【論文】長谷川曾乃江

戦争遺跡を活かした館山のエコミュージアム

長谷川曾乃江(中央大学兼任講師)

『ヘリテージまちづくりのあゆみ』収録

1.はじめに

房総半島南部は江戸時代から政治的・経済的に東京(江戸)との密接な関係を持っており、明治以降も帝都・東京から近距離にあるため、軍事施設が多かった。とりわけ東京湾の入口に位置する安房地域は、対岸の三浦半島とともに砲台が設置されるなど、「東京湾要塞」の一部を成していた。館山市では、洲崎第1砲台(1932年完成)、洲崎第2砲台(1927年完成)、すぐ北側の南房総市(旧富浦町)に大房岬砲台(1932年完成)が造られ、館山海軍航空隊(1930年)、館山海軍砲術学校(1941年)、洲ノ埼海軍航空隊(1943年)及びそれらの関連施設が数多く置かれた。

館山市では1990年頃から、地元の歴史教育者や市民有志がこれらの戦争遺跡の調査研究活動を積み重ねてきたが、そうした流れを受けて2002年には、市行政が戦争遺跡を平和学習拠点としてまちづくりに活用する構想を具体化しはじめた。この時の調査報告書『平和・学習拠点形成によるまちづくりの推進に関する調査研究―館山市における戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究―』には、戦争遺跡を他の歴史・文化遺産(古代以来の安房文化や戦国時代の里見氏関連史跡等)とともに「地域まるごとオープンエアミュージアム・館山歴史公園都市」として保存・活用していく具体的なプランが提示されている。

この「地域まるごと」という概念は、「エコミュージアム」という理念に発想を得ている。「エコミュージアム」は、フランスで生まれた「エコミュゼ(Ecomusée)」の英語訳で「環境博物館または生態学博物館」(鶴田総一郎)・「生活・環境博物館」(新井重三)等の訳語が与えられてきたが、日本では1990年代以降、各地でまちづくり計画に採用されてきた。その意味は伝統的な箱モノ管理に限定された「ミュージアム」事業とは異なり、地域に存在する自然遺産・文化遺産・産業遺産などを行政・住民・専門家の連携によって(箱モノも含めて)ネットワーク化し、それらを保存・活用すると同時に地域の活性化につなげていこうとする活動とその成果をさす。

館山における戦争遺跡とエコミュージアムの結びつきには、次のような特徴がある。

(i) 2000年代の比較的早い段階で市行政がエコミュージアム構想を明確に打ち出した。
(ii) その受け皿として、民間団体や市民による長年の保存運動を通じてエコミュージアム的志向が自然に生まれていた。
(iii) 戦争遺跡に対するイデオロギー的過敏さが他の地域より少なく、市の政策に対して組織的な反対運動がなかった。

本稿の目的は、館山市における戦争遺跡の保存・活用が、どのような経緯や背景でエコミュージアム化されてきたのかを詳しく考察することである。

2.館山市の戦争遺跡への取り組み

① 文化財保護法による戦争遺跡再評価と館山市の戦跡調査

1995年2月に文化財保護法が改正されるまで、近代戦争遺跡は文化財指定の対象ではなかった。また、遺跡保護の基準となる「周知の遺跡」の時代範囲は都道府県によって異なり、千葉県ではおおむね中世までとされたため、館山の戦争遺跡は法的保護の外に置かれていた。

しかし、1995年に同法の史跡指定基準が改正され、第二次世界大戦終結時までの戦争遺跡も文化財指定の対象となると、1996年度から文化庁による「近代遺跡総合調査」が始まり、1998年度には「政治・軍事」分野を対象とする所在調査(戦争遺跡の所在を都道府県に問い合わせ確認する調査)が実施された。こうして戦争遺跡が近代の歴史を理解する上で欠くことのできない重要な遺跡と評価されるようになると、館山市も独自の指針による文化財指定の条件整備を進め、1980年代に市立博物館が行った戦争体験者からの聞き取り調査などを基礎に、1997年から2ヶ年かけて戦争遺跡の所在確認調査を行った。

その結果は1999年7月の館山市文化財審議会で審議され、建造物として指定に相当する戦跡はないこと、その他の遺跡については史跡指定は時期尚早だが、地域の歴史遺産として評価できるよう継続調査が必要との意見が具申された。

一方、「戦後50年」の節目となった1995年前後には、地元の教員組織や市民が中心となって「戦後50年・平和を考える集い」実行委員会を結成し、戦争遺跡のフィールドワーク、講座、企画展などを自発的に展開するようになった。また、館山市広報のグラフ誌『ルックたてやま』でも特集「館山にとっての戦後50年」を組み、市内の戦争遺跡を紹介した。こうして、市民と行政がそれぞれの活動を通じて、館山の戦争遺跡を見直していく契機となった。

これらの活発な動きを背景に館山市は2002年、(財)地方自治研究機構と共同調査研究事業を行った。その成果が上にあげた調査報告書『平和・学習拠点形成によるまちづくりの推進に関する調査研究―館山市における戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究―』である。ここでは、将来、文化財としての保存及び活用が見込まれる戦争遺跡47ヵ所がリストアップされた。文化庁が示した近代遺跡評価方法に従うと、Aランク(近代史を理解するうえで欠くことができない遺跡)18ヵ所、Bランク(特に重要な遺跡)13ヵ所、Cランク(Aランク・Bランクの遺跡群に属する遺跡のうち残存状況の悪いもの、あるいは消滅等により確認できないもの)16ヵ所という評価が下された。全国的にも類例が少ないAランクの遺跡が館山に数多く現存していることがわかったのである。

 ② Aランク遺跡とその保存・活用

Aランク遺跡として重要性が認められたものは、館山海軍航空隊(通称「館空(たてくう)」、以下「館空」と略)や館山海軍砲術学校(通称「館砲(たてほう)」、以下「館砲」と略)に属する遺跡群、及び西岬地区に設置された東京湾要塞の砲台等である。
「館空」は1930年、横須賀・佐世保・霞ヶ浦・大村に続き、全国で5番目の航空隊として開設された。現在は海上自衛隊館山航空基地の敷地となっている。日中戦争時、この航空隊で訓練され,その後木更津航空隊所属となった九六式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)部隊が「渡洋爆撃」と呼ばれる中国都市への無差別攻撃を実施し、「館空」は大陸に向けての航空戦略の重要拠点となっていった。また、ここの滑走路は房総特有の西風を強く受けるように配置され、航空母艦の短い甲板からの離着陸訓練(タッチ・アンド・ゴー)に最適であった。ハワイ真珠湾攻撃に投入されたパイロットたちは、この航空隊で高度な操縦訓練を受けていたという。本土決戦に備えては、帝都に近い房総半島全域が最重要地域となったため、「館空」とその付属施設である赤山地下壕の周辺で、民間人や朝鮮人を動員して巨大な燃料タンク基地や掩体壕の建設が突貫工事で進められた。

館山海軍航空隊赤山地下壕跡(以下、「赤山地下壕跡」と略)は「館空」本庁舎(現在の海上自衛隊館山基地本庁舎)のすぐ南側にある標高60メートルの小高い山で、現在も凝灰岩質砂岩などから成る岩山の中に、総延長2キロメートル近くの地下壕と燃料タンクが残っている。この地下壕に関わる資料は不明なため、建設時期や建設方法、どのような施設として利用されていたのかは明らかではない。しかし、「館空」の戦闘指揮所や野戦病院として利用されていたという証言があり、また壕内部の形状から、司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫等の施設を合わせ持つ、全国でも珍しい航空要塞的な壕だったのではないかとも考えられている。

赤山地下壕跡の裏手にあたる宮城地区には戦闘機用掩体壕があったが、現在は鉄筋コンクリート製掩体壕が1基残っているだけである。これは河岸段丘の地形を利用したもので、屋根部分に土が盛られ草を植えてカモフラージュしてあるため、上空からは見えづらい。

「館砲」は、海軍が行う陸上戦闘の将兵養成機関として1941年に開校された。入校後の訓練は陸戦・対空・化学兵器の三科に分かれ、化学兵器科では,海軍唯一の細菌戦・毒ガス戦の訓練も行われていた。

洲崎(すのさき)第1砲台は、1932年に竣工した45口径30センチカノン砲2門入り砲塔1基(巡洋艦「生駒」の主砲を転用)が置かれたもの、第2砲台は1927年に竣工した7年式30センチ榴弾砲4門が配備されたものである。また、これらの砲台を主とした砲弾や炸薬を貯蔵管理していた重要施設が、洲崎弾薬支庫であった。

これらAランク遺跡の中で館山市はまず、赤山地下壕跡の保存・整備・公開に取りかかった。同地下壕は全国的に見ても大規模な防空壕跡であり、館山市を代表する戦争遺跡であると評価されたからである。この場所は戦後払い下げられた市有地(公園用地)だが、長い間放置され、壕内にはキノコの研究・栽培のために30年以上居住している人がいた。市民団体による見学・学習もその人の承認を得て行われていたが、当人の死亡に伴い地権の問題はなくなった。地下壕跡の活用については市議会でも取り上げられ、行政による模索が始まった。市当局や市議会総務委員会が視察を行い、安全対策などを検討し始めた。

その結果、前述した2002年の(財)地方自治研究機構との共同調査研究事業が実現し、翌年には安全性確認のため本格的な地質調査が実施された。その後、従前の見学活動をふまえて安全対策を講じた一般公開ルート(約250メートル)を設定し、供用に向けて危険箇所の補強工事と照明・放送設備等の整備工事を行った。2004年には市による一般公開が開始され、入壕者の安全と円滑な管理運営を図るため、都市計画課が月1回の定期点検と年1回の専門家による詳細な点検などを行うようにした。また、文化財としての管理のため、教育委員会生涯学習課が地下壕跡の北側にある社会教育施設(通称「豊津ホール」)を提供し、受付業務・駐車場・トイレ利用に役立てるようになった。見学者は入壕の際、同ホールで注意事項を確認し入壕届を提出してから、安全のためにヘルメットの着用が義務づけられている。