【論文】杉田明宏
「平和の文化」の実践を学ぶ~館山フィールドワークの意義
杉田明宏(大東文化大学文学部教育学科准教授)
1.はじめに
「平和の文化Culture of Peace」 とは、人間も動物も含めたあらゆる生命を傷つけたり奪ったりしない、そのために争い・対立を暴力によってではなく、対話によって解決していく―そのような考え方や行動の仕方、生き方、伝統、価値観のことである。この着想は、東西冷戦構造の下での軍拡競争が終焉した1990年代にユネスコ(UNESCO国際連合教育科学文化機関)を中心として理論的実践的に育まれてきた。戦争の世紀といわれた20世紀から新たな世紀を迎えるにあたり、ユネスコの提唱を受けて国連は2000年を「平和の文化国際年」と宣言するとともに、21世紀の世界に「平和の文化」を実現するため、2001~2010年を「世界の子どもたちのための平和と非暴力の文化国際10年」と定めた。このイメージを共有しながら、ユネスコやユニセフ(UNICEF国際連合児童基金)といった国際機関、世界各国や日本のNGO、NPOや個人が、「平和の文化」を日常の行動様式や政治経済システムの中に実現すべく多様な活動を続けてきた。
ところが、2001年9月11日のアメリカ同時多発事件を境に世界は再び暴力の嵐に飲み込まれ、灯されたばかりの「平和の文化」のともし火は吹き消されてしまったかのようである。しかし目を凝らすならば、戦争の20世紀の多大な犠牲の中で磨き上げられてきた「平和と非暴力の文化」は、暴力の嵐から抜け出す一筋の道を明々と照らし出していることに気づくはずである。
ノルウェーの政治学者で平和研究・紛争研究の第一人者であるヨハン・ガルトゥングは、戦争と平和という伝統的な2分法とは全く異なった、平和概念を再定義した。平和=戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない「積極的平和」を提議し、平和の理解に画期的な転換をもたらした。また、元ユネスコ平和の文化局長のデビッド・アダムスは、「平和の文化」を社会に実現するためには、ピースツーリズムをはじめとする平和産業の創出が急務であると訴求している。
私および大学のゼミ研究においても、過去から現在の戦争と平和の問題を中心にしつつ、貧困や人権抑圧、環境破壊、子どもの発達阻害等、幅広いすそ野から、平和学(平和研究)と心理学・教育学・歴史学等の研究成果を総合し、日本・世界の現実を踏まえながら、平和創造の道筋を探ってきた。そのなかで、「平和の文化」の理念と内容がゼミの研究内容やアプロ-チと関連が深いと考え、また、世界の人々の運動に参加する観点から、日本ユネスコ協会連盟と【Peace Partner】関係をむすび、「平和の文化」の研究と普及に取り組んできた。
「平和の文化」の10年の中で、ゼミの活動は、学外の平和資源を積極的に活用しつつ、浦和、板橋、成増等の地域での「平和の文化」づくりの具体的諸活動に参加しながら、学内と学外、学習・研究と社会活動、理論と実践の循環によって展開する方法論を追究してきた。近年は、ワークショップやフィールドワーク等の新しい参加型の方法や、教材づくりのスキルといった、教員や社会の働き手となるために必要な力量を習得することにも力を入れている。そうしたなかで、2006年から隔年で館山ゼミ合宿を行い、NPO法人安房文化遺産フォーラムの実践に学ぶ機会を得てきた。
2.足もとからの戦争認識
館山のフィールドワークで最も意義深いことは、まず東京圏の戦争遺跡群を学び、自分たちの足もとから戦争の問題をとらえるということがあげられる。房総半島の南端、東京湾の入り口に位置するこの地域は、昔から海外との接触の機会が多く文化交流の地であると共に、帝都東京を防衛する重要拠点でもあった。近代以降は海軍の拠点地域であり、とりわけ館山海軍航空隊・洲の埼海軍航空隊・館山海軍砲術学校などが置かれ、パイロット、落下傘部隊の養成・訓練、ゼロ戦など軍用機の機体整備兵の養成等の機能が集中していた。戦後、そうした機能は、海上自衛隊館山航空基地へと引き継がれ、基地の町という側面を持ち続けている。
「戦争・平和=沖縄・広島・長崎など遠くにあるもの」という認識を脱し、私たちが日常を送っているこの東京圏も重要な現場であり、多様な学習課題が存在するということに気づくことは重要である。そのことは、例えば学校教育や社会教育の平和学習を組み立てる上でも、子どもたちにとって身近な地域の問題と結びつけながら構想することに役立つであろう。
3.戦争末期の学習の充実
次に、学習内容面での意義がある。4年生にとっては、前年に訪れた東京大空襲の跡、松代大本営跡、沖縄と比較しながら学ぶこととなり、3年生にとっては初めての本格的なフィールドワークであったが、戦争展への取り組みの中で触れた特攻や沖縄戦との関連づけが可能であったはずである。
これらは、アジア太平洋戦争の末期、1944~45年の一連の出来事の記憶の現場である。サイパン陥落後の’44年7月から本土決戦に備えて松代大本営が計画され、11月11日に着工された。’45年3月10日の東京大空襲の後、3月23日に沖縄戦が始まると、4月に沖縄西方海上を覆う米艦隊を神風特攻隊が攻撃し、桶川飛行学校からも12人の若いパイロットが飛び立った。松代大本営建設のための時間稼ぎの沖縄戦が6月下旬にほぼ終結すると、館山では7月から本土決戦準備に入り、敵上陸を阻止するために主な抵抗拠点に陣地や塹壕を建設し特攻艇を配備していった。そして8月15日の敗戦後、9月3日に、その館山に米軍が占領軍として上陸し、本土で唯一の直接軍政が4日間のみ敷かれたのである。したがって、今回の館山学習は、こうした終戦期のプロセスの重要なpiece(破片)を埋める作業であるとともに、後期の沖縄学習の理解を深めるものでもあった。
また、最初に訪れた大巌院の「四面石塔」に刻まれたハングルの「南無阿弥陀仏」は、秀吉の「朝鮮侵略」の犠牲者や、日本に拉致されて亡くなった朝鮮人たちへの鎮魂の意味を持つものではないかという解釈について学ぶことができだ。これは江戸時代という異なる時代のエピソードであるが、平和形成にとって重要な「紛争と和解」という普遍的課題に示唆を与える要素であるともいえよう。
4.NPOとの連携
さらに館山は、全国的にも珍しい平和ガイドのNPO法人安房文化遺産フォーラムが活動を展開しており、中心メンバーたちの教育実践や歴史研究の蓄積に基づく充実した現地学習ができる。戦争と平和の伝え方を学ぶこのゼミにとって、多様な平和のロールモデルに接する機会として学ぶことが多い。
しかも、このNPOはユネスコの「平和の文化」Culture of Peaceを活動の理論的支柱に据えており、前期ゼミで学んだ「平和の文化」に関する基礎学習を、地域の現実の中で深める機会にもなるものであった。さらに、地域の観光産業と連携をも追求する活動スタイルは、ガルトゥングらの平和研究の中でも注目されているPeace Tour(平和を学ぶ旅) の実践例としても考えることができて興味深い。これからは大学現場の学究においても、ますますNPOとの連携が期待される。