【論文】小谷福哲

青木繁が滞在した明治期の小谷家と富崎村

小谷福哲(小谷家当主・青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会)

『ヘリテージまちづくりのあゆみ』収録

1.はじめに  

1904(明治37)年夏、夭折の天才画家といわれる青木繁が、仲間3人とともにやってきて、房州布良の小谷家に逗留し、後に重要文化財となる『海の幸』を描いている。同行者は、恋人福田たね、同郷である坂本繁二郎、友人の森田恒友である。7月15日、東京の霊岸島を出航し、翌朝には館山に到着して、陸路を歩いて布良に来ている。16日に柏屋(吉野家という説もある)に宿泊するも、翌17日には小谷家へ紹介され、8月末まで約1月半、逗留することになる。多分、東京美術学校卒業直後で旅費もなく布良に来たと思われる。小谷家の伝承では、路銀が無くなって困っていたところを、田村医師から紹介されて、小谷家に来たという。当時の当主は喜録といい、私の三代前の先祖である。当時6歳だったゆき(私の祖母)は、「障子に穴をあけて覗いたら、女の人が裸を描いてもらっていた」という。

青木の29年という短い生涯のなかで、布良の滞在が最も素晴らしい日々だったことは、友人の梅野満雄に宛てた絵手紙(梅野絵画記念館蔵)から伝わってくる。この地がいかに素晴らしいかという描写に始まり、手紙の最後には、大作に取り組んでいることが書かれ、『海の幸』への自信があふれている。ここからは、富士山や大島などの伊豆の島々が見える。青木は、阿由戸の浜で海水浴を楽しみ、そして絵を描く喜びを通して心から青春を謳歌していた姿が浮んでくる。布良は神話の里で、古事記などの神話好きだっていた青木は、布良の歴史・文化にも関心をもったようだ。小谷家の隣にある布良崎神社は、当時は8月1日が祭礼であった。喜録は氏子総代だったので、青木も神輿を担がせてもらったかもしれない。村の男たちが1トンの神輿を担いで、海に入っていく御浜くだりという儀礼行為に驚いたことだろう。それまでにない神話へのインスピレーションを湧かせたかもしれない。

1962(昭和37)年に没後50年の青木繁記念碑が建てられた。2011年は没後100年という節目だったので、青木の命日祭「けしけし祭り」に参加するために、福岡県久留米市へ行った。青木が滞在した布良の小谷家当主ということで歓迎していただいた。市内には、生家を復元した青木繁旧居があり、ご近所の保存会の皆さんがお当番をしながら、管理運営をしている。

今布良でも、少子高齢化が進んだ地域活性化の役に立つなら、小谷家住宅を後世にのこそう、という運動が起きている。富崎地区コミュニティ委員会や連合区長会などを中心に、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会が発足している。

2.文化財としての小谷家住宅

小谷家は、江戸期から続いてきた漁家と思われるが、戦時中の1944(昭和19)年に、先代の希六が死去したことで廃業になっている。それまで船主(ふなぬし)であったり、水産物の仲買を仕事にしたりしていたようだ。

言い伝えによると、現在の建物は、1876(明治9)年の布良大火後に再建されたとされているが、建築の棟札などが残されておらず、はっきりした資料もない。当時を知るヒントの一つが、客座敷平書院の欄間彫刻で、明治20年代に活躍した後藤喜三郎橘義信の作であり刻銘がある。二つ目に垂木のとめ釘(まる釘)に洋釘が用いられている点がある。これらのことから1889(明治22)年の布良大火後に再建されたのではないかと推察される。

建物は、床を張った住居部分と釜屋と呼ぶ土間部分が接して建つ分棟形住宅であるが、釜屋部分はすでに建替により当初の景観が失われているが、住宅部分は一部を除いてほぼ当時の状態を保っている。建物の特色としては、火災に対する備えがあげられる。屋根の瓦葺がその最大のものであるが、その他火を使う釜屋部分を漆喰塗りやなまこ壁にしていることは注目される。この建物は、一部旧来の様式を踏襲しつつも、変換する時代を具体的に示した建築であり、明治期の大火後における耐火性能を考慮しており復興建築として価値が高いとされ、2009(平成21)年に館山市有形文化財に指定された。

概ね保存状態は良好であるが、留意事項として、早急に修復が必要な箇所も指摘されている。青木繁を敬愛する全国の画家の皆さんが、当家の保存を目的にNPO法人青木繁「海の幸」会を組織された。青木繁「海の幸」オマージュ展を毎年巡回で開催し、募金とチャリティ販売の売上で修復基金を集めている。目標額3,600万円の半分まで集まったので、2014年4月から修復に着工し、2016年春に竣工・公開の予定である。

こうした一連の動きのなかで、私も初めて当家の納戸や押し入れを調査してみたところ、明治期の手紙やさまざまな資料が見つかった。思っていた以上に、先祖は村の重要な役割を果たしていたらしい。布良全体も、近代水産業発展のうえで重要だったということが分かってきた。まだ調査途上であるが、明治期の小谷家と旧富崎村の一端を紹介したい。

3.マグロ延縄船発祥の漁村今昔

館山市南端の富崎地区(布良・相浜)は、明治期には、温暖な気候と太平洋に面した立地条件から豊富な海産物に恵まれ、漁村として繁栄を極めていた。布良はマグロ延縄船の発祥の地であり、1881(明治14)年には83隻のマグロ延縄船があったといわれる。森田徳平著『房州船方伝』(房日新聞1982年)によると、1909(明治42)年のマグロ水揚げ金額調査では、全国872,342円のうち布良は199,812円とあり、4分の1を占めていたことが分かる。いつしか布良の港には「銭の雨が降る」とまで言われたように、多数のマグロ延縄船が集まり、空前絶後の活況を呈していたという。

冬のマグロ漁は危険なため、水難事故が絶えなかった。明治初年から大正元年までの明治期において、遭難隻数が約90隻で遭難殉職者数推定350人とされ、残された妻たちは「後家」、つまり未亡人になったということで、“布良の後家船”と語られてきたという。 けれども理由はそれだけではなさそうである。マグロ延縄船の造船のためには多額の資金が必要であったので、東京日本橋をはじめ江戸魚河岸にある豊富な資金が投入され、結局は、布良は江戸の魚問屋に縛られていったともいわれている。資金融資とはいっても借金であり、返却金のために厳しい操業が強いられていった。その結果、遭難事故もあいついで起き、1902(明治35)年の大遭難では、8隻が遭難して乗員51名が犠牲者となったのである。冬の夜に真南の水平線上に赤く輝く布良星(学名カノープス)は、遭難した布良の漁師たちの魂であるとの伝承が全国に知られている。

しかし、近年マグロはおろか他の海産物も獲れなくなってきた。現在の富崎地区には漁業協同組合が2つあるが、漁船も10数隻と大激減し、専業漁師も数が少ない。唯一の地場産業である漁業が成り立たなくなっている。地区は約500世帯、人口は約1,000人と、明治期の3分の1に激減し、少子高齢過疎化が進み、老齢化率47%となっている。仕事もないので、若者は流出し、市街地に住んでいる。そのため100年続いた富崎小学校は、2012(平成24)年に統廃合され、現在休校になってしまった。

もう一度、あの頃の活気を取り戻したい。せめて、子どもたちに誇りと元気を伝えたい。その願いが小谷家住宅の保存運動への原動力である。小谷家住宅を修復して、“青木繁「海の幸」誕生の家”という名称の記念館を起爆剤にして、富崎地区全体、ひいては館山市の地域振興につながれば幸いである。

4.漁村のリーダー、小谷家の先代・治助

青木繁が滞在した当時の当主は喜録であるが、その先代の治助から見てみよう。

小谷治助は、1837(天保8)に布良の黒川家に生まれ、後に小谷市松(喜六)の婿養子となっている。明治に入って漁師頭や1884(明治17)年に布良村会議員、また相浜村との合併後に富崎村会議員、そして富崎村土木委員・衛生委員などの要職を歴任している。また、日本赤十字社の正社員であり、布良の大火の時だけでなく七浦沖漁船遭難の時や富崎村の避病院設立に関わって、困窮している人びとへの寄付金などで社会貢献をしている。さらに、産業振興では安房水産会の富崎村委員であり、安房の近代水産業にとって先駆的な水産会社である房総遠洋漁業株式会社の株主になっている。

当時の富崎村がかかえていた漁業問題を解決するために、治助は神田吉右衛門村長とともに、「富崎村布良区水産談話会」をおこなっている。館山市博物館所蔵の会議録によると、船主や漁師のあり方や漁船遭難防止のこと、漁船改良などの問題をどう解決していったらいいか、さまざまな立場の人が意見交換をしている。なかでも治助らのような人びとが熱心に取り組んだことで、日本の近代水産業が発展していったのかもしれない。1902 (明治35)年、治助は富崎村長石井嘉右衛門から銀杯とともに授与された感謝状には、「明治初年元布良村漁師頭に選任され以来漁業に関する諸種公務に従事した」などと記載されている。その年の秋に治助は65歳で亡くなっている。

5.内村鑑三にも示唆を与えた神田吉右衛門村長

布良の村政において、治助とパートナーとなった人物は、3つ年上の神田吉右衛門である。神田は旧富崎村の発展にとって重要なリーダーであり、富崎小学校の入口に大きな顕彰碑がある。その功績は、治助らが神田の示唆を受けながら、村政を支えていたからといえる。

神田は、満井武兵衛の子として1834(天保5)年に生まれた。25歳で神田家の養子となり、吉右衛門と名乗った。1873(明治6)年、39歳のときにアワビ漁や売買などを村の共有財産にして、その収益は小学校の授業料減額や教科書貸与などの資金に使い、近隣の村の子どもたちにまで奨学金を援助するという画期的な政策をおこなった。この頃、小谷喜録は小学校に入っていたので、その恩恵を受けたと思われる。

また、全村の大火では復旧事業に奔走し、その後のコレラ流行でも村民の先頭に立って予防に努めた。そして、1882(明治15)年、48歳の神田は器械式潜水でのアワビ漁を村営事業として、収益はそっくり公共事業に使い、なかでも水産増殖や遭難船の救済、あるいは漁師が助け合っていくためのマグロ漁遭難救助積立金制度を整え、全国でも模範的な漁村にしていった。このような取り組みは当時、45歳の治助らに村政運営の模範を示し、1889(明治22)年に布良と相浜が合併して富崎村となったときに、神田は遭難しやすい漁船の構造を変えて、当時としては革新的な布良型改良漁船のマグロ延縄船を誕生させた。このような水産改革の動きのなかで、小谷治助も村会議員になっていった。

こうして村民から尊敬を集めていた神田は、推挙されて1893(明治26)年から1899年までの6年間、富崎村長(59歳から65歳まで)を務めている。そのなかで特筆すべきことは、1896(明治29)年から4年かけて3回の富崎村布良区水産談話会を開催し、小谷治助らとともに水産振興のために求められる村政のあり方を提起していった。1889(明治32)年には、近代水産業の先駆者である関澤明清の遺志を継いで実弟鏑木余三男や国会議員であった小原金治らと房総遠洋漁業会社の役員になっている。小谷治助が亡くなった1902(明治35)年、神田も69歳で亡くなっている。

キリスト者として著名な内村鑑三は、自著の中で「余が聖書研究に従事するに至りし由来」として、1890(明治23)年8月に水産伝習所の教師として29歳で布良実習に来た際に、56歳の神田吉右衛門と出会ったことが人生の転機となったと書いている。このとき神田が言ったことは「いくら漁具を改良し、新奇な網道具を工夫しても、彼等漁夫を助けてやりことはできない」「なによりも先に漁師を改良しなくてはだめだ」ということであった。そのことで内村は神田が布良の漁師たちと実践してきた活動とその言葉に、内村は強い感銘を受け、「ある決心を強め…本職として従事した職をなげうった」と記している。その後に、水産教育者から宗教家へと導かれることになった。

6.『海の幸』誕生を支えた小谷喜録

小谷治助の長男が喜録である。1864(元治元)に生まれた喜録は幼名市松といい、10歳の時に寺院龍樹院が布良小学校となり、卒業した後は上真倉村(館山市)の石井定吉に師事し、その後千葉師範学校教員の手嶋春治や小池民治について教育学を修めていた。そして、さらに学ぶために上京したと思われるが、23歳までどのように過ごしていたかは不明である。

23歳の頃に千葉県から教員(授業生)として地方免許状(4年間有効)を得て、1888(明治21)年2月には、富崎尋常小学校教員(授業生)になった。また、治助と喜録の両名の蔵書印が押されている教科書が見つかっている。それは小学校で使用されたものとは考えにくく、物理学や地理学などの教科書はどこかの上級学校で学んだように推察される。やはり喜録は東京に出て、水産関係の勉強をしたのではないかと思われる。つまり、青木繁と出会った40歳の小谷喜録という人物は、単に船主というだけでなく、教育者であり、漁村にあっても文化や芸術、なかでも俳諧(角田竹冷や前田伯志などとの交流)に造詣が深かった。

そして、2年後の1890(明治23)年4月、喜録は教員を辞めている。前年11月にあった布良大火では自宅も含め、74戸が焼失している。父の治助は大火後の復旧事業で役職が忙しく、結局、喜録は教員の職を辞して家業を継ぎ、自宅の再建にあたったのではないかと推察される。

1891(明治24)年、喜録27歳が大日本水産会会員として認められた年に、石井嘉右衛門村長の娘マス17歳と結婚している。義父が村長であった1902(明治35)年の村議会予算書の一部が当家から発見され、その宛名は「村会議員小谷喜録殿」と記されている。喜録38歳のときに村会議員であったことがわかったものの、いつから議員であったかは知る手掛かりがなかった。その後の調べで、喜録の葬儀に村長が述べた弔辞が見つかり、その記載から1901(明治34)年4月に村会議員に初当選したとわかった。弔辞の内容を他の資料と重ねると、喜録が6期連続で村会議員を務めていたことが確認できる。青木繁が滞在した1904(明治37)年には、2期目の村会議員で40歳であったのである。

喜録27歳で大日本水産会の会員に推挙された背景には、東京にいたころに水産関係者との交流があった可能性が推察される。父治助が東京の水産伝習所と同じ住所から関係者に出した手紙が残っている。神田吉右衛門の後に満井武平が3カ月ほど村長を継ぐが、神田が亡くなった年の1902(明治35)年に、喜録の義父石井嘉右衛門が村長になっている。喜録はその前年に村会議員になっているが、義父の村政を支えるとともに、神田吉右衛門や父治助の水産改革を継続していく村議会にするためにも、布良漁業組合長や富崎村消防組頭になったと考えられる。弔辞には、水害や火災の警防に尽力していたことが、結果として1903(明治36)年3月24日に大日本帝国水難救済会布良救難所看守長を命じられたと述べられている。当時の東アジアの情勢をみると日露戦争前夜の緊張状態のなかで、「大日本帝国水難救済会布良救難所」の役割は大きな意味があった。看守長とは警察的な仕事なので、誰にでもできる仕事ではなかったと思われる。

当時の家族は、喜録と妻・マス、10歳の娘種子と6歳の養女ゆき、母のキサ。後に種子は千葉女子師範学校に進学し、東葛飾郡川間尋常小学校の教師となるものの、21歳で早逝している。喜録は1926(大正15)年に62歳で亡くなっている。葬儀に際して、村民を代表して弔辞を述べた渡邉福治郎村長は、関東大震災のとき被災民の救助に力を尽くし、布良漁港の復旧工事では昼夜を問わず人力を提供し、監励したということを強調している。

1923(大正12)年6月から、なぜか3ヶ月間だけ富崎村助役に就任している。関東大震災の9月1日には、喜録が助役として、全力をあげて復興のために奔走したことが『大正大震災の回顧と其の復興(下巻)』(千葉県罹災救護会昭和8年)に記載されている。その激務の心労で病気になり、助役を辞めることとなり、その後療養を続けたものの亡くなったのである。

7.関澤明清の書簡と『日本重要水産動植物之図』

水産伝習所長関澤明清から小谷喜録宛ての書簡が見つかった。「本所生徒が御地出張中はご多忙のところ、特に漁具その他の説明でお世話になり満足している」というお礼状である。

関澤明清は近代水産業のパイオニアといわれ、サケ・マスの人口ふ化や缶詰技術、アメリカ式捕鯨銃の導入、そして揚繰網漁の改良や水産教育の推進などで近代水産業の大きな貢献をしている。水産伝習所実習は、1890(明治23)年8月3日から29日にかけて、千葉県根本村(現南房総市)と太海村(現鴨川市)で実施され、根本村と隣接している布良がマグロ延縄船漁発祥の地であったことで、喜録らの指導を受けたのであろう。学生の世話や指導を喜録がすることになったのは、東京にいたころに水産関係者とそれなりの交流があったのではないかと考えられる。

さらに書簡には、お礼として『日本重要水産動植物之図』を贈ると書いてある。小谷家の室内に掲示してあるカラー印刷の魚貝図がそうであった。明治21年農商務省制作とあり、当時の貴重なものである。青木が友人の梅野満雄に書いた手紙のなかで40にもおよぶ様々な魚貝類などの紹介をしている。どうしてこれだけの具体的な海産物が具体的に書かれているのか不思議であったが、これを見て、多くの魚名を覚えたのではないかと想像できる。