって争奪戦を続ける長期戦となっていった。戦争の変化に伴い、艦隊と無関係に敵の艦艇や航空基地を攻撃することができる基地航空隊の役割が大きくなり、この状況を受けて航空機生産における重点機種は、陸上基地から出撃して敵の艦艇や航空基地を攻撃する陸上攻撃機と、味方の攻撃機を援護したり敵機を迎撃したりする戦闘機に絞られていった。
山本五十六は、航空本部技術部長の時に航空機開発の陣頭指揮をとった一つが、前述した陸上攻撃機の試作と実験飛行であった。1934(昭和9)年、日本ではじめて車輪を翼のなかに引き込む方式をとり、しかも単翼で双発エンジンを搭載した世界最新鋭の中型陸上攻撃機(「中攻」)を完成させた。
館山海軍航空隊(「館空」)には6機配備し、本格的な実戦部隊訓練に入るとともに、館山-サイパン島間2,220kmの無着陸飛行に成功し海軍航空機の実力を世界に示した。1921 年のワシントン海軍軍縮条約による日・米の戦艦の戦力差を縮めることを意識した航空兵力であり、ミクロネシアの島嶼に前線基地を作り、来攻するアメリカ艦隊に対して偵察・攻撃をおこなう「漸減邀撃」作戦に向けた航空機になったのである。
1931(昭和6)年の満州事変以降、海軍は航空兵力を拡充強化するため、次々と軍備補充計画をたて議会も追認していった。1937(昭和12)年の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争となり、「館空」で訓練した木更津航空隊所属の「中攻」部隊が、いわゆる「渡洋爆撃」と呼ばれる中国都市への無差別爆撃を実施したのである。
以来、戦争の拡大と泥沼化に拍車がかかり、「館空」は中国大陸侵略の航空戦略の重要拠点となっていった。なお海軍航空機開発の最前線基地であったため、東条英機や米内光政ら陸海軍の最高首脳陣が「館空」を視察している。

(2)航空気象と「日本気象学の父」岡田武松

館山に海軍航空隊を設置することになった要因の一つに、気象のことがあったと思われる。明治からの布良海軍望楼やその後の中央気象台付属布良測候所、改称された中央気象台付属富崎測候所、そして富崎測候所と、戦前戦中において、太平洋上を飛行する航空機にとって気象・天気図は、戦略上重要な事項であった。
戦前、国内では地方の測候所が国営化され、中央気象台の傘下に置かれたほか(1938~1939年),1938(昭和13)年に陸軍気象部が設立され、海軍水路部の気象関係部門の拡充(1936,1941年) などが図られ気象観測網が拡大していった。また海外駐屯の陸軍では関東軍気象部の設立(1938年) につづき、日中戦争開始以後は中国大陸に展開していた野戦気象隊を拡充再編成され、北支那気象部・中支那気象部・南支那気象部が設立された。
海軍水路部でも千島列島の幌筵島気象観測所の設立(1935年)以後、1937~1939年にかけて北方海域の各地に観測所を設立され、ミクロネシア各地を中心に気象観測所を設立した(1935~1936年・1939年)このうちいくつかは南洋庁気象台傘下の測候所や委託観測所を受け継いだという。さらに1941(昭和16)年3月以後は、南洋庁気象台の業務も海軍気象隊の指揮下に入ることとなった。
観測網の拡大とともに、気象データの外部への流出を防ぐ気象管制が実施され、観測後すぐに気象・観測データは集約されて暗号が用いられた無線通信によって、観測に関わることも暗号による通信が適用された。1941(昭和16)年12月からは対米英戦が開始されると、日常の気象通報(天気予報)も中止になり,気象管制の強化が図られていった。
気象界には、暴走する軍部にむかって気象事業を守り抜き破壊を防いだと語られる人物がいた。日本を代表する気象学者・岡田武松(千葉県相馬郡布佐村出身・1874(明治7)~1956(昭和31)年)である。岡田は中央気象台の予報課長として、日本海海戦当日に対馬海峡沖の天気予報「天気晴朗なれども波高し」との電報を送ったことで、連合艦隊から大本営宛に打電された有名な電報「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」になったという。1923(大正12)年、第4代中央気象台長(現在の気象庁長官)となり大正15年より東京帝国大学教授・地震研究所員も兼務し、68歳となる1941(昭和16)年まで勤めている。気象用語「台風」の名付け親でもある岡田は、梅雨の原理を解明するなど気象学の発展に貢献し、気象事業の功労者として「気象学の父」と呼ばれ、その功績は世界的に評価され、1924(大正13)年にイギリス王立気象学会のサイモンズ賞を受賞している。
なお、中央気象台付属布良測候所にも関わっていた岡田は、気象面での関係で館山海軍航空隊の設置場所や太平洋上での長距離飛行に関わる天気図などに関係していたのではないかと推察したい。

(3)海軍長距離通信の開発と館山海軍航空隊通信モデル基地

海軍が次に独自の航空機用無線機の開発に取り組むのは1923(大正12) 年頃からである。同年4 月1 日には,ワシントン海軍軍縮条約締結にともなう軍備路線の変更を背景に,海軍内の総合実験研究機関として海軍技術研究所が設立された。設立当初,電気関係の研究は研究部内の電気班で行われていたが、同年9月に発生した関東大震災による被災からの復興に際して大規模な組織改編が実施され,1925(大正14)年に電気研究部が設置された。
その後、海軍技術研究所において技術者らはマルコーニ社製の通信機を参考にしながら海軍独自の航空無線機の開発に取り組んで完成したのが海軍内初の独自の「15式空1号無線電信機」であった。この開発の際に、短波を利用する航空無線機研究も進められ、短波は一般的に波長10m 以上100m 以下の範囲の電波を指し,1920 年代に入ってその重要性が認識された。マルコーニの業績の一つは,垂直接地アンテナを利用し、長波を発生させることで,それが地球の湾曲に沿いながら長距離まで伝達が可能であることを発見したことだった。1920 年代以前、利用可能であった真空管では短波はできなかった。もちろんマルコーニはじめ誰もが長波に取り組んでいたが、1920 年代に入ると真空管の実用期に入り、いろいろな周波数の発振が容易に得られるようになったことを背景に、短波通信を航空無線に活用することになった。航空機の行動範囲が広がるにつれて要求される通信距離も伸びる傾向にともなって送信に必要なエネルギーも大きくなり,送信機の容積・重量も大きくなった。
だが、飛行機上に搭載できる無線機には容積・重量ともに制限があり、同じエネルギーであっても長波に比べて遠達性が期待できる短波は,航空機用として活用するメリットは高かった。さらに短波は長波のような垂下式アンテナではなく固定アンテナを用いることができ、パイロットが不時着した際にも自分の位置を航空母艦などに通報ができるという利点があった。この短波用の「15式空2号無線電信機」は,長波用の「15式空1号無線電信機」とともに、海軍技術研究所で製作された海軍独自の最初の航空機用無線機であったが、満足できる性能でなかったという。
1930(昭和5)年にロンドン軍縮条約が締結されると、海軍は航空兵力の増強に向かった。前述したように、山本五十六らによって1932(昭和7)年には「海軍航空機試作3 カ年計画」が策定され、1935(昭和10) 年までの間に10数機種の試作が決められ、航空兵力を重視していった。1930 年代に入ると海軍技術研究では無線通信機や方向探知機、無線電話機の開発が要望されるなど,航空兵力の重点化は航空無線兵器の研究にも大きな影響を与えることになる。
そのようななかで、1930(昭和5)年の館山海軍航空隊開隊に際して、今後の航空隊通信施設に関わる無線兵装基準策定上の基礎となったモデル基地であった。その概要は次のとおり。
・受信室は作戦室に近接してこれを設置
・送信所は受信室から300m以上離隔してこれを設置
・送信機は長波3台、短波4台、また受信機は長波7組短波5組を装備
・方位測定機は長波2組、短波1組を装備
・送受信管制置は…有線管制方式を使用
・送受信機の電源は電動発電機であるが、その一次電源は部外電力を利用
・各飛行隊指揮所にそれぞれ航空機用無線電信機の地上における試験装置を完備

7.対米開戦前から使用されていた地下要塞・赤山地下壕

標高約60mの通称「赤山」と呼ばれる小高い山がある。凝灰岩質砂岩などからできた岩山のなかには、総延長約2kmの地下壕と、巨大な燃料タンク基地跡などが残っている。「館空」基地建設のときに十分な地質調査をして、その後海軍の専門工作部隊によって建設された地下壕と思われるが、これに関する資料が全く不明で、当時の証言も少ない。

ただ戦争末期に再び本土決戦用に壕拡張のため掘削されたようで、大部分素掘りのまま使用され、今もツルハシの跡が鮮やかに残っている。

数少ない地元の証言によると、1930年代半ばごろから赤山近くの海岸の埋め立てがおこなわれ、赤山地下壕を掘った土砂も運ばれたという。完成した地下施設から随時使用されたようで、「館空」基地で行われていた軍極秘の航空機開発・実験に関わる格納施設や、航空機用の長距離無線通信関係の機密性の高い部隊が置かれていたと思われる。
証言からは、館山各地にある「館空」基地の防空砲台群の戦闘指揮所としての機能や、実戦用の野戦病院のような医療施設として使用されていたといわれ、壕内部の形状から基地の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫等の施設があったと考えられる。そのことから全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕と推定される。
なお、防衛庁防衛研究所所蔵の「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」の赤山地下壕の位置に、「自力発電所」「工作科格納庫」「応急治療所」という文字があり、「館空」基地との間は点線で結ばれ「地下道」と表記されている。

8.『カニンガム・レポート』から占領軍の館山上陸と赤山地下壕をみる

東京湾上の戦艦ミズーリ号における降伏文書調印式の翌日、1945(昭和20)年9月3日、館山に3,500名の占領軍が上陸し、本土で唯一の「直接軍政」が4日間おこなわれた。カニンガム准将に率いられた米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊(112RCT)である。
戦後70年を迎えた2015年、本件に関してテキサス軍事博物館に問い合わせたところ、様々な写真や資料が提供された。特に「カニンガム・レポート」には重要なことが報告されており、なかでも「赤山地下壕」に関する記載があったことは注目すべきことであった。これによると「完全な地下の海軍航空司令所が、館山海軍航空基地で発見された。ここには完全な信号、電源、他の様々の装備が含まれていた。」とある。以下、「カニンガム・レポート」よりその一部(和訳)を紹介する。

<カニンガム・レポート>より抜粋

…冷たい海水に濡れた潜水服で館山湾付近にいた特殊部隊により、機雷掃海のため途中で待機となった。移動はすべて厳しい灯火管制のもとで行われ、航海中、CUEにより空中警戒の態勢を維持した。船団は1945年9月2日0700 I(午前7時)に浦賀水道に入り、東京湾へと進んだ。占領の日は占領部隊にとって長く記憶に残る壮観であった。何百にも及ぶ艦上機が輸送師団や太平洋艦隊のために、とどろく雷鳴のように上空援護し、その間に、何百機もの空の要塞B29が東京湾上空を旋回した。輸送師団第65輸送部隊は降伏条件が調印される間、戦艦ミズーリからおよそ1,500ヤード離れて停泊した。

1945年9月3日  0300 I(午前3時)に輸送師団第65輸送部隊は南の館山湾へ進み、0700 I(午前7時)館山海軍航空基地の北4000ヤード(3.6km)に停泊した。先遣隊の海軍偵察隊が、館山の海岸を使用するのは実行が困難であることを明らかにしたので、海軍航空隊の水上飛行機滑走路が上陸する海岸として指定された。0730 I(午前7時30分)館山地区の民間、海軍、陸軍当局の各代表者を拾い上げるために、代表者が海岸へ向かった。日本外務省の林男爵、日本陸軍の野村大佐、帝国海軍の鬼塚大佐がそれぞれのスタッフとともに、航空基地の水上飛行機滑走路に現れた。林男爵、山村大佐、鬼塚大佐は日本の民間人通訳小林とともに、指揮官及びスタッフとの協議のため、輸送師団第65輸送部隊の旗艦であるアメリカ戦艦LAVACAに連れられた。
日本の役人は館山地域の陸軍、海軍、民間人の状況を報告し、武装解除に向けて迅速な行動が始められていたことを示した。1945年8月26日以前にこの地域に駐留した軍隊は、およそ20,000の陸軍兵、6,000の海軍兵、陸軍と警察の混成の約2,000を含んでいた。当時1,600の武装警察と警護が市内と軍需品集積場に配備されていた。部隊の調整人員は動員を解かれ、それぞれの家庭へ帰る途中だった。軍と警察は直ちに200の人員まで減じられることが合意された。上級司令部からの指示に従い、指揮官は日本人が24時間以内に、軍事と民間施設とを重ね合わせた地図と報告書を提出するよう指示した。民間人の手にある武器、銃弾、そして門限、公の集会、漁業、学校などに関して日本の役人に特別な指示がなされた。神社、美術品、民間人を苦しめることなどに関して第112RCTに出されていた命令について、日本側にもその通知が知らされた。会談は0930 I(午前9時30分)、館山の代表からの最大限の協力が期待できることをもって終わった。
第112RCT司令部が水上飛行機格納庫に1000 I(午前10時)に開かれた。FO(佐官)の取り決めのもとで、第112RCTは第11空挺師団に入ることとなった。第11軍団指揮官がウィルキンソン大将ととともに、アメリカ戦艦MTオリンパスから約1時間上陸し、上陸地点とその周辺を査察した。第112騎兵と付属要員の波状的な強行上陸は、館山海軍航空隊水上飛行機滑走路に0930 I(午前9時30分)に上陸し、その後海軍航空基地の周囲を確保した。上陸局面での調整人員に問題はなかった。部隊は最初の野営地に移動して、基地の重大な軍事施設と集積場に警備兵士が置かれた。数日前にこの地域を確保していた合衆国海軍の先遣隊は、安堵して駆逐艦に乗船した。司令部は、海軍航空隊本庁舎の建物へ移された。水上飛行機滑走路は、理想的な積み降ろしのスペースとなり、2400 I(24時)までに部隊は完全に積荷を降ろしていた。

1945年9月4日   現地哨戒隊は、館山周辺にある高射砲と沿岸砲を査察し、見つけた銃砲はすべて使用不能にしたと報告された。偵察哨戒は、北の勝山から海岸線の道路に沿って南の神戸村まで、問題なく行われた。館山駅には警備所が設置され、館山市内には合衆国兵士の立ち入りが禁止された。日本陸軍と民間当局は、軍事施設と配置に関して要求されていた詳細な情報を提出した。これらの代表者たちは大変協力的で、すべての命令を実行する真摯な姿勢であった。民間人は米兵士が現れると怖がる印象であり、女性と子どもは我々のパトロールが近づくと走って隠れ、男性と男の子は敬礼やお辞儀をした。個人や集団での敵対的な対応はなかった。上陸した部隊要員は補給品集積所の立ち上げを完了し、多岐にわたる設備備品を海岸から除去した。支援部隊が指定された軍事施設で作業を始めた。第11空挺師団との無線連絡ができるようになり、地域内の連絡網が完成した。技術者が従来の水道システムを使って、塩素殺菌機器をセットして給水所が使用できるようになった。

1945年9月5日   地元哨戒は館山地域での任務を続け、配備されていた火砲の部品や軍事施設を査察した。第11空挺師団通信隊を通じて指令があり、第112騎兵連隊は第11空挺師団偵察隊を木更津飛行場で支援した。この飛行場は、輸送司令部を通じて連合国の戦争捕虜と被抑留者を待避させていたところである。なお、特攻機「桜花」を含むかなりの海軍航空隊の装備品が、館山航空基地で発見された。また、哨戒では、明らかに8月22日のひどい嵐で流され、被害を受けた何本かの橋のことが報告された。道路網では、たいてい貧弱で小さい車両に限定されていたものの、鉄道事業は優秀であることがわかった。
完全な地下の海軍航空司令所が、館山海軍航空基地で発見された。ここには完全な信号、電源、他の様々の装備が含まれていた。神戸村には、1500人を収容できる兵舎が15棟あった大きな海軍砲術学校がある。この学校の備品は、占領に先立って横須賀に移された。館山海軍航空基地にある現存の建物は、概して貧弱であったが、占領部隊へ割り当てがなされていた。部隊では適切な兵舎を作るための建設が始まっていた。第894野戦医療団が立ち上げられ、必要な医療支援が提供されていた。地域の日本人は電力系統を正常にする手助けとなるよう命令されている。LCM 横浜向けの宅配サービスが第11軍団によって設置された。占領体制は問題なく順調に進んでいた。

1945年9月6日   諜報哨戒が割り当てられた部門の詳細にわたる偵察を続けた。第11空挺師団通信隊を通じての指令に応じて、火砲の部品が永久に使用不可能にさせる任務であった。継続的な連絡は日本の当局と取られていた。地域の民間人は、次第に米国との哨戒隊に慣れてきた。館山市は通常の業務を続け、安全上の小さな規制はあるものの漁業の許可がおりることとなった。日本陸軍や海軍航空基地の引き渡し目録が正確であるか、現在、我々の哨戒隊によってチェックされている。民間人の鉄道利用者は、平均で一日1200人から1300人である。しかし、部隊の移動はなく乗客の大部分は通勤者である。
鉄道の駅には、人数と輸送方法に関して通行量をチェックする出先機関が設置された。良好な天気で、部隊の駐屯地での環境改善が進んでいった。日本人の労働支援体制では、駐屯地における清掃を支援するために立ち上げられた。あらゆる種類の現地調達がスムーにおこなう機能が継続していた。

1945年9月7日   指揮官が占領の進捗状況をチェックするため、日本の地元官庁と協議するために関係者を招集させた。武装解除は、迅速に機能しスムーズであることがわかった。すべての日本人代表者は、真摯で精力的な協力姿勢であった。第112RCT哨戒隊は任務を継続し、日本兵たちによって動作不能となった多くの銃が沿岸に置かれていると報告された。第148野戦砲大隊は、重火器部品を使用不能にする任務を続けた。館山海軍航空基地のガソリン在庫量は、第112RCT将校の巡回点検に  よって正しいことが確認された。アソート石油製品の標準55ガロンドラム缶が4500本を置かれていた。
76隻の20フィート2軸の日本の自爆船(特攻艇「震洋」)が千葉半島南部沿岸の多くの地点で見つかった。これらの自爆船は、すでにすべてが武装解除されていた。(以下略)