【論文】林浩二
持続可能な社会のための教育と博物館
林 浩二(千葉県立中央博物館上席研究員)
最近、国際博物館会議(ICOM)による博物館の定義が大きく変わりました。わたし自身、このことに気づいたのはつい最近のことで、国内では、もしかすると国際的にもまだまだ認知が進んでいないのかもしれません。あらゆる館種に通じる定義として、博物館が人類のおかれた環境を意識する表現となったことは誠に喜ばしく、今後はこの定義が具体的な博物館の活動に反映されていくことを強く期待するものです。
ところで、現代社会が直面する課題は一つ「環境」だけではありません。環境に加えて開発や貧困、平和、人権、ジェンダーなど様々な現代的課題に立ち向かう持続可能性の教育(EfS)や持続可能な開発のための教育(ESD)が注目されてきています。日本政府が提案して世界中で実施されている国連持続可能な開発のための教育の10年(UN DESD)は現在進行中で、今年2014年に最終年を迎えることになっています。
博物館が地域社会とその住民に貢献するためには、博物館が取り扱ってきた狭義の資料だけに関心や活動範囲を限定すべきではありません。地域の様々な課題に取り組む住民の関心・問題意識に寄り添い、共に考え、可能な範囲で共に活動・行動することが必要と考えます。
博物館の教育活動が以上のような機能をもつことを想定すると、博物館の存在意義も当然に見直されるべきでしょう。Cameron(1971)は博物館が「神殿」かそれとも「フォーラム」か、という対比を試みました。それになぞらえれば、博物館の機能として「砦」なのか、あるいは「架け橋」なのかを考えてみたいと思います。批判的視点を持つことなく、ある人物や組織を賞賛する施設はまさに「砦」であり、それら施設もしばしば博物館とされています。一方、異なる時代や地域、さらには民族性・宗教などでも異なる文化的背景を持つ人々をつなごうとする博物館は「架け橋」となることが期待されます。
Cameron の時代には、様々な人が自由に集う「フォーラム」を意識することに意味があったのでしょう。様々な社会問題が顕在化している現代においては、博物館にもさらなる役割、現にある様々なギャップを埋める架け橋となることが期待されると考えます。
砦と架け橋という比喩は博物館内部の問題の考察にも有効かもしれません。博物館の研究員の中には博物館を資料を守る砦とみなし、資料至上主義ないし研究至上主義に陥りかねない者もいるように思います。その点で、博物館の研究活動に関して、市民が共有できるテーマを、という浜口哲一の指摘は重要と考えます。博物館教育の立場からは、博物館における研究を博物館職員の研究員が独占するのではなく、市民にも開かれたものとするべきと考えます。
そこで必要なキーワードは「参加・参画」です。限られた人々の参加ではなく、様々な民族性、世代、社会階層の方たちの参加を通じることで、持続可能な社会を創造し維持するための教育を進めることが、博物館にはできるとわたしは信じています。
<文献>
Cameron, D. 1971 The Museum, a Temple or the Forum. Curator 14(1): 11-24.
浜口哲一. 1996. 市民と共有できるテーマを. 所収;神奈川県立生命の星・地球博物館(編).
これからの自然史(誌)博物館. p.126-132. 神奈川県立生命の星・地球博物館, 神奈川県小田原市.
国際博物館会議(ICOM) 教育と文化活動国際委員会(CECA) アジア太平洋地区研究集会 2012年12月1日
国立歴史民俗博物館(佐倉市)での口頭発表原稿の一部を抜粋して改変